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どうもうまくいかない・・・ [映画・文学・音楽]

 お年玉年賀はがきの当選番号が発表されました。私のは全滅です。
https://mainichi.jp/articles/20220116/k00/00m/040/073000c

 いい天気なので、買い物に行ってきました。
 大雪だ、津波だ、コロナだと騒がしい世の中ですが、とりあえず本日中にwildさんに「試作品」を送ると約束してしまったので、せめて形だけでもと精進します・・・。(@_@;)

 wildさんから「協力要請」という名の命令で書き始めた『山波』原稿、どうもうまくいかないというか、そもそも作品と言えるものなのかどうかも判別がつかない。うだうだやっていても仕方がないので、とりあえずフィニッシュして、wildさんの判断を待とうと思う。半世紀以上も交流が続いている知り合いなので、軽い気持ちで「協力するよ」と言った一言が大変なことになっちゃったなあ・・・。(^^;
ゴジラ.jpg
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「ドライブ・マイ・カー」を見た [映画・文学・音楽]

 新型コロナの1/14感染者数は全国で22000人超。
 東京、大阪、沖縄、愛知、神奈川で1000人超。東京の4051人というのは久しぶりに見る数字で、今日1/15は5000人突破ですかねー。人と会う予定、どこかに遊びに行く予定、すべてがペンディングです。こうなると、昨年末、水上温泉に行ったのは先見の明があるということになりますが、なんだか素直に喜べません。(^^;
 KSさんや久しぶりにSYさんと会ってバカ話でもしたいのですが、今の状況では難しいかなあ。残念。

 映画「ドライブ・マイ・カー」が全米映画批評家協会賞の作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞を受賞したというニュースが流れています。
https://www.youtube.com/watch?v=rpjzaZn4_V0
海外のサイトに「プロモーション・オンリー」と透かしの入った動画があったので、見てみた。日本語、韓国語、手話などすべてのシーンには英語字幕が出るのだが、私の英語力だと少し長い台詞は脳内翻訳の途中で字幕が消えてしまうので、韓国語と手話の細かいところは推測するしかない(もちろん、日本で上映されているものには当たり前だが日本語字幕が出るのだろう)。原作は村上春樹の短編なのだそうだが、他の短編の要素も入っているらしい。村上作品はたいして読んでいないので、どこがどの短編からのものなのかは私にはわからない。ただ、こういうタイトルをつけているのだから骨子は同短編のものなのだろうと推測。
 主演の西島秀俊は妻を失った喪失感と最後の言葉を聞いてやれなかった後悔、そこから徐々に再起していく感じをうまく出していた。もともと派手ではないが陰気でもない俳優なのでキャスティングの勝利だろう。運転手役の三浦透子(聞いたことのない女優)も無口な女性をうまく演じていた。岡田将生は、もう一つかな。内に秘めた若さのどろどろ感がもう一つほしいところだ。
 とくに大きな山場があるわけでもなく話は淡々と進むのだが、常に何かひっかかる感じがあって、次ぎの展開が気になる。結果、三時間近い長丁場を飽きせず見せるのは監督の力量か。ファンタジー恋愛とかCGアクションとか戦いと殴り合いばかりの昨今の映画の中では年寄りも落ち着いて見られるいい映画だった。ただ一点不満があるとすれば、西島の(亡き)妻を演じている霧島れいかの脱ぎ惜しみ。セックスのオルガの後で彼女の心の中に物語が浮かぶ。寝物語の中で彼女はそれを西島に語る。翌朝、当人はそれをすっかり忘れてしまっているのだが、西島は覚えていて書き留め戯曲が出来上がる。とても仲のいい夫婦に見えるのだが、西島は、妻が他の男とも寝ていることを知っている。というところがキーポイントなのだから、やはりベッドシーンは仲睦まじい夫婦のイメージが必要で、もっと濃厚でないと西島の喪失感が薄らいでしまう。脱ぎ惜しみしている場合じゃないだろう。これだったら過去にヌードになったことがありそれなりの演技力もある大塚千弘、村川絵梨、三津谷葉子、瀧内公美あたりを起用したほうがよほどしっくりきたと思うのだが。

名称未設定 1.jpg

評価 ☆☆☆★★
☆★は、尊敬する映画評論家・双葉十三郎さんの採点方法のパクリで、☆=20点、★=5点(☆☆☆が60点で「可」。合格というか、まあ許せるラインということです)
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あっという間に正月明け(^^; [映画・文学・音楽]

 あっという間に2021年が終わり、あっという間に正月三が日が明けちゃいました。まさか、このままあっという間に2022年が終わっちゃうんじゃないでしょうね?(^^;
 コロナ対策無知無能無策の行政による「自粛」要請が続いた2021年。去年の回顧というわけでもないのですが、とりあえず、昨年見た映画、ドラマの忘備録を載せておきます。
「夏への扉」☆☆☆
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/archive/c35376155-1
「ハイ・ヌーン」☆☆☆
「ジャッカルの日」☆☆☆★★★
「ジュリア」☆☆☆☆
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-09-13
「天外者(てんがらもん)」☆☆☆
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-07-20
「水曜日が消えた」☆☆☆★★★
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-01-26
 このほか独立した記事にはしていないが、邦画では、「地獄の花園」「黒執事」なんてのも見た。前者は永野芽郁さん、後者は山本美月さんのアクションシーンは超絶おもしろいのだが全体としては突っ込みどころ満載の凡作。押井守監督の「東京無国籍少女」なんてのは清野菜名さんのアクションは素晴らしくいいのだが凡作以下の駄作。押井監督はアニメはおもしろいのだが、実写映画はダメだなあ。いずれにしても、この3作とも再度通しで見ることはないだろう。
 その他では、「前田建設ファンタジー営業部」「ソワレ」(いい映画だが暗い話なので家で見るのは辛い。芋生遥さん好演)「アルプススタンドのはしの方」「メロウMellow」「殺さない彼と死なない彼女」「カツベン!」あたりがギリ合格か。ヒットした「今日から俺は劇場版」はテレビドラマのスケールを拡大しただけの焼き直しパターンで退屈。「るろうに剣心」は3作も作ってやっと終わったと思ったらさらに2作も作った。私は見てしまったが、見なくても全く問題はない。女子高生たちの麻雀対決「咲-Saki-」は長野県大会を扱った劇場版がおもしろかったので、「咲-Saki-阿知賀編劇場版」も見たが何だかオカルト対決大会のようになってしまってつまらなかった。さらにひどかったのは「妖怪大戦争」。1968版、2005版とすべて見ているが(暇だねえ)どんどんつまらなくなっていくのは、どうしたことだ。今回の2021版はとくに出来が悪く、見るのは時間の無駄とはっきり言っておきたい。
 新作洋画はCG過多のアクションファンタジーものばかりなので、見る気がしないしほとんど見ていない。「ゴジラVSコング」など今さら感満載で時間の無駄だった。そもそも、あれはゴジラではない(きっぱり)。「007」の新作も公開されているが、これも今さら感があって見ていない。見た洋画は上に書いたフレッドジンネマンの諸作のほかは、「アラビアのロレンス」「ベン・ハー」「大いなる西部」など過去の超大作や「西部戦線異常なし」「情婦(検察側の証人)」「シェーン」などの古典名作。ちょっとのつもりがつい最後まで見てしまうのが、名作映画の力というものなのだろう。

 ともかく老人は「自粛」という行政命令なのだが空中生活者なので庭もなく、部屋も狭い。要するにやることがないのである。そのせいでテレビドラマなどは例年以上に見た(とはいえ全話通しで見たものはほとんどない(^^;)。「ドラゴン桜2」「TOKYO MER」「ハコヅメ」などはそこそこおもしろく見られたが、「ドラゴン」はやはり「1」ほどにはおもしろくなかったし、「MER」は城田テロリストの説明不足、「ハコヅメ」は戸田恵梨香が引っ張ってきた謎の真相がくだらなくて減点。「ナイトドクター」「真犯人フラグ」「ラジエーションハウス2」「言霊荘」などは第1話で脱落、「結婚届に判を捺しただけですが」「アバランチ」「死神さん」などは数話で転落。「判捺」はおもしろそうな設定だったのだがヒロイン清野菜名さんの妊娠が(これはこれでおめでたいことなのだが)ドラマ製作の制約になってしまったのが痛い。後半など妊婦服のような服ばっかりだった。「孤独のグルメ」「ゆるキャン△」「ごほうびごはん」などのテレ東ドラマは見ても見なくてもどっちでもいいようなドラマなので暇つぶしで何話か見た。それ以上でも以下でもない。刑事ドラマ専門チャンネルのテレ朝ドラマは基本的に見ていない(刑事物でない「ドクターX」は第1話と最終話だけ見た)。話題になった「日本沈没」は、文字通り沈没。すでに映画2回、ドラマにもなっているので現代風味を加えようと地球温暖化を絡めようとしたのだろうが、うまくいっていない。
 NHK-BSで6時間にわたって放送された歌舞伎版「風の谷のナウシカ」は、思っていたよりは退屈せずに見られた。イマイチのところももちろんあるが、スペクタクル歌舞伎として見れば悪くない。古典歌舞伎だって作られたときは新作だったわけで、こうした試みはもっと評価されてよい。
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-02-06
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-02-07

 2021年に記憶に残った俳優というと、男優では「天国と地獄」「岸部露伴は動かない」の高橋一生の1人勝ち。敢えて2番目を選ぶなら中村倫也か。上記「水曜日が消えた」や「人数の町」はそれなりにおもしろかったがクソ映画の「屍人荘の殺人」やゴミドラマの「美食探偵」で減点。マスコミでは話題だった田中圭は評価出来るのはほっこり映画の「メロウMellow」くらいのもので「らせんの迷宮」「死神さん」ともに空振り三振。
 女優では広瀬すずさん、橋本環奈さん、浜辺美波さん、小芝風花さんといった人気女優どころは、作品選択を失敗したのか、軒並みパッとしなかった。清原果耶さんは朝ドラのヒロインだが、朝ドラは見ないのでよくわからない。以前からアクション女優として期待している武田梨奈さんはアクション封印?なのか。酒など飲んでいる場合じゃないだろう。今や期待は清野さんだけなので出産後ぜひアクション女優復帰をお願いしたい。他では綾瀬はるか(「天国と地獄」)、永野芽郁(「ハコヅメ」)も悪くなかったが、一推しは浅川梨奈。
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 浅川さんはゲテモノ専門と思っていたが、ブログにも書いたように「悪魔とラブソング」で覚醒した。このドラマは、彼女が演じて初めて成立した。
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-11-03
https://www.youtube.com/watch?v=dLxyPqxjlFk
 最近見たドラマでは「恋です!ヤンキー君と白杖ガール」の杉咲さんが抜群にいい。
https://www.youtube.com/watch?v=PMyGHT3jWxM
 これも杉咲さんが演じて初めて成立したドラマといえる。浅川さんとちがい、杉咲さんはすでにいろいろな映画やドラマで主演を務めてきた人気女優だが、小柄なので大学生やOL役ではどうも違和感があった。それが、年末のSPドラマ「99.9%刑事専門弁護士」での駆け出し弁護士役でもとてもいい味を出していた(賛否両論あると思うが前の榮倉、木村とちがうキャラでないと意味がないので、これでいいと思う)。
 「悪魔」も「白杖」もドラマとしては後半急ぎ過ぎで難があったが、浅川梨奈、杉咲花については「ソワレ」の芋生遥さんとともに今年も注目したい。3人とも(というか彼女たちのマネージャーは)ともかくいいシナリオ、監督を選ぶことだ。
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「夏への扉」はSF映画か? [映画・文学・音楽]

 今日は少し時間がとれそうだし天気もいいので、久しぶりに「週2」の整骨院に行ってきましょうかねー。なんてったってアイドル(←古(^^;)じゃなくて、万年腰痛の年寄りですから。( >_< )

