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メルボルンテニスセンターへの海外旅行 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 MZさんからの海外旅行記です。今回は「欧羅巴」ではありませんが、カテゴリー名はハンダースのようなものだとご理解ください(昔、清水あきらや桜金造らの6人組み=半ダースのグルーブがあり、1人抜けて5人組みになったがグルーブ名はハンダースのままだった[たらーっ(汗)])。南半球は季節が真逆になってしまうので着るものの用意が大変ですね。その意味では春秋に行くのがいいんでしょうか? ただ、私の知っているスキー大好き人間は、夏休みにオーストラリアだったかニュージーランドに滑りに行きましたが・・。
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メルボルンテニスセンターでの表彰式.jpg
 私が知的障害者向けのNGOで働いていた時、障害者にテニスを教えていました。その時、オーストラリアの知的障害者の組織、AUSRAPIDから、テニスの選手を派遣しないか?という、誘いを受けました。NGOの代表の許可を得て、18歳の双子の女性を連れて、コーチとして、行くことになりました。オーストラリアの障害者向けの活動は活発に行われていて、身体障害者、知的障害者向けのテニス大会が昔から盛んです。知的障害者の大会は有名な全豪オープンの終了後1週間目の2月初めに、同じ、メルボルンテニスセンターで開催されます。
 メルボルンの空港にはAUSRAPIDのメンバーが車で迎えに来てくれました。日本は真冬なので、二人の女性も冬のオーバーを着て暑い夏の空港に降り立ちました。車で高速道路を降りる時、料金所がないので、聞いてみると、「なんで、料金を払わないといけないの?」と、怪訝な顔をされました。日本では、10キロ走ると200円位取られる話をしておきました。
 宿舎は水場の近くのこじんまりした清潔そうなホテルでした。到着が朝だったので、昼からメルボルンの街へ行くことになりました。ホテルから少し歩いてトラムに乗って行きます。切符の買い方をホテルで教わったので、車内の自動販売機を使おうと思ったのですが、故障と書いてあり、結局行きはただ乗りしました。街はさほど大きくなく、結構高い建物があったので、おのぼりさんよろしくエレベーターで展望台へ行き、メルボルンの街を一望できました。夕食は小さい中華料理屋に入りました。双子の女性はほとんど同じ顔をしているので、中国人のおかみさんがすごく可愛がってくれました。帰りは相当暗くなっていたので、降りる停留所を間違えて、行き過ぎて、歩いてホテルに帰るつもりでしたが、なかなか、それらしいホテルが見つかりません。くたびれて、ちょうど来たタクシーを拾いました。
 翌日は練習日で、空港に迎えてくれた女性が車でテニスセンターまで連れて行ってくれました。さすがに全豪オープンの会場は素晴らしい所でした。32面くらいのコートは全てセパレートされていて、隣のコートから球が飛んでくるなんてことはありません。センターコートは別の団体がバスケットボールで使っているようで、入れませんでしたが、他に大きなスタンド付きの大きいコートもありました。ほとんどのコートには小さいなりにスタンドが付いています。現在のロッドレーバーアリーナやマーガレットコートアリーナとは当時は同じではありませんでした。練習は室内コートで一面が用意されていました。練習が終わるころ、小学校2年生くらいの女の子から「こんにちは」と、日本語で話しかけられました。障害者のお姉ちゃんが大会に参加するので、家族で来ていました。小学校で日本語を習っているという事でした。
 AUSRAPIDの係からオーストラリアの障害者が練習しているところで一緒にやらないかと誘われ、喜んで参加させてもらいました。双子の練習が終わったところで、貴方も打ってみないかと誘われ、わたしもコーチに打ってもらいました。しばらくして気がついたのは、私の返球はあちこちに行くのに、コーチの返球は、必ず私が打ちやすい所に、全く同じところに帰って来るのです。このコーチは元プロだな思いました。AUSRAPIDの障害者たちはこんなコーチに習っているのかと、感心しました。
 その後、歓迎会と言うか選手交流会と言うか、軽い夕食つきのパーティーがありました。それだけでは足りないので、その晩は街のスーパーでチーズやらなんやら3人で買い出しをして、ホテルの部屋で食べました。