※本日は、忘備録です。スルー推奨。(^-^)
 かつてロバート・A・ハインラインというアメリカのSF作家がいた。SF界の巨匠とも言われ、私が最初に読んだのは講談社の子ども向け全集本の「赤い惑星の少年(レッド・プラネット)」という作品で、少年の活躍によりナント最後には火星の(地球に対する)自治宣言に至るというような話だったと記憶している(小学生だったかのときの読書なので記憶は曖昧だ)。今にして思えば、これって要するにアメリカ独立宣言の焼き直しネ。後年のヒユーゴー賞(アメリカSFの父ともいわれるヒューゴー・ガーンズバックを記念した賞)を受賞した「月は無慈悲な夜の女王」も同工異曲のようなもので、ハインラインお好みのテーマだったのだろう。
 高校生になってから読んだ短編集「地球の緑の丘」には感心したが、「太陽系帝国の危機(ダブル・スター)」や「異星の客」(創元SF文庫のあまりの部厚さにSFフアンの間では「サイコロ」と呼ばれていた)、「宇宙の戦士」(映画「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作)などは、つまらなかった。広大な宇宙空間を舞台にした大スケールのSF小説を書きたいという気持ちはわかるのだが、ちょっと哲学的なことを語りだすとどうにも底が浅く退屈してしまうのだ。ノーテンキな軍隊主義が翻訳出版当時のSFマガジンで論争になったことも、今となっては懐かしい。映画「スターシップ・トゥルーパーズ」のことも少しだけ書いておくと1は原作よりおもしろかったが、2、3やCGアニメ版はつまらなかった。原作に出てくるパワードスーツはアニメ「機動戦士ガンダム」のデザインに影響を与えたはず(というかハヤカワSF文庫のスタジオぬえのイラストがね(^^;)。
 その点、宇宙生物の侵略を扱った「人形つかい」などは侵略生物の設定が明らかに共産主義者と想定されているにしても(1951年作品。赤狩りのマッカーシー旋風が吹き荒れていた時代だ)おもしろかった。身近なところから話を始め、「宇宙の戦士」のような大スケールSFになる直前で話を終えているのが成功の理由だろう。
 そうした、無理に世界を広げようとせず、うまくまとめているということでは、もう一作ある。「夏への扉」だ。(以下、ネタバレあり)
 「夏への扉」はまだSF沼にそれほどはまっていないときに読んだのだが、おもしろかった。研究バカの主人公が悪人のために総べてを失い30年ものコールドスリープに入れられてしまう。しかし、30年後に主人公が目覚めると、実験中とはいえタイムマシンが作られている。それで30年前に戻った主人公が(いつ、どこで何がどう起こるのか全部わかっているので)復讐を果たし、悪は滅ぶ。めでたしめでたしというお話。話自体が単純で、わかりやすい。これも主人公の周りでだけ展開するスケールの小さな世界での話だったのが、成功の要因だったと思う。ただ時間テーマのSFとしては過去へ戻るということだけに留まり、タイムパラドックスのようなややこしいことには知らんぷり。それでも、大きな不満は感じない。
 要するにこの話のおもしろさは時間テーマにあるのではなく、ドジな主人公が痛快に復讐を遂げるというところにあるのだ。つまり「モンテ・クリスト伯」であり「半沢直樹」の倍返しと同じ位相である。SF小説に限っても、その後いろいろな作品を読み進んでいくと、「夏への扉」の個人的復讐たるやアルフレッド・ベスターの「虎よ、虎よ!」などと比べて遥かに迫力に欠けるのだが、小説のまとまりという点では迷うことなく合格点をつけられる。
 私のSF遍歴はウイリアム・ギブソン「ニューロマンサー」あたりで終わっているので最近の作品は知らないが、たとえば初めてSFを読もうとする人にいきなりフィリップ・K・デックの傑作「ユービック」など薦めても途中で投げ出されるのがオチだろう。その意味で「夏への扉」は話の筋も単純でわかりやすくSF入門として最適ではないかとは思う。微妙な書き方になっているが、要するにそれ以上でも以下でもないということだ。その程度の評価なので、私がSF小説ベスト5、いやベスト10を選んでもこの小説は入ってこない。
 ところが、この「夏への扉」、日本では異様なほど人気があるのだ。あまりSFを読まない人もこの作品だけは読んでいたりして「SFって意外におもしろいねえ」などと言う。まあ、コールド・スリープが出てきたり、タイムマシンが出てきたり、(出版当時はなかった)掃除ロボのようなものも出て来るのでもちろんSFであることは間違いないのだが、基本は復讐譚のおもしろさであることだけは再度確認しておきたい。それととくに女性フアンが必ずと言うのが「ピートかわいい」(^^;。ピートというのは作中に出てくる、主人公が飼っている猫のことなのだが、それSFとは関係ないよネ。もちろん小説なのだから人物描写も必要だし、ハインラインが大の猫好きだったこともあってピートはよく描けている(「未来世界から来た男」などSFショート・ショートの名手フレドリック・ブラウンも猫好きだったと記憶している。SF作家には猫好きが多いのだろうか?)。そうした描写が小説として重要なことは認めるものの、犬派の私には猫がかわいいからといって、それだけで「夏への扉」を傑作と言う気にはなれない。
夏への扉.jpg
 とまれ、その「夏への扉」が映画になった。
https://www.youtube.com/watch?v=0Rlnb0N8vxU
 それもSF映画大量生産のアメリカではなく、この日本で。となると、ヒットした「バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTF)」と比べてもあまりに単純な話をどう料理したのだろうという興味がわくではないか。機会があったので、さっそく見てみた。「BTF」は、未来に帰るには膨大な電力量が必要だ、プルトニウムから生み出されるようなそんな電力量は過去のその時代には不可能だ、あるとすれば雷だけだが雷はいつどこに落ちるのかわからない・・・それがわかる(巧妙な伏線だ)というような緊張感・なるほど感がシナリオにあった。しかし、「夏への扉」には見る者をニヤリとさせ感心させるそんなおもしろいレトリックは存在しない。「半沢直樹」ではないが単純な「倍返し」ストーリーで2時間の映画がもつのか。
 そんなことをあれこれ考えながら見た。
 監督は「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」「思い、思われ、ふり、ふられ」などの三木孝浩。「ぼくは明日」は、福士蒼汰、小松菜奈の好演もあってなかなかおもしろい映画だったが、タイムトラベル「的」要素もあった。青春恋愛映画が多いが、ある程度のSFマインドはある人なのだろう。
 主演は山﨑賢人(原作のダン)以下、清原果耶、原田泰造、田口トモロヲ、夏菜、藤木直人・・・と、なかなか豪華。まだ見ていない人が多いと思うので、詳しいことは書かないが、結論としてはSF的に押していく映画ではなく、かなり恋愛に大きくシフトした映画だったとだけ書いておこう。なんせ副題が「キミのいる未来へ」だもんネ(ただし、この副題はちょっとミスリードの気味がある)。
 ただ、監督の性格からして恋愛にシフトするのは映画的表現として許容するとしても、時代設定を1995年(つまり30年後は2025年だ)にしたのはどうなんだろう。まあ、2025年にしておけば背景セットを作ったりする必要がないという予算の問題もあるのだろうが、やはり2020年あたりを基準にその30年後(2050年)へのコールドスリープとするほうがSF的にはわくわくさせるものがあったのではないのか。2025年といえばわずか4年後、その時代にコールドスリープから目覚めるとかタイムマシンがとかアンドロイド(ヒューマノイド=人型ロボット)があちこちで活躍しているとか言われても今の現状からはわずか4年後のことなので、どうにもリアリティー皆無(SFにもリアリティーは必要なのだ)。とてもすんなりとは受け入れられない。
 あと、物語のキーポイントとなるタイムマシン(映画の中では「時間転移装置」)のデザイン、もう少しなんとかならなかったのか。といっても、壮大なセットが必要だというわけではない。「BTF」のデロリアンなどあんなものでと思うのだが、シャレてカッコイイのでつい納得してしまうのだ。映画は「そう思わせる」ことが重要で、あのポンコツデザインでは到底時間旅行ができるとは思えない。結局、SF的設定は単なる背景でメインは青春恋愛という監督の志向が強く出た映画ということに収まった。

 山﨑賢人はカッコよすぎて前半のダメダメぶりがイマイチだが全体としては悪くないし、恋愛ドラマだと考えたらまあこれくらいカッコいい主人公でないと映画として成立しない。清原はあいかわらず表情の変化に乏しいし、原田の演技もいつもながらのクサイものだが邪魔になるほどではない。夏菜は、こんな役もやりますよーといったところか。田口トモロヲの30年後の容貌、動作は明らかに「BTF」のドクを真似たものだろう。結局、一番印象に残ったのは原作にはないアンドロイドを演じた藤木直人。名演技だ。
 参考までに原作との各人の関係を書き出しておく。
高倉宗一郎=山﨑賢人(ダニエル=ダン)
松下璃子=清原果耶(リッキィ)
松下和人=眞島秀和(マイルズ)
白石鈴=夏菜(ベル)
佐藤太郎=原田泰造(サットン)
遠井=田口トモロヲ(トウィッチェル教授)
 総合評価としては、山﨑賢人や清原果耶のフアンの人、三木孝浩監督なので青春恋愛映画を期待して見に行った人は、美男美女のハッピーエンドなので満足。ハインライン原作なのでSF映画と思って見に行った人は不完全燃焼。それ以外の人には見て損はないが、見なくても損はしない一風変わった恋愛映画とでも言っておこう。
 と、言いたい放題ですが、寒さに向かう今の季節、私も「夏への扉」を探したい1人です。(^^;
 評価 ☆☆☆
 ☆★は、尊敬する映画評論家・双葉十三郎さんの採点方法のパクリで、☆=20点、★=5点(☆☆☆が60点で「可」。合格というか、まあ許せるラインということです)

※補足として私のSFベスト5をあげておく(順不同)
ディック「ユービック」
ベスター「虎よ、虎よ!」
ブラッドベリ「火星年代記」
ブラウン「発狂した宇宙」
シマック「都市」
(上にも書いたように私が熱心にSF小説を読んでいたのは1980年代半ばに翻訳されたウイリアム・ギブソン「ニューロマンサー」あたりまでなので、最近のものは読んでいません。悪しからず。(^^;)
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映画のリメイク [映画・文学・音楽]

 昨日(12/8)は、雨風強く、寒い1日でした。
 さて、予報では天気は回復してくるそうなんですが、気温はどうなんでしょうね?

 最近、テレビで「ウエストサイドストーリー」の予告映像が「トゥナイト」の曲とともに流れる。あの「ウエストサイド物語」をスピルバーグ監督がリメイクしたもので、来年の2月に公開されるのだそうだ。
 1961年のロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」は高校生のとき見て熱中し、場末も含めて劇場で3回見た。すぐにLPレコードを買い、その後、レーザーディスクも買って保有している。ブロードウエイ原作の「南太平洋」「ショーボート」や、「オズの魔法使い」「雨に唄えば」「バンドワゴン」など創作のMGMミュージカルも、どこか「舞台」の名残りがあり、歌の最後に「見栄」をきるようなところがあったりしたわけだが、この映画を見て初めてミュージカル「映画」が誕生したと思ったものだ(個人の感想です)。編集マンから監督になったロバート・ワイズのカットつなぎの素晴らしさは今見ても素晴らしく文句のつけようがない(ワイズの「つなぎ」の天才的なうまさは「サウンド・オブ・ミュージック」の「オープニング」や「ドレミの歌」でも確認出来る)。この映画は「プロローグ」に始まり、「クインテット」「クール」など映画ならではの創意と表現に満ちあふれている。これが「ミュージカル映画」というものだ。この傑作に何か付け加えるものがあるのだろうか? はっきり行ってしまうが、ない。
 1959年のウイリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」の2016年版リメイクなど目を覆いたくなるほど惨憺たるものだったし(日本では上映すらされなかったので私はWOWOW?で見たが時間の無駄遣いだった(^^;)、1957年のセシル・B・デミル監督「十戒」の2015年版リメイク「エクソダス 神と王」もナンジャこれという出来だった。海の割れるシーンを盛大にやれば傑作になるというものではないだろう。CGで何でも出来るようになったのは映像表現の大きなメリットだが、安易にCGに頼ることのデメリットも合わせて教えてくれる映画だったとだけ書いておく。
 日本では黒澤「隠し砦の三悪人」「椿三十郎」などもリメイクされたが、あまりの出来の悪さに茫然自失。「隠し砦」は「裏切り御免」の連発で、これでは藤田進も浮かばれない。「三十郎」は元シナリオをそのまま使ったと変な自慢をしていたが、もともと三船にアテ書きした(と思われる)台詞を織田が言ったら学芸会。今ドラマをやっている「日本沈没」もリメイク作は見事なほどに沈没した。
 名作・傑作のリメイクは、見る者の「判断基準」は当然のように前作にあるわけで、それ以上の出来にないと見る者は納得しない。要するに、初めっからハードルが高いわけで、私は、少なくともトーキー以降の名作・傑作でリメイク作が前作を上回ったものを知らないのだが、大丈夫か?ボケていないか?スピルバーグ。(@_@;)

 昨日に続いて向島百花園で撮った「実」の写真です。
↓オモト
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↓カリン
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↓ナシ
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↓ピラカンサ
ピラカンサ.jpg
↓ユズ
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「悪魔とラブソング」で浅川梨奈覚醒 [映画・文学・音楽]

 11/3は祝日で、生来の怠け者である私にとっては、チョーのんびり日。「悪魔とラブソング」というドラマを見てみました。その忘備録なので基本スルーしてください。ということで、大きく脱線したり前後矛盾があったりしても、さらに言えばタイトルと無関係なことまで平気で書いていきます。
 
 古稀を過ぎた私の年代で、「浅川」と言えば「浅川マキ」。私も当然のように「ちっちゃなときから」「夜が明けたら」「かもめ」などが入ったLPレコードを持っていた。が、今回の忘備録で扱うのは最近見た「悪魔とラブソング」というドラマとそのヒロイン可愛マリアを演じた浅川梨奈(あさかわなな)である。
 このドラマの原作は、まんがらしいのだが、もちろん(^^;読んでいない。
 よく原作(小説なども含めて)と比べてどうだこうだという意見があるが、実写ならではアニメならではの表現方法がある以上、原作の設定などはもちろん考慮するとしても、実写、アニメは独立した作品と考えるべきだろう。原作と話や結末が違うとか、登場人物のイメージが違うとか、原作を読んでいないとわからない(原作も読まずに見るな)という意見は、作品評価にはあたらないとおもう。近年の大ヒット映画と言えば「鬼滅の刃・無限列車編」だが、原作を読んでいない、テレビアニメも見ていない人がいきなりあの映画を見て設定が理解出来ただろうか。独立した1本の映画として考えると、世間ほどの評価は与えられなくなる。
 いかん、いきなり話がそれた。(^^;
 本作は、転校してきた女子高生ヒロインが、空気も読まずにずけずけと本音を言う性格のため周囲の反発を買うが、そのことでやがて周囲が変わり、主人公自体も変わるとという、ある意味「学園もの」の王道。年寄りのイメージする少女まんがの典型で、主要人物は美男美女。いじめなどもステレオタイプでどうってことのないドラマなのだが、全8話をつい最後まで見てしまった。浅川梨奈演じるヒロインの言動が型破りなのに妙にリアリティがあり魅力的でおもしろかったからだ。

 ところで浅川梨奈と書いたところで、知らない人がほとんどだろう。
 かつてアイドルグループSUPER☆GiRLSの一員で、グラビアをやりながらドラマにも出るようになった女優だ。と言っても、さらにわからないか。今をときめく浜辺美波が主人公・咲を演じた女子高生麻雀ドラマ「咲-Saki-」で、咲の親友の原村和を演じた女優さん、と言えば「ああ。あの」と何人かはわかるかもしれない。私はこのドラマで浅川を知ったのだが、要するにその程度の知名度の女優で、有名女優が出るような映画・ドラマでは当然のように出してもらえないか出てもせいぜいが脇役。記憶にも残らない。彼女が主役をつとめたのは「トウキョウ・リビング・デッド・アイドル」「リケ恋」「血まみれスケバンチェーンソー」「人狼ゲーム マッドランド」といった超マイナーなB級、いやC級ものばかり。普通の人間ではない「変な役」ばかりだ。「黒い乙女」という映画は見ていないが、タイトルからしてホラーのようで見る気にはなれない。
浅川映画.jpg
 「トウキョウ」は、ゾンビに噛まれ72時間後にはゾンビになってしまうため治療薬を探すアイドル役。最後はバットを持って襲ってくるゾンビの頭を次々と叩き潰す血まみれでの大暴れ。「リケ恋」は数学を研究しているので何事も数字に置き換えてしまう変な大学院生役なのだが設定に無理があり、ドラマも駄作。「血まみれ」はタイトル通りチェーンソーを振り回して人(改造人間)を次々とぶち殺す女子高生で、しかもスカートの下は褌(^^;。褌姿は見たいのだが、血飛沫は嫌なので最後まで見られない。売れっ子・橋本環奈主演の「かぐや様」では空気を読めない生徒会の天然変声アホ書記。「人狼ゲーム」は、1つの建物の中で集められた人たちが生き残るために殺し合いをするというさんざん見飽きたポンコツ映画で浅川は女子高生役だが結末は書かない。
 私の知る限り「咲-Saki-」での麻雀中学生チャンピオンだった女子高生以外、まともな人間の役は1つもない。演技は下手ではないのだが、こういう変な役ばかりやっているので、そのうち脱いで一瞬話題になるが、いずれ消えていくんだろうなぁと思っていた。ただ、見た目もそこそこだし、知る人ぞ知る巨乳(推定Fカップ(^^;)。こんな役よくやるなあというような、出演作でも、女優をやっていくんだという決意が感じられる。出た以上は映画をヒットさせたいと、「血まみれ」で「日本ふんどし協会賞」の「ベストフンドシストアワード」を受賞したときも堂々と笑顔で出演した。根性、すごい。
https://www.youtube.com/watch?v=lNlptW66nQs
「(グラビアで)千年に1度の童顔巨乳というキャッチコピーをつけていただいていたのですが、これでお尻のほうも注目していただけるなと、全身いける女優として今後も活躍していきたい」
 なんて、なかなか笑顔で言えるものではないゾ。根性論は嫌いだが、恋愛感情もない相手とキスしたり、冬の海に入ったり、叩かれ蹴られたりその逆だったり、息が切れるまで何度も全力で走らされたり、場合によっては下着姿に留まらず裸になって男と抱き合わなければならないこともある。仲代達矢の名言に「世の中には、男性、女性、そして女優がいる」というのがあるが、生半可な気持ちでは続けられないのが「女優」という仕事であることは確かだ。その「女優」を一生懸命やっていて才能がないわけでもないのに人気が出ないのは、作品と役にめぐまれないということだろう。ただ、この情況を逆に言えば、普通の女優なら「黒歴史」と言えるような作品に次々と出て、全然腐ったりめげたりしていないのだから、殺人鬼だろうがその被害者だろうが、アクションだろうがヌードだろうが、真面目なドラマだろうが、もう怖いものは何もないはずだ。

 そんな浅川梨奈が、ようやく自分にピッタリのドラマの役に出会えたと思えるのが、この「悪魔とラブソング」。
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https://www.youtube.com/watch?v=bsGRna_SaYs
 自分を裏切らない、他人を裏切らない、そして他人も裏切らせない(変わらせる)女子高生を見事に演じきった。素晴らしくいい。ほぼゲテモノ専門女優だと思っていたので、驚きだった。
 上記「咲-Saki-」には多くの若手女優が出演していて、キャプテンや次峰役の女優は他のドラマでも時々見かけるのだが、大ブレークした浜辺美波の1人勝ち。しかし、そのロケットスタートの浜辺が最近クソドラマ、クソ映画にばかり出ていて、しかも似たような小悪魔的パターンの役ばかりで停滞中。もしかすると浅川が今のこの決意で突き進んでいけば一発大逆転ということも10%くらいはあるかもしれないとさえ思わせる演技だった。ついでに書いておくと、浜辺美波は、10年前の東宝シンデレラのとき(11歳)には文句なしの超絶美少女、5年前の「咲-Saki-」のときはかなりの美少女、今は単なる美人女優という感じで、歳とともに劣化しているのが気になる。これから大人の女優としてやっていけるのだろうか?

 浅川さん、覚醒したねえ。
 そんな浅川の存在感があって初めて成立したのが、このドラマだ。第1話の後半、前の学校でいろいろありそのままわかりあえず去って行く友(芋生遥。映画「ソワレ」の熱演good。ドラマ「父と息子の地下アイドル」などにも出ていた女優さんで、ちょっと注目している。芯のある演技ができるので変にバラエティなどの横道にそれず女優の道を突き進んでもらいたい。モーターボート・レース協会のCMに出ていると書けば、わかる人も多いと思う。彼女については、別の機会に書こう)に向かって路上に立ち尽くしたままの浅川がアカペラで「アメージング・グレース」を唄うシーンなど、凛とした意志の強さがこちらの心にも届いて、テレビドラマを見ていて久々に「いいなあ・・・」と思わせるものがあった。

 また脱線するが、この「いいなあ」と思う感情は、なかなか他人に伝えるのが難しい。
 もちろん、こうこうこういう流れの中でと分析・解説できなくはないのだが、それだけでは伝えきれないものがあるような気がするからだ。たとえば映画「ダーティハリー」のラス前、「さそり」がジャックしたバスの前方に歩道橋があり、クリント・イーストウッドが立っている。場面的には、イーストウッドがただ立っているだけの映像なのだが、これが何ともいいのだ。トリュフォーの「華氏451」のラストは、雪の中を様々な人たちが様々な言葉で詩や小説などを暗唱しているだけなのだが、私はこのシーンを何度見ても感動してしまうのである。未だに続いている「007」では、初代のショーン・コネリーがアタッシュケースを持って歩いている姿に見掘れた。これまた歩いているだけなのだが、なんともカッコイイのだ。(^^)/
 新藤兼人の「裸の十九才」は、構成的にちょっと難がある映画なのだが、ラスト、独房の窓をバックにクレジットが上がってくる。それにかぶせるように林隆三の唄う高校の校歌が聞こえてくるシーンなど静止画のようなものなのだが「おわり」と文字が出てもしばらく席を立ちたくなかった。日活プログラムピクチャの代表選手のような石原裕次郎だって「嵐を呼ぶ男」のドラム合戦で、手を負傷しているためドラムをうまく叩けない。どうするんだろうと思っていたら、いきなり歌いだしたシーンなども「おおっ」と思ったものだ。テレビドラマだと「JIN-仁-」の第2話だったかで武田鉄矢が弟子のコレラ患者を背中にロープのこちら側に入ってくるシーンなど感動的だった・・・と、あれこれ書いてもイメージは伝わらないだろうし、その時の私の感情も伝わらないだろう。が、忘備録なのだから、これでいいのだ。要するに、最近のドラマには珍しく、そういった感動的なシーンだったということだ。

 そうそう脱線ついでに、このドラマの女優といえばもう1人、浅川マリアを敵対視するいじめグループのリーダー中村亜由についても書いておこう。演じているのは小野花梨という女優で(よく見る顔のような気もするのだが明確な役を思い出せない(^^;)、敵役なので初めいかにものブスなのだが、吹っ切れて心を開くようになってからは、(だからといって美人になるわけではないが)本当にかわいく見える。もちろんメイクの力などもあるだろうが、顔の表情や声質なども含めて演技力があるのだろう。この落差をどちらも不自然ではなく演じられるのは、素晴らしい。名脇役になるような気がするので、今後も注目していきたい。

 ただ、原作はどうなっているのか知らないが、ドラマとして考えると不満がないわけではない。というか、けっこう不満がある。(以下、このドラマを見ていない人には理解不能なことを書く)
 ヒロインと父親との関係など到底納得理解出来るものではない。奥野壮演じる神田優介の母親が病弱とした設定も、その効果が出ていない。女4人男2人以外の同級生やテレビクルーがあまりにステレオタイプすぎて意味をなさない等々。話の流れとしては、合唱コンクールの回(全8話中の第6話)がクライマックスでドラマは終わりだろう。ばらばらだったクラスが1つになるなかなか感動的な場面なのだが、注文がないわけではない。コンクールの後で「1人すっごく歌の上手な女の子がいてね」という台詞が出てくるのだが、あの合唱で1人の歌の上手下手がわかるのだろうか。やはり、歌の一番は浅川の独唱、短い回想シーンを挟んで、それ以降は合唱という構成にしたほうがわかりやすいし、ヒロインを際立たせられたのではと思う。

 その後の7話8話は、付け足しで退屈。高校生の恋愛ドラマは世に万とあるわけで、わが道を行くはずのヒロインがその「恋愛定型」のようにぐだぐだになってしまうのはいただけない(恋愛がダメだと言っているのではない。そういうヒロインなりの恋愛の描き方があるはずだろうと言っているのだ)。前の学校の生徒との関係は第1話で浅川が「アメージング・グレース」を唄ったところで終わっているわけで、今さらながらに出して来たら話がめんどくさくなるだけ。そもそもあの女子高生は「遠くへ」引っ越していったのではないのか。一応、7話で再会し8話で和解するのだが、その必要があったとは思えない。このドラマは、6話まで見ればいい。
 あと細かいことを言うと、合唱のラストシーンのとき、舞台の袖からカメラを向けているテレビクルーが見える。ところが、8話でテレビ放映された画面は正面から撮ったもの。それまではディレクターとカメラマンだけの1クルーで取材に来ていたのだが、合唱コンクールは「肝」だからと、テレビ局もこの日は複数クルーで来ていたのだろうか。どうでもいいようなことだが、ちょっと気になった。

 さて、百歩譲って、番組編成上ドラマを第8話までやるとしても、飯島寛騎演じる目黒伸(これが浅川の恋の相手)のピアノコンクールの会場から浅川が逃げ出してという流れは、あかんでしょう。「逃げない」のがこのドラマのヒロインなんだからね。原作が少女まんがなので、どうしても恋愛が前面に出てくるのは仕方がないとしても、甘っちょろい恋愛で逃げていたのではドラマ全体が薄っぺらくなってしまうし、ヒロインの個性も死んでしまう。目黒が会場内で弾く「アヴェ・マリア」に合わせて、逃げ出した彼女も屋外で「アヴェ・マリア」を唄うということで2人の心のシンクロを表したかったのだと思うが、唐突な流れもカット割りも完全にスベッているためこちらの心に全く届かない。
 変に奇をてらわず、飯島が優勝し、アンコールに一曲弾いてもらいましょう、ということで「アメージング・グレース」を弾きだす。スッと立ち上がった浅川が、曲に合わせて歌いだす。それに感動した人たちも唄い始め、会場全体が「アメージング・グレース」の歌で満たされる。こういうのがこのドラマのクライマックスのあるべき姿なのではないのか。ピアノと歌で2人の心が繋がっていることは十分視聴者の心に届くはずだ。いきなりの「3年後」なんてのはもちろん蛇足の極地だ。

 原作まんがを読んでいないのであくまでも想像だが、ドラマの7話8話は、おそらく原作のまんがを駆け足でなぞったものになっているのではないかと思う。最近のまんがは不必要なほど長いので、おそらくコンクールの後もなんだかんだとあるのだろう。それを2回に圧縮してしまったために駆け足になり底の浅いばたばたのドラマになってしまったのではないか。ただ、繰り返しになるが、ドラマは原作とは「別物」なのだから、原作のテーマを逸脱しない範囲でドラマ独自の工夫があっていいし、原作通りに全部なぞる必要などない全然ないのだ。原作のフアンから「原作とちがう」と言われたら、「そういう方は、どうぞ原作を読んでください」と言えばいい。
 古い話になるが、黒澤明の「椿三十郎」などタイトル後に山本周五郎「日々平安より」とクレジットが出たので、さっそく新潮文庫(短編集なのだが、「椿三十郎」原作、と帯が巻かれていた)を買って読んだら「いったい、どこが?」というくらい関係ない話で、話題になったラストの決闘シーンなどもちろんなかった。しかし映画を「原作とちがうぞ」と文句を言う奴は1人もいなかった。おもしろい映画として自立していたからだ。(^_-)-☆