 翌日の試合は二人とも2回戦で敗退しました。必ず、2回は対戦できるようにシステム化されていました。本当に暑い日で、気温は35度ということでした。お医者さんがちゃんと会場に用意されていました。この医師とは大会を通じてよく話しました。南十字星を見たかったのですが、自分で見つけることは至難の業だろうと医者は言ってました。
 翌日は男女の決勝戦のみで、私は優勝した女性(前年の日本でのシドニーパラリンピックのバスケットボール予選大会で、彼女とは顔見知りだったのです)のヒッティングパートナーに名乗り出て練習相手をしました。やはり、わたしより相当うまい感じでした。
 日本からの我々3人は他の人達一緒にショウコートで観戦しました。昼休みに食堂でAUSRAPIDの人と話していて、エアーズロックを見たいのだが、と聞いたところ、もう1日泊まらないと無理だと言われました。オーストラリアは広いのだと自慢されました。
 帰りの日は街でお土産を買って、3人で動物園に行きました。双子は18歳ですが、とても背が小さいので、子供料金で入園させました。ペリカン行列などのイベントもありました。コアラはユーカリの高い所にピクリともせずに寝ているばかりでした。
管理人・これだけではちょっと寂しいのでエアーズロックとコアラの写真をアップしておきましょう。エアーズロックの写真は10年ほど前にオーストラリアに行った知り合いが撮ったものです。コアラは最もよく寝る動物の1つで、だいたい1日のうち18〜20時間は寝ています。それでも起きているときもあるわけで、コアラの写真は岡崎のIUさんが名古屋の東山動物園で撮ったものです。
↓エアーズロック
エアーズロック.jpg
↓コアラ
コアラ.jpg
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★もう自民党議員のこういう差別発言はニュースにもならないかもしれませんねえ・・・[パンチ]
http://mainichi.jp/articles/20160414/k00/00m/010/016000c
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2回目の海外旅行・チェコの旅 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 MZさんからの海外旅行、あいかわらず送られてくる写真には女性に囲まれているものが多いです。家族での海外旅行はないのでしょうかね?
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 2回目もスペインマドリッド経由のチェコへの旅でした。前年の日本での水泳大会にチェコの知的障害者の18歳未満の人達が大勢みえましたので、その時のスタッフとか、たくさんの方と友達になれたので、ふたたび、チェコに行くことになりました。
 日本での彼らの歓迎には私がマイクロバスを運転して、鎌倉、や東京見物をしました。鎌倉の材木座の海岸ではバスを降りるなり、子供たちが歓声を上げて海に向かって走り出し、膝まで浸かって楽しんでました。チェコには海がないのです。神宮外苑ではちょうど結婚式のカップルに出会いまして、一緒の記念写真を撮ったりしました。カップルも、とてもいい記念になると、喜んでました。観光の間中、私は子供たちにチェコ語を習ってました。
 先ず、マドリッドの4日間、プラド美術館や博物館、公園などを散策して過ごしました。スペイン語圏への旅は初めてで、かなりスペイン語が通じたので、とても嬉しかったことを覚えています。プラド美術館には座るところが少ないので、2時間以上いた私はとても疲れてしまい、入口のベンチに座って日本への絵葉書を書きながら休憩しました。日本からのパックツアーが来て、「見学時間は30分で、すぐ出発しますから遅れないように」との日本語を聞いた時は、一人旅の快感を痛感しました。
 日本のかみさんに電話をかけて15分ほど話しただけで、後でクレジットの請求の5000円には驚きました。今ではこんなことはないのでしょうが。
 例によって、スペイン語、フランス語、英語のガイドの市内観光バスを利用しました。フラメンコショーのツアーでは、コロンビアから来た夫婦と一緒に食事をしました。なるほど、スペインは南米から来る方が日本からよりずっと近いのです。
 スペインからチェコのプラハまでは2時間の飛行です。ピレネー山脈の山々は5月でしたが、雪で真っ白でした。やはり、大学のゲストルームに泊めてもらいました。今回は水泳大会で友人になった人達が住んでいる、ドイツ国境に近いリベレッツという田舎町を中間の2日間、訪れることにしました。友人がプラハまで車で迎えに来てくれました。