↓アメージング/グレース
https://www.youtube.com/watch?v=7PJWRKkMpHM
https://www.youtube.com/watch?v=rSJamm327gE
↓本田美奈子版。私ががんセンターに入院しているときに急性骨髄性白血病で亡くなった(11月初めだったと記憶している)。回復して退院したという話を聞いていたので突然の訃報に驚き、同時に、がんというのはやはり一筋縄ではいかない病気だということも。感慨深い一曲である。
https://www.youtube.com/watch?v=G57sfolNdvo

※あれこれ書いていたら長くなってしまった。やはり、老人は暇だねえ。(^^;
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『山波』198号到着 [映画・文学・音楽]

 昨日(10/29)は、IHさんと会って会食、その後はバカ話。いい年寄りが何をやってるんだなんて言われそうですが、出歩くということは運動にもなるし、気分転換にもなるので重要です。(^-^)

 いろいろあって、遅れに遅れた『山波』198号、ようやく届きました。久々に100Pを超えていて、パンフレットではなく、雑誌に見える(^^;。他人の原稿は、これからゆっくりと読ませていただくとして、まずは、お知らせまで。
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 せっかくなので、以前、雨の中取材に行って写真を撮ってきた、口絵のページのみ載せておきましょう。
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 えっ?こんな小さくては読みにくいし、写真もよくわからない、ですと。
 そういう人は、ちゃんと『山波』を買って読んでください。と、広告も載せておきます。これが本日のメインだったりして。(@_@;)
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白土三平死去と忍者劇画 [映画・文学・音楽]

 朝から雨で寒いです。夜にちょっと所要があって出かけるのですが、せめてそれまでに雨があがってくれればいいのですが・・・。夜の献立を奥様に訊いたら、寒いので餃子ラーメンでもという回答。感謝!(^^)/

 白土三平さん(3人兄弟での作画で、その中心だった兄の岡本登さん)が、亡くなった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e2bdc241f64706106fd9ae278f0a09e7eb973b1a
 後年、延々と描き続けた「カムイ伝」を途中で脱落した者としては、白土三平は過去の漫画家なのだが、貸本漫画の時代から夢中になって読んできた者として、やはり1つの時代が終わったと思わざるを得ない。合掌。m(__)m

 古い話になるが、白土三平原作の「カムイ外伝」が実写映画化された。
 映画化ということになるとやはりカムイの抜け忍としての闘いがメインの「外伝」ということになりますか。テレビアニメもやはり本編の「カムイ伝」ではなく「外伝」だった。本編は白土のテーマ性がちょっとくどい感じで前面に出ており、後半はカムイよりもう一人の主人公である庄助のほうに力点がうつり、しかも庄助の優等生的態度にどうも共感がもてなく、私としては退屈なものだった。まあそれでも白土フアンだった私は、「イマイチかなあ」と思いながらも今ではなくなったしまった「ガロ」の連載を読んでいたのである。で、ちょっと悲劇的な結末を迎えたときは、作品の出来云々よりも、とりあえず一区切りついて、よかったよかった、と思ったものである(その後、「ビッグコミック」で再開された第2部は全く読んでいない)。
 やはり群を抜いた傑作は「忍者武芸帳-影丸伝-」で、途中突然に一揆の解説や「影一族」の物語が始まったり、年月の経緯にちょっとおかしなところがあったり(読んだ人にしかわからないと思うが、たとえば海に流された重太郎が帰ってくるまでに7年ということになっているのだが、周囲の人間、出来事を見ているととても7年も経っているとは思えない)するのだが、最後まできっちりと描ききったのは並の力量ではない。白土の代表作であるだけでなく、日本の漫画史に残る傑作、今読んでもおもしろい不滅の金字塔だと思う。
 唯物史観だマルクス主義だとかバカがレッテルを貼っているが、そんな色眼鏡で見る前に、まず原本を読んでみろと言いたい。人間の生命活動は自然の中での生き死にであり、そうした大きな枠組みの中での物語展開だとわかるはずだ。いずれにしても、これほど読む者を夢中にさせ、読後に何かを残してくれる漫画は、そうはない。
 ちょっと残念なのは、影一族の壊滅からラストまでやや描き急ぎの感があることか。貸本は全17巻だが、もともとの構想では全20巻くらいを予定していたのではないのだろうか。売れ行きの問題で結末を急がされてしまったのなら、残念。もしかすると、そのころには「カムイ伝」の構想がふくらんでいてのことなのかもしれないが、今となっては誰もわからない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85%E6%AD%A6%E8%8A%B8%E5%B8%B3
 第1巻で、それこそワンカットだけ影丸が(妻だったと思われる)骸骨を手に「楓・・・」というシーンまで鮮明に覚えているくらいだから、「たかが漫画」に大きな影響を受けたのだと、自分でも思う。従って、
「われらは遠くから来た そして遠くまで行くのだ」
 という影丸の最後の言葉は、半世紀以上も前に読んだ私の心に今も残っている。残念ながら、私は影丸のように遠くまでは行けそうもないのだが・・・。

 次が「サスケ」か、「忍者旋風」→「真田剣流」→「風魔」と続く「風魔シリーズ」あたりだろうか。この2つ、どちらも途中までは軽快なテンポでおもしろく進むものの、「サスケ」は後半1/3、「風魔シリーズ」は最後の「風魔」がぐだぐたでどうにも退屈なのが惜しい。「忍者武芸帳」の評価との間にはかなり水があいている。むしろ短編の「忍法秘話」シリーズのほうが気楽に読めておもしろい。それ以降の忍者漫画、映画はすべて白土漫画の影響を受けていると言っても過言ではない。
↓左「忍者武芸帳」右「サスケ」
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↓左「真田剣流」右「忍者旋風」
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フレッド・ジンネマンの作品を連続で [映画・文学・音楽]

※今日のブログは忘備録です。映画に関心のない人はスルーしてください。
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 先日、突如として「何もしたくない病」が再発し、一日中ぼけーっとフレッド・ジンネマン(Fred Zinnemann1907〜1997)の作品を連続で見ていた。まあ、ジンネマンの映画は劇場で再上映されることもあまりないし、テレビでも最近は放送されていない。爆破や戦闘、チェイス、大モップシーンといった派手なシーンがあるわけではなく、作品の推移がある程度の集中力を必要とするので、今の時代に合わないのだろうか。若い人たちには「知らない」という人も多いと思う。
 今回見たのは、「真昼の決闘」(High Noon 1952)、「ジャッカルの日」(The Day of the Jackal 1973年)、「ジュリア」(Julia 1977)の3本。いくら傑作揃いとはいえ、映画を3本も続けて見るとけっこう疲れるもので、おかげで夜はぐっすり。翌日には、復活できた。
 こうして連続で見て、以前から思っていたジンネマン監督の特徴をよりはっきりと再確認できたことが、今回の最大の収穫か。要するに、ジンネマンが描きたかったのは、(男女、善悪を問わず)「信念をもった人間の生き方」なのだ。これは、今回は見なかった「わが命つきるとも」「日曜日には鼠を殺せ」などにも、もちろんあてはまる。だから、「真昼の決闘」のゲイリー・クーパー、「ジャッカルの日」のエドワード・フォックス、「ジュリア」のジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレイブなど、ジンネマン監督の息吹を受けてみな生き生きとしている。この「生きている」という実感が見ていて何とも素晴らしい。この3本の中で敢えて1本ということになると、私なら「ジュリア」かな。
 考えてみればジンネマンだけでなく、かつては、ワイラーにしろ、リーンにしろ、ヒッチにしろ、そして日本の黒澤にしろ、自分はこういう映画を撮るんだ、いうスバラな監督が何人もいたなあ。と、年寄りは、未来の時間がそれほど残されているわけではないので、ついつい昔を懐かしがってしまうのであった。

↓フレッド・ジンネマンについては、以前、テレビで「ジャッカルの日」を再見したときブログにこんなことを書いている。
 フレッド・ジンネマンの傑作「ジャッカルの日」が、「ムービー・プラス」で放送された。民放ではすでに放送されてはいるが、こういう映画はやはりノーカット・ノートリミングで見たい。
 ジンネマンの名前を初めて知ったのは「真昼の決闘(High Noon)」。ゲーリー・クーパー主演の西部劇だが、この映画といいバート・ランカスターに食われてしまった「ベラクルス」にしろ、クーパーって俳優本当に老けるのが早かったんだなあ。後にモナコ妃になり事故で亡くなったグレース・ケリーとの夫婦は、親子かという感じでどうにも収まりが悪い。「昼下がりの情事」にしても歳とったおっさんにしか見えずヘップバーンとはやはり親子。かっこいいクーパーというのを見た記憶がない。映画が作られたは、あのマッカーシズムの嵐の中、ハリウッドでも赤狩りが盛んに行われていた時代。そうした時代にこういう映画を作ったこと自体は素晴らしいのだが、映画は映画それ自体で評価するという私の物差しからすると、まあ言いたいことはとてもよくわかるのだがもう少し映画としての力が欲しいといったところ。それなりの出来で佳作と言えるが、こういう映画を「西部劇」とは認めたくはない。
 この後ジンネマンは「地上より永遠に」と「わが命つきるとも」でアカデミー監督賞を2度も受賞しているのだから、名監督と言っていいだろう。が、「地上より永遠に」は軍隊のいいかげんなぐじゃぐしゃを描いたという点が評価されたようなのだが私にとっては、どちらかというと退屈な作品。
 「ユートピア」で有名なトマス・モアが断頭台に消えるまでの生涯を描いた「わが命つきるとも」(余談だが原作は「アラビアのロレンス」のシナリオを書いたロバート・ボルト)も、せっかく高い金を払ってロードショー館へ見に行ったというのに見るべきところはアカデミー撮影賞に輝いたテッド・ムーアの色彩画面(冒頭から素晴らしい)だけと言っていいような映画で途中居眠り(^^;。いつも、言いたいことはわかるのだが映画としては退屈なところもあって、どうにも生理的に合わないなあというのが、私のジンネマンの評価だった。
 そのジンネマンが1970年代になって突如、文句なしに「いい映画だったなあ」と思える映画をたて続けに2本作ったのには驚かされた。
 1本は女どうしの友情、夫婦の愛情を見事なスリルを交えて描いた「ジュリア」(主演のジェーン・フォンダをはじめヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェイソン・ロバーズ、マクシミリアン・シェル、メリル・ストリープ皆よかった)。そして、もう1本が、当時のフランス大統領ドゴール暗殺を請け負ったスナイパー、コードネーム=ジャッカルを描いた、「ジャッカルの日」である。
 思うにジンネマンの映画には程度の差こそあれ、「たった1人になろうとも自分が正しいと思ったことは貫き通す」という主張がある。それはそれで立派だとは思うが、その主張が前面に出過ぎていたために映画としてのおもしろさを若干阻害していたのではないのだろうか(「真昼の決闘」「わが命つきるとも」「日曜日には鼠を殺せ」など)。それが歳を重ねるとともに肩の力が抜け、映画本来の流れの中でその主張を自然に語れるようになったのではないかと思う。いずれにしてもジンネマンの監督作品は戦後10本少々のはずで、自分の作りたいものだけを作るという生き方は、自身の映画の主人公にも通じるものがあり、その意味では「映画作家」として、もっと評価されてよい。
 ついでに書いておくと「ジュリア」は1978年度キネマ旬報第2位だが、私は退屈な第1位ビスコンティの「家族の肖像」よりはるかに高く評価している。とくにフォンだが列車に乗り込んでからの緊迫感は比類がない。この年の1位は、まちがいなく「ジュリア」だ。同様に「ジャッカルの日」は1974年度キネマ旬報第4位だが、1位「スケアクロウ」3位「ブラザー・サン シスター・ムーン」より上で、2位「ジョニーは戦場へ行った」に次ぐものだと思う。何を言いたいかというと、それほどの傑作なのだ。
 「ジャッカルの日」の主人公は正義の味方ではなく殺し屋だが、ただ1人で請け負った仕事に突き進んで行く、自分の意志を貫いていくという点では今までの作品の延長線上にある。ジンネマンの本領発揮と言っていい。
 巻頭のナレーションが終わってスクーターの疾走が映し出されるシーンから画面にスピード感があって快調そのもの。今の目から見ると、フランスでは大統領暗殺「未遂」でも死刑になるんだ、などと複数人を理不尽に殺しても死刑にならない日本との差異に驚きながらもどんどん画面に引き込まれていくことになる。
 問題は観客が、ド・ゴール大統領が暗殺されなかったという「歴史的事実」を知っているということである。つまり、どうなるんだろうというハラハラドキドキの結果が最初からわかっているわけで、歴史上の事件を背景にした物語はこういうところが難しい。いい例が「アポロ13」で、帰還のとき通信が途絶えたところで画面の中の人物は心配そうに右往左往しているのだが、観客は「どうせ助かるんだから」と思っているため、ひどく緊張感を欠いたラストになってしまった。ところが、この映画は違うんだなあ。ラストの数分間、ほぼ効果音だけで押し切ったジンネマンの演出はただ者ではない。うれしいことに、結末に向かってどんどん緊張感が増していくのだ。
 歴史的事実としてド・ゴールは暗殺されていない。しかし、それまでの物語の進行やジャッカルの射撃の腕をもってすればド・ゴール暗殺は必至である。では、何がどうなって暗殺は失敗するのか。……つまり、ジンネマンは歴史的事実を逆手に取って観客を引っ張っていくのだ。
 さすがプロの技である。
 パスポートの偽造の様子やライフルの照準合わせなどのシーンなども実にテンポよく進んでいくので、何となく見ているこちらもジャッカルと視線が一体化し、スナイパーなのについつい肩入れしてしまうことになる。やろうとしていることは明らかに犯罪で、テロにはもちろん反対なのだが、(変な言い方だが)段取りが1つうまくいくたびに、わくわくさせられてしまうのである。後半の女の扱いがやや退屈だった点以外は緊張感に弛みがない。ジャッカルを演じたエドワード・フォックスの演技も称賛に値する。この人、ちょっと眠そうな目をしているのだがそれがちょっと虚無的な印象を与え、ともかく動きがシャープなのがよい。フォックスはこの後「ナバロンの嵐」「ガンジー」の将軍、「ネバーセイ・ネバーアゲイン」「遠すぎた橋」などでもお目にかかったが、このジャッカルの役を超えるものはなかったと思う。つまり、それほどの当たり役だったわけだ(ピーター・オトゥール=「アラビアのロレンス」のようなものですな)。
※そうそう、今回見ていてもしかしたらそういう意味も含ませているのかなと思ったことをつけおく。ジャッカルが街を歩いている時、雑踏の中でおっさんたちが下手な「クワイ河マーチ(ボギー大佐マーチ)」を演奏している。あの映画(「戦場にかける橋」)は、ボギー大佐(アレック・ギネス)が頑張って頑張って目標である橋の完成を目指すのだが・・・というものだったが、まさか伏線?

 いずれにしても、「ジャッカルの日」と「ジュリア」は最近のCG過多の映画に食傷気味の人には、ぜひお薦めしたい。(^_-)-☆
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最後の映画にパクリはいかん(▼▼メ) [映画・文学・音楽]

 「天外者(てんがらもん)」という映画を見ました
 NHK朝ドラ「あさが来た」で一躍有名になった五代友厚(ディーン・フジオカ)を主人公にした映画で、自殺した三浦春馬が主演した最後の映画ということでも話題になった映画です。ただ、そうした要因を抜きにして見ると、確かに三浦春馬の熱演は認めるものの、話のつなぎ方がかなり乱暴で、えっそうなのという場面が多すぎ。五代以外の人物の描き方も薄くてペラペラ。これは原作の問題なのかシナリオの問題なのか、いずれにしても監督の責任は免れません。
 一番気になったのは、ラストの提灯行列。これって、誰がどう見たってケヴィン・コスナー主演「フィールド・オブ・ドリームス」のあまりに有名なラストシーンの完パク(完全なるパクリ)ではないか。結果として三浦春馬の最後の映画をこんな恥ずかしいことにして、スタッフの中で異を唱える者はいなかったのか。しかも、この映画が「キネマ旬報」の読者選出日本映画ベスト1および監督賞とは。2020年の日本映画というのは、それほどの低水準だったのかと、ある意味驚愕。(≧Д≦;)
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wildさんからの贈り物\(^_^)/ [映画・文学・音楽]

 梅雨はしとしと雨というイメージなんですが、昨日今日と本降り、土砂降りという感じですなぁ。今のこの時期、へたに濡れて風邪でもひいたらそれこそ命取り。リス太郎さん原稿の赤入れも終わったし、今日は引き蘢りといきますかね。[るんるん]
(バスで近くの薬局、スーパーまで買い物にだけ行ってきました(^^;)

 6/30に書いておいたドラマ「ドラゴン桜2」とアニメ「エンゼル・ハート」について、「どうでした?」というメールが来たので、感想をちょっとだけ。
 「ドラゴン桜2」は初回だけリアルタイムで見て、それ以外はティーバー。一言で感想を言うと、登場人物ややっていることはかなりダブっているのだが、やはり別のドラマと考えたほうがいいだろう。落ちこぼれを東大合格に導くストーリーは同じだろうがという意見もあるだろうが、そのドラマの核心、何がおもしろいのかを考えると、2のおもしろさの核は人間関係の丁々発止のやりとりと逆転劇(やはり「半沢直樹」など池井戸ドラマ班が作るとこうなるのかな)。対して、1は受験勉強というものに対する技術と取り組み。受験テクニックを教える教師たちもユニークで、類がないという意味でも私としてはやはり1の方がおもしろかった。あと、やはりあの「I can 迷わずに進もう・・・♪」の主題歌を前回から流用してもらいたかったなあ。
 「エンゼル・ハート」は、「シティーハンター」の別世界版とでもいうような話で、リョウのいい相棒だった香がいきなり事故で死んでしまうというところからスタート。その心臓を移植された少女(というには巨乳だが設定は15歳)スナイパーというかアサシンの物語。ヒロインのシャン・インが実に魅力的で、彼女の行動と心の揺れがとてもよく描かれている。その意味でも私には「シティーハンター」よりずっとおもしろかった。ただ、アニメの造型がポンコツで、つい文句も言いたくなるのが欠点。ゲストででてくる女性はどれも同じ顔に見え、シャン・インですらシーンによって顔が変わるので困ってしまう。しかも、時間・金がなかったのか動きが少なく、1枚の絵をパンしたりズームしたりして誤摩化しているという出来の悪さ。1〜12(or13)話まででいいので、どこかちゃんとしたプロダクションで作り直してくれないかなあ。ちなみにドラマ版はリョウ=上川隆也、シャン・イン=三吉彩花で悪くはないのだが、知名度からどうしても上川がメインになってしまい、三吉の活躍場面が少ないのに不満が残る。アニメのシャン・インのリョウに対する「私、あなた守る」なんて名台詞なんだけどなあ。
 
 wildさんから、うれしい贈り物が届きました。
 ミニトマトはジューシー、キュウリは持つと棘が痛いくらい新鮮で瑞々しい・・・。大葉やナス、インゲンなど奥様が天ぷらにしてくれましたが、うまいっ! こういう贈り物は、何度あってもどれだけあっても大歓迎ですねえ。あ、催促しているわけではありませんよ、催促しているわけでは・・・[たらーっ(汗)]
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土日は「山波」の日 [映画・文学・音楽]

 名古屋に「山波」という同人誌がある。もう50年も続いていて「名古屋市文芸創造団体活動助成金事業」の認定も受けている。
 事の始まりは、高校時代から付き合いのあるwildboarさんが同窓会だったかで知り合った、だるまさん(もちろん筆名)が関わっている同人誌に「何か書いてくれ」と言われて、書いた。その作品が載っている雑誌を、長年出版社に勤めていた私に「感想を聞かせてくれ」と、送って来た。wildさんは、いつの間にか同人誌の常連になり、毎回、私が感想を述べるというやりとりが何回か続いた。そのうち、どうも原稿の集まりがよくないので、何か書いてくれないかと言ってきた。
 私自身、今は作家になっているSYさんや、このブログに毎月「日記」を投稿してくれてきているKSさんらと高校時代から30過ぎまで同人誌ごっこをやっていた人間なので、依頼に応じて同人誌時代の話を書いた。それが意外と好評で、おだてに乗りやすい私は次の号も書き、いつの間にかセミ・レギュラーになってしまったという次第。
 しかし、この「山波」という50年も続き196号まで出されている同人誌も最近では高齢化が進み、このままでは先細りは必定。何とかしたいとSOSが発せられた。もちろん、私としても全面的に協力したい。
 といっても、東京の地からできることはたかがしれているし、金もない。何か出来ることはないか。ない知恵を絞った結果、「山波」の存在を広めれば、書いてみたいという人や、書くのは無理だが読んでみたいという人が現れるかもしれない。で、こんな宣伝チラシを作ってみた(久しぶりにInDesign=レイアウトソフトを使ったが、すっかり忘れていて苦労した(^^;)。
 たいしたアクセス数もない極小ブログなので効果のほどは期待できないが、やらないよりはやったほうがマシだろう。興味をもたれたら下記の事務局までぜひ問い合わせていただきたい。(^-^)
※この「山波」宣伝チラシは土日掲載されます。次回更新は月曜日になります。

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「山波」ピンチ! [映画・文学・音楽]

 3/23に区役所に出してきたPCR検査の連絡がありました。結果は陰性でした[わーい(嬉しい顔)]。とはいえ、それは23日時点での話ですので、やはり人出が多い所への外出は「自粛」します。

 「山波」という雑誌があります。
 といっても、ほとんどの方は知らないと思います。名古屋を中心に年4回細々と発行されている雑誌です。政治的なものでも宗教的なものでもない「総合文芸誌」で、「名古屋市文芸創造団体活動助成金」を受けながら現在196号まで発行されている同人誌です。
 その「山波」が、現在ピンチです。理由は会員の老齢化と昨今のコロナの影響もあって部数が激減していることにあります。このブログにリンクを貼っているwildboarさんが「会友」で、その縁から私も何回か駄文を寄せたことがあります(^^;。
 雑誌の内容は、小説、詩、俳句、評論、エッセーなど多種多様。落語に関する蘊蓄なんてのもあります。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、何十年も続いた伝統ある同人誌がこのまま無くなってしまうのは、あまりに惜しい気がします。
 ピンチを救うのは、何よりもまず部数と会員の増大、とりわけ前者が重要です。このような雑誌、活動に興味のある方は、気楽に事務局と連絡をとってみてください。講読、入会など名古屋弁で(^^;親切に対応してくれます。
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100分で名著 マルクス『資本論』 [映画・文学・音楽]

 昨日は暖かい1日でしたが、今日2/15は朝から雨で、午後からお日様マーク。地震はあるし、森は辞めるし(後継者候補の1人に安部ちゃまの名前があがってるんだって(≧Д≦;)オリンピックは断念しての幕引きってことなのかな。自分の幕引きも出来ない人に託して大丈夫なんかいな(^^;)、どうなっちゃってるんでしょうねえ[バッド(下向き矢印)]

 半世紀も前の大学には教養部というものがあった。
 一、二年生に学部に関係なく人文・社会・自然科学のいろいろな分野の学問を取得させ「教養」をつけてもらうという目的の組織である。重苦しかった入試も終わり、就職はまだまだ先のことだ。ゼミなどという堅苦しいものではなく、指導教官制というものがあり自由に選ぶことができた。法学部の同期たちの多くは法律や政治関係の教官を選択したが、私は廣松渉という論理学の助教授(当時の言い方)を指導教官に選んだ。論理学の講義がなかなかおもしろかったのが、その理由だ。専門部に進めばどうせ法律や政治の講義は「いや」というほど受けなければならないのだ。しばしそれとは少し違うものも体験したかったということもあった。
 指導教官制による少人数の講義というか「緩ゼミ」は、たいてい教官の研究室で行われた。気楽な自由ゼミのようなものだと言えばわかってもらえるだうか。テキストはマルクスの『経済学・哲学草稿』。私以外はほとんどが文学部哲学科の学生と大学院生だった。二時間のうち一時間半くらいがテキストを廻るやりとりで、残りの三〇分は哲学一般に対する雑談だった。場合によっては、それが1時間にも2時間にもなることも。
 私にとってマルクスは初体験だったが、私以外の人間はすでにマルクスの著作を何冊か読んでいるのにも驚いた。私は、当時ある種のブームでもあった実存主義にも興味があったので、自分なりに調べてみると、実存主義書物の最高峰はハイデガーの『存在と時間』のようなので岩波文庫のものを買った。読み始めた。ところが、これがどうにもよくわからない、いや、全然わからないのだ。
 もちろん翻訳という「ハンデ」はあるわけだが、プラトンの著作は劇作のように読めるし、デカルトの『方法序説』は自叙伝のようなものだし、パスカルの『パンセ』はエセーだ。同じ実存主義でもサルトルの『方法の問題』なども論理は追っていける。マルクスの著作だって繰り返し読めば何を言いたいのかアウトラインくらいはわかる(少なくともわかったような気にはなる)。ところが、『存在と時間』は、この人はいったいこのフレーズで何が言いたいのだろう、さっきのフレーズとどう繋がっているのだろうと再三再四考えたところでさっぱりわからないのだ。思いあまって廣松教官に相談してみた。
 その答え。
「ハイデガーを翻訳で読んでもわかりません」
 言葉を失うとはこういうこだ。唖然としている私に、さらなる追い打ちが。
「翻訳でハイデガーがわかる人がいたら、その人は天才です」
 なるほど、天才でも何でもなく不勉強な私にわかるはずがなかったのかと、妙なところで納得し、以来、ハイデガーの本は1冊も読んでいない。確かに哲学書の翻訳では、当然そこに訳者の思想が入り込むわけなので、原著者の思想とは異なる結果になる可能性があるのは否めない。廣松教官は哲学者なのだから当然の答えだ。
 せっかく大学に入ったのだから少し哲学でもかじってみるか程度の謂わば野次馬学生に過ぎない私には哲学を「やる」資格などないことがよくわかった。まあ、やる気もないのだから当然の結果と言える。中学から習っている英語ですら怪しい学生なので、文学部哲学科などというものを選択しなくてよかったとある意味安心した。
 学部に進学してからも、経済学史の平田清明教授から、
「『資本論』を研究するのなら、マルクス自身が校訂した最後の版であるフランス版を同時に確認していく必要がある」
 とも、言われた(私は法学部の学生だったが、経済学部や文学部の指定の教科は受講できた)。これまた、もっともな意見なのだが、フランス語など皆目わからない。「研究」する気など初めっからないのだから悲観することはないと、自分をなぐさめるしかない。