 先ず、日曜日だったので、リベレッツで養護学校を経営している校長先生(女性)の別荘を訪れました。大歓迎してもらいましたが、昼ご飯にリジョット(日本のおじやのようなもの)を出されたのは困りました。実は私はこれが苦手なのです。お腹がすいてないと、言い訳して、食べませんでした。そういえば、チェコ語でお米のことをリージョといいます。同じく、途中で立ち寄った田舎の友人の知り合いの家のトイレは日本の昔のトイレそのままでした。
夕食は近くの中華料理のお店でした。中華箸で食べていると、店のオーナーがやってきて、何か言いながら握手を求めて来ました。友人に通訳を頼むと、「こんなに上手に箸を使う人が来たのは、この店始まって以来だ」そうです。ひょんなことで、感心されました。その晩は校長先生の家に泊めてもらいました。週末の夜遊びで帰ってこない、長女のベッドで休みました。
 翌月曜日、養護学校を見学しました。日本で仲好くなった水泳選手たちに歓迎されました。教室などの各部屋のドアに全て鍵がかかっているところはやはり養護学校だと思いました。パソコンを使った授業など、かなり進んだ教育をしているようでした。プラハでも一度、大学教授と彼の学生と一緒に養護学校に行ったことがあります。生徒が授業中に私に話しかけるのですが、よくわからないので、教授の学生に頼んで通訳してもらいました。上手な英語で通訳してくれました。
 リベレッツを去る前に、友人とテニスを1セットプレーしました。テニスと言えば、プラハ滞在中にちょうどチェコオープンが開催されていたので、見に行ったことがあります。地下鉄を降りて、駅前にいたお巡りさんに英語で会場の場所を尋ねると、「ドイツ語でいいか?」というので、「ビッテ」と答えると、教えてくれました。中学から外国語を習うそうですが、国が近いので、ドイツ語を専攻する人が多いようでした。会場で、日本人らしき人から「あそこの選手は誰ですか?」と、英語で聞かれたので、英語で答えました。帰り道で私の後ろからその人が追いついてきて「なあんだ、日本人でしたか!」と呼びかけられました。バッグに付いていたJTBのマークで気がついたようでした。
 リベレッツからはバスでプラハの地下鉄の終点まで帰りました。プラハの地下鉄は3線あるのですが、これは、よく利用しました。日本と同じように「ドアが閉まりますので、乗り降りしないでください、次の停車駅はーーです」と放送されるのですが、何度も聴いているので、うろ覚えで、日本で、チェコの水泳選手の子供たちに、その口真似をしてみると、大笑いされて、「そうじゃないよ、こういうんだよ」と、直されました。
 友人はよく路上駐車をしましたが、そのたびに、ハンドルが動かないようにするための器具をハンドルに取り付けていました。聞いてみると、車上狙いにラジオやCDセットなどを盗まれるのを防ぐためということでした。荷物は必ずトランクに入れさせられました。
 リベレッツの路上カフェで友人とお茶を飲んでいる時、「ヨッシー(私のこと)じゃないか!!」とチェコ語で声をかけられました。見ると、日本に来た障害者の水泳選手でした。こんなチェコの田舎町で知り合いは他にはいない筈だと思っていたので、びっくりしました。
↓ウイーンの建物
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↓ブラティスラバの美術館前
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↓ブラティスラバの中学生たちと
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↓ドナウ川のはしけ、ウィーンの運河にて
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↓ウィーンの建物
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↓プラハのカテドラル
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 次は3回目の海外、オーストラリアのメルボルンの話をします。
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★安倍ヒットラーの自民党と平和の党から戦争の党に変身した公明党は安全保障関連法廃止法案の審議拒否憲法無視で成立させてしまった戦争法が話題になると選挙に影響すると考えたんでしょう。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016033102000128.html

安保戦争法廃止を求めると「精神鑑定を受けた方がいいんじゃないのか」と自民党。今に議会中だけでなく一般国民にもこう言い出すんでしょう。