 そんないいかげんな学生生活をおくってきた人間でも、『経済学・哲学草稿』の「人間は、自然との絶えざるVerkehr(交通)の中にある」なんて言葉を未だに覚えているくらいだから、さすがに学生時代にはまだボケていなかったようだ。経済学部の経済原論IIは、マルクス経済学(Iは、所謂近代経済学)だったので、これも興味から受けてみた。教授がヨーロッパ「留学」中で、東北大学の教授の集中講義(夏休みに朝から夕方まで通して5日間)だった。『資本論』の概説ではなく、資本の再生産表式を中心とした講義で、後の平田教授の資本回転論と併せて考えてみると、なぜ現在の産業資本主義が歴史的なものであるにもかかわらず歴史貫通的なものに見える(思える)のか。そのロジックについてはここには書かないが、『経済学批判』における土台と上部構造の関係とはこういうことだったのかと目から鱗だったことはっきりと覚えている。
 ・・・いずれも若いころの話で、『資本論』なんてものも遠い昔に読んだ(活字を見た?)本という以上のものではなくなっていた。そんなときに、NHK-Eテレで「100分の名著『資本論』」が放送されることを知った。斎藤幸平というレクチャーは聞いたこともない人なのだが、私が知っている学者さんたちはとうにお亡くなりになっている。今の時代にマルクスを研究しようという人はどんなことを考えているのか、興味もあって見てみた。
資本論.jpg
第1回 「商品」に振り回される私たち
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を産む!?
第4回 〈コモン〉の再生
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/105_sihonron/index.html

 実に、現代的視点からマルクスの考えていたこと、ということはつまりは『資本論』(マルクスが執筆したものは第1巻のみで、第2巻、第3巻は草稿をエンゲルスがまとめたもの)が射程としていたものを改めて問うという構成でなかなかにスリリングな放送だった。素晴らしい。
 再放送があったらぜひ見てほしいと薦めるとともに、テキストはまだ本屋で売られていると思うので、読んでみるといい。政権よりの忖度が目立ち、アベ様のNHK、スガ様のNHKなんて言われているNHKだが、こういう番組が作れるところをみると、まだ見捨てたものでもないのかも。
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歌舞伎版「風の谷のナウシカ」視聴完了 [映画・文学・音楽]

 見始めるとつい見てしまうという悪癖のため、午前1時半までかかって全6時間の大作視聴完了。いやあ、おもしろかったけど、(演じる役者も大変でしょうが見るだけの当方も)疲れました。まずは、視聴完了のご報告まで。m(__)m
ナウシカ.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=Md5a_EavdzE
https://www.youtube.com/watch?v=vLV39w1W1Y0
https://www.youtube.com/watch?v=yCTurOyI_VU

※個人的には連獅子で盛り上がったものの、終盤の会話に次ぐ会話はやはり説明過多。全体のクライマックスなのに何を言いたいのかほとんどわからない(原作まんが自体がわかりにくいのだが、読んでいない人にはナンノコッチャわけがわからないのではないだろうか)。
 これは、原作をなぞり過ぎた欠点だと思う。仕事がなくて、「アニメージュ」の誘いにのりまんが連載を始めたものの、アニメが軌道に乗ってくると、もともと宮崎駿はアニメの人なのでどうしてもそちらに関心がいってしまう。まんがは負担になる。しかし、構想はたてていたのだし、ここまできたら完結はさせたい。と思ったかどうかは知らないが、原作のまんがもラストは会話に次ぐ会話。私の個人的な意見としては、これはもうまんがとして成立していない。最後のいわばラスボスとの対決が会話のみで進行するため、こちらの心に届いてこないのだ。絵物語というか、劇のシナリオに挿絵がついているようなものだ。会話のみではなく絵として実現させようとしたら、倍、いや3倍の誌面(時間)がいる。その原作を決められた時間(6時間ということ自体ある意味限界を超えている)内でやりきろうとしたところに無理があったのだと思う。
 ジブリの鈴木プロデューサーが言うように、「ナウシカ」全編の歌舞伎化なんてものは、そもそも「無謀」な試みなのだ。その無謀に挑戦したこと自体拍手喝采なのだが、せっかく宮崎駿も「(『風の谷のナウシカ』という)タイトルさえ変えなければ好きにしてもらっていい」と言ってくれているのだから、会話のみで進むラストの作劇は、原作にとらわれ過ぎず簡略化にもうひと工夫あってよかったのではないかと、これはあくまで個人の感想です。(^-^)
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歌舞伎版「風の谷のナウシカ」 [映画・文学・音楽]

 宮崎駿のまんが「風の谷のナウシカ」(全7巻)を尾上菊之助が中心になり歌舞伎化。アニメになったのは最初の2巻だけなので、全編を歌舞伎化したこの公演にはとても興味があったのだが、チケットは即日完売。コロナもあって諦めていたら、ナントこの正月にNHK-BSが2日にわたってノーカット版を放送。何かと問題の多いNHKだが、たまにはいいこともする。
 全部で6時間もある大長編なので、とぎれとぎれにまず前半のみ見てみた。王蟲も出てくるし巨神兵も出てくる。菊之助ナウシカがメーヴェに乗る宙づりもある。スペクタクル見世物歌舞伎として退屈しない。もちろん、まだまだこなれていないところや説明過多のところなど未完成なところも多いのだが、所謂「古典」歌舞伎も初演のときは「新作」だったわけで、歌舞伎だからといっていつまでも古典に安住していればいいというものでもないだろう。こういう新しい試みには、大いに拍手したい。(^-^)
https://www.youtube.com/watch?v=yCTurOyI_VU
ナウシカ.jpg
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脚本に感心した「水曜日が消えた」 [映画・文学・音楽]

 いやはや、緊張感がないというか、下級国民には自粛の嵐で、自分たちは夜遊び三昧。石原の例でもわかるように、与党のエライサンならコロナに感染してもすぐ入院できるという安心感がなせる業か。呆れ返る、開いた口が塞がらないとは、こういうことであるという典型的な事例として辞書に載せたいくらいのものである。(▼▼メ)
https://mainichi.jp/articles/20210126/k00/00m/010/276000c
↓ま、議員が議員なら秘書も秘書ということで。(▼▼メ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/2f53230ec7bf482a71f3c0cff50b3590eb59e972

 水曜日なので、水曜日に関連した映画の話を。

「水曜日が消えた」☆☆☆★★★

 ダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」で有名になった解離性同一性障害(1人の人間の中に複数の人格が存在する)の人物を主人公にした映画。監督・脚本は吉野耕平(全く知らない人だ)。主人公は事故のせいで7人(つまり曜日毎に違う人格)が内在する。曜日によってこんなに違う人格が存在するんだろうか、という点さえ納得できれば別に難しい映画ではない。交通整理はとてもよくいきとどいているのですんなり映画の世界に入る事が出来る(他の曜日の人格に申し送りをメモ書きして貼っておくため家中にメモが貼られているところなど視覚的にも工夫されている)。
 今どきの映画にしては珍しく、原作の漫画もライトノベルもなく、監督のオリジナル脚本。普通、このての話なら月曜とか金曜とか別の曜日の人格が(同一俳優で)服装もしゃべり方もがらりと変えて出てくると思うのだが、本作では火曜日だけしか出てこない(厳密に言うとスマホで月曜日がちょっとだけ出てくるが)。この構成では普通に考えて話が単調になってしまうのだが、だれることなくきっちりと描ききったというだけで、★1つプラスしたい。
 いやあ、うまい脚本だなあ。
 きれいな色がスローモーションで浮遊している画面(同じ場面の繰り返しではなく少しずつ違っているので注意)やマグカップ、ネクタイなど細かな所にまで映画進行の鍵が隠されていて感心した。映画はモーション・ピクチャーなのだから、どんなに脚本がよくても、やはり「絵」として成立していることが必要なのだ。迷路を思わせる図書館のシーンなども視覚的に工夫が凝らされている。悲劇に終わらないのもよい。よーわからんという人のために、最後に各曜日を紹介するという親切もあり、クレジットへの移行もだらだらしていない。★もう一つプラス。
 主演の中村倫也は、映画「屍人荘の殺人」やドラマの「美食探偵明智五郎」など見てもなんだかなぁという感じだったが(「凪のおいとま」の廃人製造機役はよかった(^^)、この映画はとてもいい。キーポイントとなる女性役の石橋菜津美もちょっとボーイッシュな感じで愛と後悔の入り混じった役をうまくこなしている。ただ、図書館で出会う深川麻衣はかわいいのだが、ただそれだけの存在なのでもう一つ何かひっかかりが欲しいところ。医師のきたろうは、あいかわらずの存在感だが、個人的にはこういう医者にはかかりたくないなあ。
 私としてはヒット漫画やノベルで安全策をとった(企画が通りやすい)妙なファンタジーやホラー映画ばかりの昨今、こういう映画に出会えてホッとしている。久しぶりに満足のいく映画を見たという気持ちだ。いずにしてもストーリーを書いたところでこの映画のおもしろさは伝わらないと思う。気になる人は見るしかない。レンタルビデオショップにでも行って借りられたし。
↓ちなみに、下のポスターは、明らかにミスリードを狙ったものだと思う。
水曜日.jpg

※仕事が押しているので明日(もしかすると明後日も)ブログ更新休むかもしれません。
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見てはいけないゴジラアニメ [映画・文学・音楽]

 先ほどちょっと買い物に出かけたのですが、いや寒いのなんのって・・・(こるらぁぁ、はっきりしろっ!)。こりゃあ夜には雪になるかもしれませなねえ。(^-^)

 この土日は少し余裕ができたので、来週に備えて体力・精神力の蓄積を考えながら、ブログも更新していきます。どうだっ!と、虚勢やれやれ・・・。
 どこでどう情報を仕入れたのか、知り合いから「ゴジラのアニメ版3部作があると聞いたんですが、どんなもんですか?」というメールが来た。答えは簡単。見るだけ時間の無駄。私は、3作とも見てしまって、残り少ない人生の貴重な時間を浪費してしまった。この3部作に関しては、以前、別のブログに書いたものがあるので、それを再録しておく。それでも見たいという人は、まあ勝手に見ればいい。こちらに止める権利はないのだから、「どうぞ」と言うしかない。
 史上最高の興収をあげた「鬼滅の刃」はアニメとしてもストーリー展開としてもツッコミ所満載だったが、このゴジラ3部作と比べたら数段よく出来ていると自信をもって断言できる。あ、いただいたメールの中に「鬼滅の刃」で好きなキャラは?という質問があったが、私は断然「ゼンイツ」くんです。(^^)/
【補足】「ゼンイツ」くんといってもわからない人もいるようなので、補足。主人公・炭治郎の仲間の我妻善逸(あがつまぜんいつ)です。普段は女好きで臆病なのですが、雷の呼吸の使い手で突然カッコよくなります(^-^)。
名称未設定 1.jpg

 以下、ダメダメ・ゴジラアニメの感想。半分は知り合いへのリプライ、半分は忘備録なのでスルーを推奨します。(^^;
ゴジラ.jpg
第1作
「GODZILLA 怪獣惑星」☆☆★★
 例によって情弱な私は、知り合いから聞いて、こんな映画があることを知った。ただし、今までのゴジラ映画とちがい、3Dアニメである。その製作過程はNHKでも放送されていたくらいだから、話題作なのだろう。舞台も、未来の地球。まだ見ていない人も多いと思うので詳しいストーリーは書かない。もちろん、なんだかんだとあるわけだが、3Dアニメ自体はなかなかよく出来ていて、後半の攻防戦はそこそこ迫力があるとだけ書いておく。にしてもだ、1時間半くらいの映画で、かんじんのゴジラ様登場が開始1時間近くになってからってのは、いくらなんでも遅過ぎるんじゃないかい。観客は長々とした背景説明を見に来たのではなく、ゴジラを見に来たんですぞ。トラウマがどうのこうのという話にあまり説得力はなく、老人としては退屈するしかなかった。全体構成を失敗したクソ・アニメと言うしかない。
 初めの方で(回想シーンなどてせはなく)まず軽くゴジラにひと暴れさせておいて、その凄さを観客にイメージさせて必要があったのではないのか。ラストは予想された通りのものなので、そこそこ当たれば何作か作るつもりなんだろう(というか、当たる当たらないにかかわらず3Dの造型はもう出来ているわけなので、前後篇あるいは3部作として最初から作るつもりだったんだろうと思う)。
↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=pYwAbBI0r5o