http://www.asahi.com/articles/ASJ415JQYJ41IIPE02V.html?iref=comtop_6_03

★自民党員は、保育園を落ちたのは親の責任、なんとことも言っています。
http://mainichi.jp/articles/20160402/k00/00m/010/040000c

★「現在迷走中」に、KSさんからの「知多の日々気まぐれ日記:2016年3月」アップしました。このところ麻雀を楽しんでいるようです。
http://www.life-clip.jp/member/tag1948/default.asp?c_id=143750
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初めての海外旅行 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

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 MZさんから、初めて海外旅行をしたときの思い出話が届きました。写真がないので「迷走」のほうにアップしようかとも思ったのですが、とくにカテゴリーを作っていないので、せっかくカテゴリーを作ったこちらにアップすることにしました。いきなり「スロバキア語の勉強」を始めるなんて、何事にも前向きなMZさんの面目躍如たるものがありますねえ。ちょっと載せると問題になるのかな、と思える記述が1か所あったので削除させてもらったことをお断りしておきます。あ、それから文章からはもう1つはっきりしないのですが、ポルノビデオは見たのでしょうか、見なかったのでしょうか? 気になりますなあ。
(写真が全くないのも寂しいので1枚適当に貼付けておきました。本文とは全く関係ありません。)
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 私が生まれて初めて海外旅行をしたのは、1998年の長野パラリンピックの年でした。
 そのころ、私は知的障害者のNGO組織でパソコンリーダーをしておりました。そのNGOはスポーツを通じて知的障害者の自立を手助けする組織で、外国の知的障害者施設との交流もありました。事務所のスタッフは私以外は英語が苦手で、外国語の電話がかかってくると、全部私に回すので、しかたなく、へたくそな英語で対応していました。
 その前の年の夏に、スロバキアの障害者水泳選手が日本にやってくることになりました。英語が話せるスタッフが同行してくるので、会話には支障がないのですが、私は障害者の子供たちと会話がしたくて、2か月前から、にわかに、スロバキア語の勉強を毎日しました。おかげで、子供たちともとても楽しい交流をすることができました。
 長野パラリンピックには、NGO組織からもクロスカントリーの選手が選ばれて、出場しました。以前の水泳大会に参加した水泳コーチのマーチンが前の年に2カ月日本に来て組織の水泳コーチとしてはたらき、その友人のクロスカントリーコーチのトーマスが長野大会の冬にやはりコーチとして2カ月日本に滞在しました。
 そして、1998年の5月に、私はチェコとスロバキアとウィーンに10日ほど初めての外国旅行をすることになりました。チェコ語とスロバキア語は良く似た言語なので、何とかなるというつもりで、チェコの大学の教授の紹介で、大学の宿舎に4日間滞在しました。大学の教授もその奥さんも英語が話せます。大学の宿舎はツインベッドとシャワーという質素な部屋でした。朝は、教授が買ってくれたパンとティーバッグだけという食事です。昼と夜は自分でレストランかどこかですませました。スロバキア語でも注文したり、道を聞いたりするのは充分通じました。
 短い滞在で気が付いたのは、チェコ人とスロバキア人とはあまり仲が良くないのかな?ということです。つい最近までソ連によって無理やりくっつけられて、社会主義の統制を受けていたので、その影響かもしれません。1998年はチェコもスロバキアもビザが必要でした。私の古いパスポートには立派なチェコのビザと、粗末なスロバキアのビザがあります。
 チェコの若い女性は透き通るような美人が多いです。昼食の時間がなかったのか、OLが歩きながらバゲットのサンドイッチを食べながら街を闊歩しているのも、とても、かっこいいな、と思いました。
 のちにスペインなどに旅行するようになって、気がついたのは、チェコ人はとてもシャイと言うか冷たいというか、ラテン系とはぜんぜん違います。こちらから話しかけない限り、向こうから声がかかる事はまずありません。プラハは落ち着いた街で、音楽の都といわれるだけに、演奏会の入場料がとても安いのです。オーケストラで2000円くらい、オペラでも3200円くらいで楽しめました滞在中毎晩演奏会に行きました。チャーチコンサートも素敵でした。街のたたずまいも古くてしっとりと落ち着いていて、いかにも北欧と言う印象でした。路地を歩いている時に突然「社長、社長」と声をかけられて振り向くと、闇の両替屋でした。全然言葉が通じない振りをしました。やはり、観光地だなと思いました。
 スロバキアのブラティスラバは小さな落ち着いた街です。泊まったホテルが一流だったので、遊びに来たマーチンが驚いていました。着いた晩はマーチンが都合が悪かったらしく、長野パラリンピックの時に知り合ったスタッフが街を案内してくれました。彼はとても親切で自宅にまでお茶に招待してくれました。夕食の時おごるから食べてくれ、と言っても、遠慮してワインしか飲みませんでした。
 翌日、マーチンが彼の車で街を案内してくれました。ほんとに小さな町で、2時間もあれば、全部を回る事が出来ます。途中、Uターン禁止を犯して、切符を切られたのはご愛嬌でした。
 街の傍をドナウ河が流れていて、ブタペストからウィーンまで船で行くことが出来るのですが、マーチンが船会社に電話して、ブラティスラバで一人拾ってくれないかと、交渉してくれましたが、一人では無理だと、断られました。したがって、ウィーンにはバスで行くことになりました。30分ほどで国境の警備場で、私と数名の外国人だけのパスポートを事務所まで持って行かれました。スロバキア人は見せるだけでOKでした。いまは、EU圏内なので、この国境もフリーパスなのでしょう。
 ウィーンでもシェーンブルーン宮殿コンサートとかウィンナーワルツの夕べとかコンサート中心でした。観光バスの料金が日本語ツアーがバカ高くて、外国語ツアーは安いという事をこの旅行で知りました。のちに、マドリッドの日本の旅行会社で何故こんなに格差があるのか聞いたところ、日本語が出来るガイドの問題かと思ったら、高くても日本人旅行者が集まるから、とのことでした。外国人はそんな高いツアーにははじめから集まらないそうです。以来私は日本語ガイドは敬遠しています。
 美術館で有名なザッハートルテを食べましたが、とても甘いのには驚きました。喫茶店のウィンナーコーヒーも結構高いもので、物価が高いなあと思いました。地下鉄の終点から汽車に乗り換えてドナウ河ほとりを散歩しようとしましたが、乗った列車が急行で次の駅で降りて、引き返そうと思いましたが、帰りの列車もまた、急行で、結局始発駅まで戻ってしまいました。途中料金を精算するときに、車掌の「アイン ウント ヒュンフチッヒ(51)」がどうしても判らなくて、手帳に書いてもらってやっとわかる始末でした。パンと飲み物を買って、始発駅から歩いてドナウ河畔に行きました。ホテルを出る時にフロントで「ポルノビデオをご覧になっていますね!!」と、大声で呼びかけられたのには参りました。
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★「現在迷走中」に「WHO死ね!『サウンド・オブ・ミュージック』」アップしました。喫煙シーンがあるのでWHOのアホどもの勧告によれば、ファミリー映画として定評のあるこの映画も「成人向け」映画の指定となり、未成年は見られなくなってしまうのでしょう。全く、世にアホ・バカの種はつきませんなあ。
http://www.life-clip.jp/member/tag1948/default.asp?c_id=142908
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サラマンカヘ留学 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 久しぶりの投稿原稿です。
 MZさんの語学留学記。原稿は1月にもらっていたのですが、私事のため掲載が遅くなりました。書かれているように2014年のWカップはブラジルだったので、てっきりブラジルに行ったのかと思っていたらスペインでした。個人的には写真の6、7に出てくる「アビラの城壁」が映画「エル・シド」連想させていい感じです。あ、そういえば「エル・シド」はスペインの話でしたね。
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 2014年、ブラジルワールドカップはスペインのサラマンカヘ行きました。前回のミラノからの帰りの飛行機で、眠れないで大変でしたので、今回から初めてビジネスクラスにしました。成田のVIPルームに入るのも初めてで、調子に乗って色々食べたので、それよりはるかに美味しそうだった機内食を満腹で食べられなかったのは大失敗でした。トルコ航空のCAが心配して体の調子でも悪いのか聞いてきました。