第2作
「GODZILLA決戦機動増殖都市」☆★★★
 「Godzilla怪獣惑星」というクソつまらないアニメがあった。
 舞台は2万年後の地球。そもそもそんな未来の舞台にあえてゴジラを出す必然性があるのか。答えを先に書いてしまえば、ゴジラというネーミングによる集客以外に全く必然性はない。だったら、「おおっ」と驚くような斬新舞台設定、そして斬新なゴジラを出してくれればいいのでだが、どうでもいいような会話とアホな行動につき合わされて欠伸すら出ないストーリー展開。ようやく登場するのは映画開始1時間近く後。で、多くの犠牲をはらいながらもついにやっつけたのかと思ったら実はまだ、という定番ともいえる終わり方。
 多分、興行成績も悪かったと思うのだが、3部作なんて言っちゃったもんだから、仕方なく?その続編。ところが、これが前作に輪をかけたようなクソアニメだった。
 製作者の自己満足のような一見哲学的な底の浅い会話が交わされて退屈するのは前作同様。さすがにそれだけでは尺がもたないと思ったのか、「アバター」かと思われる人類の生き残りらしき人間もどきが登場してくるのだがとりたてて重要な役割を果たすわけでもないし、途中からは本筋から外れていってしまう。次回への伏線のつもりなのかもしれないが、それならそれでストーリーの組み立てっちゅうもんがあるだろうが。
 で、あいかわらずゴジラ様のご登場は開始1時間後。しかも、このアニメシリーズのゴジラは、ゴジラのフォルムに多少はこだわりをもっている私には鈍重な巨大クマにしか見えずゴジラと認めたくないくらいの不格好。また、ゴジラの背景は都市ではなく森林のため大きさが実感できないのは前回と同じ。体長300mと言われたところで、ビルとか比べるものがないのでイメージもわかず、ふーんと言うしかない。
 メカゴジラ覚醒なんて宣伝からさすがにラストは今までにないゴジラVSメカゴジラの手に汗握る戦いが見られるのか期待したらこれが完全な詐欺(ネタバレしないように書いている)。くだくだと詐欺の理由を説明しているが、言い訳にもなっていない。安倍嘘つき独裁者とはちがうんだから、ここは素直に「詐欺」を認めるべきだろう。さらに、ラストの一言「ギドラ」って、いくらなんでも最終第3作ではキングギドラちゃんと出してくれるんだろうな(ただ、あの人間もどきが守っているのは卵で、卵といえばモスラなのだが?)。
 いずれにしてもクソ・アニメの続編は、クソにもなれない完全なゴミ・アニメと断定。
 こんな駄作では人が入るはずもなく、大赤字は必死。テレビ放映でも視聴率はアウトだろう(推測です)。それでも告知したてまえ次回作は作られるようだが、東宝ってそんなに余裕のある会社なのか。私が経営者ならこのシリーズを企画した人間はまちがいなく降格、更迭、左遷。監督、脚本などに関わった主要スタッフには会社への出入禁止を宣言するところだ。
↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=_-SeQD22Csc

第3作
「GODZILLA星を喰う者」☆★★
 クソゴミ「ゴジラ」アニメの第3作にして最終話(多分)。今回も始まってから、新興宗教もどきのどうでもいいような退屈な話が延々と続く。40分過ぎてようやくキングギドラならぬ「紐」ギドラが登場しデブゴジラと対決するが、間にまたまた退屈な説明が入ったりするのでスピード感も迫力も恐ろしさも感じられない。特異点だとか異次元世界だとか、よけいな設定説明多すぎ。退屈な会話で進められるゴミ・シナリオに従って紐ギドラがデブゴジラに噛み付いているだけだもんネ。動かぬアニメでおもしろくも何ともない。
 「三大怪獣」以来のキングギドラフアンとして言うが、あの紐ギドラは断じてキングギドラではない。前作の単なる小汚い都市をメカゴジラだと言ったところで誰一人納得しないように(すくなくとも私は納得していない)、アニメ・ゴジラのスタッフは、せっかく先人たちが築いてきたおもしろい素材をぶち壊して悦に入っているとしか思えない。アニメならではのおもしろさもどこにもなく、これで、どうだおもしろいだろうと考えているとしたら、単なるアホだ。
 また、アクションの流れをぶつ切りにして、やたら意味深らしき台詞を吐かせているが、製作者たちは、これがカッコイイと勘違いしているのだろう。要するに、この深い意味がありそうで本質は何もないカッコだけの薄っぺらな台詞を重々しくつぶやくように言えばカッコイイとする勘違いは第1作から延々と続いているわけで、ある意味全くブレはないのは凄い(「アホか」という意味合いで書いている)。
 第2作で登場したアバターもどきも大して意味のある活躍はしていないし。突如現れたシルエットモスラも意味不明。そして、バッカじゃないのと言いたいほどのあほらしいラスト。もしかしたら最後くらいはおもしろくなるんじゃないかと思った私がバカだった。バカは死んでも治らないのだ。デブゴジラも最後までデブのままでカッコよくなることなく終了。いったい制作費にいくらかかったのか知らないが、ドブに金を捨てるとは、まさにこのこと。クソ・アニメ、ゴミ・アニメときて、最後は汚物・アニメになったというか、もはや悪口が思いつかない。自信をもって「絶対に見ないほうがいい」ことをお薦めしておく。
↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=lxnR5hq6sSQ
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「鬼滅の刃」+「忘備録」映画の終わり方 [映画・文学・音楽]

  大ヒット公開中の「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の興行収入がナント324億7000万円となり歴代1位になったんだそうです(これまでは「千と千尋の神隠し」の316億8000万円)。
https://mainichi.jp/articles/20201228/k00/00m/040/084000c
 話題になっていたので、ミーハー老人としてはまず、どんなものかとテレビ放映された全26話を、そして劇場版を見てみました。
 簡単に書けば、鬼に家族を殺された主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が鬼になってしまった妹を再び人間に戻すため「鬼殺隊」に入り仲間と共に鬼と戦う物語。次々と難敵が現れ、これを倒して進んで行く中で仲間も傷つき倒れて行くという展開は「ドラゴン・ボール」や「キン肉まん」でおなじみの「ブロレスパターン」。ナンダカンダあって、炭治郎たちが無限列車に乗り込むところまでがアニメの最終26話。その直後の話が劇場版になっている。書店でチェックしてみると、全23巻のうち無限列車編は7、8巻なのでようやく1/3まできたところか? マチガイナク続編アルネ(^^;
 映画を見て驚いたのは、とくに人物紹介などなしに進んでいくこと。炭治郎の妹がなぜ竹を咥えているのか、猪の被り物をしているのは何なのか、主人公たちはどうしてこの列車に乗り込んだのか、「柱」って何なんだ・・・等々、映画が初めての人にわかるのだろうかということだが、年寄りとちがって若い人たちは原作もアニメも見ているのだろう。見ていなくてもネット情報で概略程度は知っているのだろうか。
 映画自体は列車の部分とその後の2本立てようなもので、1時間弱のアニメを2本見せられたようなもの。また、列車がどこをどう走っているのか話が列車内に留まっているため「列車物」特有のスピード感はあまり感じられない。「鬼太郎」の「幽霊列車」だって駅名が火葬場、骨壷・・・と進んで行き終点が地獄で緊張感を出していたゾ。アニメとしての作画、動きもテレビアニメと比べて唸らせるほどのものではなく、主人物の口だけしか動いていないシーンも目立つ。技術的にはジブリや新海アニメのほうが遥かに上だ。今日の本題の「終わり方」に寄せれば、素晴らしい「柱」の死は確かに衝撃であり悲しいことではあるが、あれほど延々とめそめそシーンをやるよりスパッと終わった方がはるかに余韻が残ったと年寄りは思うわけだ。が、そんな細かいこたぁどうでもいいんだよという映画なのだろう。確かに腹が立つような駄作ではなくそれなりに見られるものではあるのだが、なぜこんな大ヒットになったのか、年寄りには見当もつかない。
 「少年ジャンプ」の原作なので「友情・努力・勝利」の青少年向けのもので、残念ながら年寄りはお呼びじゃないと考えるしかない。若者たちは、
「泣くな、絶望するな、そんなのは今することじゃない」
「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない。この少年は弱くない。侮辱するな」
「俺は俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!」
「そんなことで俺の情熱はなくならない。心の炎が消えることはない。俺は決してくじけない」
「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと心を燃やせ」
 なんていう台詞にそれこそ体が振るえ、心が燃え上がるのだろう。いいなぁ、若いってのは。歳をとったからといって、若いころはあったのだ。その感情は理解できる(^-^)。しかしだからといって、多分映画を見てもいないスカ首相が「全集中」なんて言うと、てめえ全集中でGoToやってたのかと腹が立ってしまうから不思議だ(▼▼メ)。

 はいっ(ジャンポケ斉藤かっ(^^;)、以下は「鬼滅の刃」とは全く関係のない、年の瀬にちなんだ映画の「終わり方」についてなんだかんだと思いつくまま書き綴ったまとまりのない「忘備録」。

 大昔に読んだモンテーニュの「エセー」に、人はどう死ぬのかどう死んだのか、その人の評価は死んで初めて定まるというようなことが書いてあった(半世紀も前のことなのでよくは覚えていない(^^;)。人生もその「終わり」が肝心で、いくらその過程が立派でも、終わりがダメでは、その価値も半減してしまう。体操競技やスキージャンプだって着地で転んだら大幅減点だ。同様に、映画もそのラストシーンによって評価の多くの部分が決まる。
 というのは、まあコジツケで、アベノマスクとコロナウイルスに揺れた2020年ももうオシマイなので、今回は、映画の終わり方について過去に書いたものに若干の補筆をしてアップする。実は、まだ補筆の途中だが、最近のボケ進行からすると、こういう雑文を書いたことすら忘れてしまいそうなので、思いついたときがアップ時ということで、強引にアップすることにした。
 人生も映画もその「終わり方」が肝心(それにしても、歳をとってからの1年はホントに早い。ほとんど何もしていないうちに1年が経ってしまった(^^;)。

 ラストシーンが印象に残っている映画というと、まずチャップリンが思い浮かぶ。同時期のキートンなどと比べて、チャップリンが長編を破綻なくまとめることが出来たのは一にも二にもラストのうまさ、中でも(ワイルダーと同じように)決め台詞のうまさにあったのだと思う。
 たとえば「モダン・タイムス」のラスト。
 チャップリンがポーレット・ゴダードと並んでとことこと向こうへ歩いていく有名なシーンだ。歩いていったところで何かいいことがあるという保証は全くないのだが、「何もいいことはない。死んでしまいたい」と言う彼女に対して、チャップリンが言う「笑って。さあ、笑って」という台詞がきいているので、観客も何となくいいことがあるに違いないという気になってしまうのである。それにかぶさるチャップリン自身が作曲した「スマイル」という曲がまた絶妙で、映画全体としては短編を寄せ集めたような校正なのだが、つい感動してしまうのである。
 「街の灯」のラストもうまい.目が見えるようになった彼女が、汚い浮浪者のチャップリンがかつてそれが自分を助けてくれた紳士と気付かず、手に触れて初めて「あなたなの?」ときくシーンは、ぞくぞくするくらいの上手さで多くの模倣作も産んだ。あのギャグまんがの王様を自称する赤塚不二夫ですら「おそ松くん」の中でイヤミをチャップリンにこのシーンを使っていたほどである。チャップリンの困ったような、うれしいような顔のアップで、パッと終わる終わり方も見事(とはいえ、どう考えてみても、「モダン・タイムス」にしろ「街の灯」にしろ、このあと主人公たちを待っているのは、悲惨な人生だろう気がしないわけではない。それをなんとなく「よかった、よかった」風にうまくまとめてしまっているのは反則のようなものだが、「芸」というものだろう。
 「独裁者」はちょっと退屈するところもないではない作品だが(とはいっても冒頭の15分は大笑いできることを保証する)、ラストの大演説の後、「アンナ、聞こえるかい…」と呼びかけるうまさ。その途端、大所高所からされていた演説が、突如として観客一人一人に語りかけられるものになり、演説自体は悪い内容ではないので見ている者の心に直接届くのである。「殺人狂時代」(この作品のためにレッド・パージをくらい、アメリカを追われたといわれる)は、キネマ旬報第1位になった失敗作だが、しかし、「1人殺せば殺人犯、100万殺せば英雄」という彼の有名な台詞は実に説得力がある。この台詞だけで作品の価値が1ランクは確実に上がってしまうのだから。そんな決め台詞のおかげで、観客は、チャップリンの映画を見終わると初めから終わりまで充実した1本の長編(それは、とりもなおさずもう一つの人生ということになる)を体験したような錯覚に陥り、何らかの力を得たような気分になれるのである。「ライムライト」の主人公の死を知らずにヒロインが躍り続けるラストも印象的だ。極論すればあらゆる芸術作品が錯覚の上に成り立っていることを考えるならば、チャールズ・チャップリンは、やはり偉大だったと言わねばならない。

 ラストがうまい監督と言えばビリー・ワイルダーも欠かせない。
 が、ワイルダーについて書き出すとチャップリン以上に長くなってしまう。「情婦」(原作はアガサ・クリスティの短編で直訳すれば「検察側の証人」。「情婦」なんて邦題をつけた奴は万死に値する)のラストを見ればわかるとだけ書いておく。[翼よ、あれが巴里の灯だ」や「アパートの鍵貸します」などのラストも切れ味がよく、余韻が残る。「あなただけ今晩は」の「それはまた別の話」や、「お熱いのがお好き」の「完全な人間などいない」なども名台詞ラストも座布団3枚。いかん、ワイルダーについては書かないついっておくながら長くなりそうなので止めにする。
 アメリカ映画の古いところでは、「モロッコ」(スタンバーグ)や「カサブランカ」(マイケル・カーティス)など、今でもそのラストシーンについて語りたがるフアンがいるほどだ(私のその中の1人なのだが(^^;)。
 