 乗り継ぎのイスタンブールの空港はどんなところだろうと期待しましたが、係員は不親切で、ユーロとドルの両表示がありましたが、あまりいい印象はありません。
 マドリッド空港からサラマンカまで2時間ほどのバスに乗る予定でしたが、チェコからの男性とイタリアからの女性と3人で、時間まで待っていましたが、運転手がやっと来て、聞くと、予約で満員で乗れない、と冷たい返事。傍で、車で出迎えに来ていたマドリッドの人が、3人でタクシーを相乗りして、マドリッドのバスセンターへ行くと、サラマンカ行のバスがある事を教えてくれました。
 サラマンカはポルトガルに近い田舎町で小さな、とてもきれいな街でした。タクシーの運転手が親切で、ステイ先の集合住宅のドアフォンまで押してくれました。6階の部屋で、未亡人のセニョーラが経営して、多い時は4人の若いアメリカ娘と一緒でした。団体でいろんな家に分宿しているらしく、語学学校は別でした。隣の娘アナはウルグアイ出身だとセニョーラが言っていたので、ウルグアイはスペイン語なのにどうしてだろう?と思って聞いてみると、両親がアメリカへ移住してから生まれたとのことで、ネイティヴアメリカンでした。当然ながら、英語もスペイン語もすばらしく上手でした。
 ステイ先から50メートル隣のスポーツバルでフットボールはTV観戦しました。24時間経営のバルで、交代で4人くらいの中年男性が詰めていました。もちろん、全員が私にとってはスペイン語の先生です。ブラジルとの時差の関係で夜中の1時頃まで観戦することもありましたが、近いので苦になりません。
 学校はマジョール広場の傍で、ステイ先から歩いて15分くらい、受付のマダムがとても感じのよい人で、昼食の店とかいろいろ、教えてもらいました。最後に来る時に、持ってきた小さいオカキの包みを一つ上げたことがありますが、後日、休み時間に、教室までマダムが走ってきて「ムイリコ!(とてもおいしい)」と叫んでいました。気に入ってくれてよかった。
 例によって、W(管理人・以前MZさんがスペインのマラガに「留学」したときのスペイン語の先生です)がマラガから汽車でサラマンカにやってきました。別のホテルに3泊して一緒に観光したり、フットボールを見たりしました。彼はあらかじめ、ガイドブックで研究していて、私が知らない観光場所を案内してくれました。日本人向けの案内所で日本食の店を教えてもらい、Wと一緒に行きました。天ぷら定食は美味しかったのですが、お米があまりうまくなかったので、日本人の主人にこっそり聞いてみると、日本からコメを取り寄せるととても高いものになる、とのことでした。外米だったのです。
 セニョーラの友人の娘がバカンスでマラガにワーキングホリデーに行きたいということで、仕事先をWに紹介してもらえないかと相談してきたので、Wを紹介しました。バルに来て3人で話し合っていましたが、その後のことは、セニョーラからは聞いていません。
 バルには午後になると近所のおじさんたちが集まって、トランプに似た絵札を使って飲み物を賭けたゲームを夢中でやってました。このゲームは、学校の教室でも、先生が持ってきて、教材として一度やりました。私は、ウインブルドンが始まると、バルの主人に頼んで、そちらの中継をみていました。私しか見ていなかったので、おじさん達が見たい番組があるのでは?と聞くと、「カードに夢中だから構わない」と主人は言ってました。
ステイ先は昼食がないので、お昼は学校のマダムから聞いた比較的安いレストランか、このバルのタパスかピンチョを食べました。早く言えばおつまみみたいなものです。飲み物はミネラル水かオレンジジュース、マラガで飲んだ本物のオレンジを絞ったスーモデナランハはサラマンカにはレストランしかありませんでした。
 Wとバルの主人たちは仲好くなって、Wがマラガに帰ってからも私の携帯経由でメールのやり取りをしていました。たとえば、わたしがレッチェカリエンテ(あったかいミルク)を注文するときに「ムーチョカリエンテ」と発音すると、主人が「ムイカリエンテ(うんと熱いの)」と私の間違いスペイン語を直してくれました。
 サラマンカは電気代が安くないらしく、レストランのトイレで用をたしている時、突然電気が切れて真っ暗になる事がよくありました。節電スイッチになっているようでした。衣類の洗濯はセニョーラが週に一回やってくれますが、見ていると、洗濯機ではなく手で洗ってました。わたしも協力して、なるべく節電に努めました。
 学校の同級生はしょっちゅう入れ替わりますが、4週間、最後まで一緒だったのは中国からの若い女性でした。彼女は帰国後大学院に入るらしく、1年間の留学予定でした。一度レストランでご馳走したりして、よく話しました。お互いに単語が判らなくなると、共通の漢字で筆談しました。私も中国語を勉強していますが、スペイン語を使っている時に中国語モードに切り替えるのは容易ではありません。