 やはりラストが決まってこそ映画の評価も高まると思うのだが、どうも日本映画は、終わり方がヘタである。
 たとえば昔の映画になるが、世評の高い山田洋二の「幸福の黄色いハンカチ」のラスト。出所した高倉健がひょんなことから知り合った武田鉄也・桃井かおりと共に、妻の待つ家へ帰ってくる。妻が待っていてくれるのなら黄色いハンカチが……、ということで観客もドキドキしながら高倉健さんと同じ気持ちで画面を追っていくという、なかなかうまい場面設定である。で、(まあ見ている人が多いと思うので、ネタを割ってしまうが)黄色いハンカチはあるのだが、それが1枚ではなく、観客の意表をついて何枚も何枚もずらりと並んでいるのである。「わっ、よかった」と思うそこでどうして終わりにしなかったのだろう。その後つまらないシーンをだらだらと続けたために、この映画はせっかくの名画になるチャンスを失ってしまったのである。
 最後の着地というかキメがヘタという点では、残念ながら黒澤明も例外ではない。
 「用心棒」のラスト、三船に斬られてもうとっくに死んでいると思った仲代達也がまだ生きていて「お前は、優しいなあ」とか延々とぐじゃぐじゃ言うのには参った。続編の「椿三十郎」は、三船と仲代のラストの一瞬の勝負が話題になったが、あれはああでもしないと終わりにならないという無理やり終わりにするためのラストで私はあまり買っていない。「影武者」のラストの死体累々の間を仲代うろうろも長すぎる。名作「七人の侍」だって戦いが終わってからの百姓の田植えのシーンは、もちろんあってもいいのだがあの半分の長さででいいと思う。映画の格としては2ランクも3ランクも落ちる西部劇版「荒野の七人」だが、ことラストに関しては西部劇版の方が余韻を残して遥かに上である。
 周防監督の「Shall we ダンス?」は、なかなかよく出来ている映画だがこれもラストがもたもたと長い。「草刈民代に「Shall we ダンス?」と訊かれた役所が頷き彼女の手をとったところですぐエンディングに入るべきで、有象無象が一緒になって延々と踊るシーンなど絶対に必要ない。どうしても出したいのなら、クレジットタイトルのバックにでも出せばいい。
 これらは世間的にも名作とされているもので、それ以下の映画となると終わり方はもっとひどい。中にはわけのわからないまま幕が降りてくるものもある。アクション物、ヤクザ物などは主人公か仇、あるいはその両方が死に、登場人物が死んでしまったので映画も終わりだよーというものも多い。小言老人としては、終わり方ってものがあるだろうがと、小1時間説教の一つもしたくなるってものだ。

 その点、洋画は名作でなくてもそれなりにうまいものが多く、だらだらと続けることはしない(もちろん例外は多くあり、あくまで邦画との比率)。
 ビリー・ワイルダーやチャップリンは一流の監督だからと言うのなら、「カプリコン1」のピーター・ハイアムズのような普通の監督の平均的作品でもラストは、うまいと言っておこう。偽火星着陸を演出しその乗組員はすべて殺害したと思っている政府高官が墓前で「彼らの意志を継ぎ……」とやっているところへ、たった1人生き残った乗組員が記者と共に走ってくる、そのストップモーションで終わっているのだ。政府高官を映していたTVカメラがすべて走ってくる2人の方へ向きを変えるというそのワンショットで、それがどういう結果をもたらすのかは観客は十分にわかるのだから、その後をぐじゃぐじゃやるのは愚の骨頂というものである。キューブリックの「2001年宇宙の旅」とくらべて今ではほとんど話題にもならない同じくハイアムズの続編「2010年」にしたって大した映画ではないが、ラストはうまくしめくくっている。
 第二次大戦下の潜水艦と駆逐艦との死闘を描いたディック・パウエル監督の「眼下の敵」。
 戦いは痛み分けのような形で終わるのだが、ラストでアメリカの駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムがロープを投げたために、助かったUボートの艦長クルト・ユルゲンスがこんなことを言う。
「今まで死ぬべきところで死ねなかった。しかし、今回は君のせいだぞ」
「今度は、ロープを投げないでおこう」
 と、ミッチャムはすました顔をして答える。するとユルゲンスは言うのだ。
「いや、また投げるよ」。
 そこでカメラは引きになり、大洋をバックにエンドマークが入るのだが、敵味方を越えた海の男の心意気を示して気のきいた実に余韻に溢れた終わり方できないか。
 ジョン・ヒューストンの「勝利への脱出」は途中かなりダレルところがあって傑作になり損ねた作品だが、サッカー場で観客が雪崩をうってグランドへ入り込み(このシーンは、かなり迫力有り)、その観客の群れとともにゲートを壊して場外へ逃れた、そのシーンでパッとエンディングへもっていくあたり、手慣れているというか、うまいものだと思う。
 シリーズ化された「ロッキー」も「ファィナル」のラストは素晴らしいものだった。試合が終わりロッキーたちは判定を待たずに引き上げる。つまり、ロッキーにとっては現役の世界チャンピオンと試合をするということが目標であったわけで、判定などどうでもいいことなんだと見ている者を納得させるラストといえる。判定はいずれも95-94という微差で2-1で世界チャンピオンが勝利するのだが、メイキング映像を見るとロッキーが勝利するシーンも撮ったようだが、映画に使われたラストのほうが何倍も感動的だ。

 以上はアメリカ映画だが、ヨーロッパの映画もラストで唸らされるものが何本もある。
 たとえば、クレマンの「太陽がいっぱい」やアンリコの「冒険者たち」といったアラン・ドロンの2大名作も納得のラストである。終わり方が文句なしにうまいので、映画を見た余韻がいつまでも残るというものである。やはり、外国の名監督はラストもうまいのだ。もっとも、ルネ・クレマンの映画も「危険がいっぱい」「雨の訪問者」などは映画もイマイチだったし、ラストもどうでもいいようなものだった。名監督もその映画を撮った時点で名監督だったのかどうか判断する必要がある。アラン・ドロンの他の映画では「若者のすべて」(ヴィスコンティ)「さらば友よ」(ジャン・エルマン。ただしブロンソンに食われてしまったが(^^;)「レッド・サン」(テレンス・ヤング。これも、三船、ブロンソンに食われてしまったが(^^;)などはラスト合格だった。
 トリュフォーの「華氏451」のラストなどは極めつけの1本で、その美しさと感動については、すでにこのブログにも何度も書いたが、私が選ぶ映画ラストN0.1と言っても過言ではない。

 「スパルタカス」(キューブリック)や「ベン・ハー」(ワイラー)「アラビアのロレンス」(リーン)「サウンド・オブ・ミュージック」(ワイズ)のような3時間を超える超大作でもラストは、スパッと決めている。「エル・シド」(マン)に至っては「歴史の門から、伝説の中へと駆けて行ったのである」のラストシーンのおかげで完全に評価が1ランク、いや2ランク上がった。超大作だからラストも長くていいというわけではない。見事に着地しているからこそ見終わって余韻が残るのであり、そこをだらだらやられたのではせっかくの名画もだいなしである。逆に言えば、出だしも途中の過程もラストもきちんと納得の出来にあるからこその名作ともいえる。
 超大作の場合、ともかく金がかかっているのだから何がなんでもラストはきちんと決めていい印象を残したいという意識がとくに製作者側にも強く働くのだろう。駄作も駄作。映画館では必死になって眠気をこらえる必要があったジョン・ウェインの「アラモ」ですら、ラストは感動的にピタリと決めていた。

 最後に、映画1本1本ではなく、シリーズもあまり長く続けようとはせず、キリのいいところでスパット終わる方がいい。たとえば「エイリアン」。1は宇宙ホラーとして、2は宇宙活劇として十分に満足できるものだったのだが、3でいきなり2で脱出に成功した宇宙船が墜落。2での話がチャラになってしまったところからスタート。2で、よかったよかったとおもった観客は完全に脱力。それでも凝りもせず4では、3で死んだシガニー・ウィーバーおばさんがDNAから復活。しかも眠気と闘わなければならないほどの不出来でシリーズの価値を完全に落としてしまった。多分、客の入りも悪かったのだろう、やれやれともかくこれでシリーズも完結だなと思っていたら、ナント第1作の監督リドリー・スコットが「プロメテウス」なる第1作の前史を作り始めてしまった。その後の話が「エイリアン:コヴェナント」で、さらに第1作前の話が1本作られるという噂を聞いたが未だに作られていない。リドリー・スコットは傑作「ブレードランナー」に泥を塗るような「ブレードランナー2049」という続編も作っているが、歳をとったせいで完全にボケているのだろうか、「ブレードランナー」を見て感動した人は絶対に見ないほうがよい。。
 「スターウォーズ」も第1作(epi.4)で十分だったものを儲かったので話を水増ししたようなepi.5、epi.6が作られた。まあ、全9作なんて言っていたが3部作ということで終わりにするんだなと思っていたら何年か経っていきなりepi.1、epi.2、epi.3が作られた。前史にあたるものでepi.4に繋げるストーリーなのだが、見ている方はどうなるのか結末がわかってしまっているので、全くハラハラドキドキしない。それでもepi.4の監督でもあり製作総指揮のジョージ・ルーカスの「全6作。ダース・ベイダーになった人間の誕生から死で物語は終わった」という発言に、私は、まあそういうことなら仕方がないかと思ったものだ。その後、金の亡者のルーカスが権利をディズニーに売り渡しepi.7、epi.8、epi.9が作られ、さらにサイドストーリーとして「スターウォーズ・ストーリー」「ハン・ソロ物語」が作られ、シリーズとしての価値を大幅に落としてしまった。
 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はタイムトラベル物としてなかなかよくできていたので、ヒットしたのだろう。続編、続々編と作られたのだが結局は同じことの繰りかえしになり、教訓的なものまで入って来てつまらなくなった。同じタイムトラベル映画の「ターミネーター」も「ターミネーター2」まではおもしろく見られたが、3以降はゴミ。「ブレデター」に至っては、続編が作られるたびにつまらなくなっていき、今やクズだ。古いところでは、「スーパーマン」もおもしろかったのは、2までだ。こうしてみると、SFファンタジー映画がシリーズ化されることが多いようで、結局はつまらないシリーズになってしまうのは、青年時代SFフアンだった私としてはなんとも残念なところである。

 やはり、最後をどう決めるかというのは重要だとつくずく思う。アホもスカも悪事を重ねて来たのだから、「真摯に反省」なんて言葉だけの反省はもう聞き飽きた、せめて引き際くらいは奇麗にと思うのだが、まだまだ居座り続けるんだろうなあ。見苦しいほど往生際が悪い。先日までNHKで放送されていた「焔魔堂沙羅の推理奇譚」なら間違いなく地獄行きだな。(^_-)-☆
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レニーの「第九」を視聴してみた [映画・文学・音楽]

 年末恒例と外出自粛に従ったわけでもないのですが、いい機会なのでレナード・バーンスタイン=ウイーン・フィルによるベートーヴェン「第九」のLIVE映像を通しで視聴してみました。
 NHKの番組でラス前のソプラノへの要求が過大だというようなことが言われていたので注意して見てみると、確かにあれだけの高音域であれだけ引っ張るのは大変を超えています。もちろんプロの女性ですからこなしているわけですが、緊張と全力で唄っているのが映像から伝わって来ます。
 知り合いから、なんでバーンスタイン盤なのかというメールが来ました。まあ「第九」というとカラヤン、フルトベングラー、ベーム、あるいは朝比奈隆、小澤征爾・・・。誰もが「第九」となると特別な意識があるのでしょうか、どれも聴きごたえがあり、ハズレはありません。音楽のことはよくわからないので、バーンスタインのものが「音」的にどうなのかなんてことは私には評価不可能。もしかするとCDで聴いたら、なーんだなんてことになるかもしれません。私にとっては、レニーがとても楽しくうれしそうに指揮していて、ウィーンフィルやソリストの面々も楽しそうなのが好ましく感じられるのが最大の理由なのかもしれません。カラヤンの「第九」は、正確無比なのかどうかはわかりませんが、あの無表情でロボットのような指揮ぶりが私にはどうしても「第九」のイメージに合わず、CDならともかく映像つきで見る気にはなりません。カラヤンフアンの方、悪しからず。
https://www.youtube.com/watch?v=5hly0x_ZU5c

DSC_3106.jpg

★どうでもいいようなこと★
 「第九」とラストは、タンタンタンタンターラタンタンタンッ!で終わっています。普通の交響曲のラストのイメージだとターラタンタンタン!の後に一般的にはタンタンターンで終わるので、何だか「第九」のラストは完全に終わっていないような印象をもっています。この神との歓喜のはこの先もずーっと続いていきますよーというベートーヴェンのメッセージなんでしょうか?
 ちなみにベートーヴェンを強く意識したブラームスの第1(「第九」を意識して作られたので「第十」とも言われる)は、20年もかかって作曲したので終わるのが惜しいと思ったのか(@_@;)、タンタンターンではなくタンタンタンタンターンと繰り返されている。
↓ブラームスの第1第4楽章
https://www.youtube.com/watch?v=nqijlK5ZD-4
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