 ドイツからの好青年ともよく話しました。彼の友人たち大勢とバルでドイツの応援をしたこともあります。この年、ドイツは見事にワールドカップ4度目の優勝を果たしました。
 学校の週末遠足はポルトガルに行きました。バスで2時間ほどでポルトガルです。偶然マドリッドからサラマンカまで来る時に一緒だったチェコのおじさんと同じバスになりました。学校は違いましたが、語学学校共通のバス旅行なので、こういうこともあるのです。やはり、違う学校のマダム達と昼食はポルトガル名物のバカラオを食べました。ひどく骨っぽい魚料理で余り好きにはなれそうもありません。マダム達は上手に食べていました。カナダのケベックからの旅行者で普段はフランス語だそうです。
 ポルトガルの街で5%くらいしか判らないガイドの説明を聞くともなしに座っていると、おばあさんが「どこから来たの?」と話しかけて来ました。ポルトガル語とスペイン語で結構、会話できました。
 別の週末に、近くで観光する場所をセニョーラに聞くと、アビラを薦めてくれました。電車で1時間ほどのところにある城壁にかこまれたきれいな町でした。肉料理が名物ですが、私の歯には合わないので、スモークサーモンを食べようとレストランのボーイさんに聞くと、判らないらしく、やおら、スマートフォンを取り出して、スペルを書け、と言います。便利なものだ、と思いました。学校でもスマホで単語を検索している生徒をよく見ます。次回は2016年フランス、Toulouseの予定ですが、どうなりますか。
1サラマンカの町はずれ
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2同級生 左からアメリカ、中国、先生、ドイツ
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3サモーラの街
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4サモーラを観光中
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5サモーラを流れる川
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6アビラの城壁
7アビラの城壁.jpg
7アビラの城壁
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★安倍ヒットラーも自分のしていることが「憲法違反」だという自覚はあったんですねー。日本語が理解できない人だと思っていたので、びっくりです。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016020301001288.html

安倍ヒットラーの御都合主義改憲論に対する中日新聞の社説はしごくまっとうなものです。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016020402000120.html

★上の記事で出てくる稲田朋美といウルトラう右翼おばさんは、大江健三郎「沖縄ノート」を名誉毀損で訴え、尊属殺人規定の復活(刑法では尊属殺のみが死刑または無期懲役とされていて憲法違反とされた)、核武装の検討を要請している人物です。
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ミラノへ留学(遊学?) [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 MZさん、今回はミラノへの留学です。  しかしですな、投稿記事を読んでみると何というか本当に「留学」なのか、「遊び」なのか、だんだんとわからなくなってきました。まあ本人が留学と言うんですから留学なんでしょう? 遊学? それとも単なる「遊」? 管理人はとりあえず行ったことのない外国の風景でも楽しむことにします。
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 2012年はイタリアのミラノに4週間、留学しました。
 やはり、ヨーロッパ選手権のある時ですが、かねてより、本場のパスタとピザを食べたいと思っていたのも動機の一つです。
 モスクワ経由の飛行機で、かなり夜遅くに到着しました。モスクワという街は空から初めて見ましたが、高い建物がない街という印象でした。乗り換えの時、聞いていたほどロシア人の空港従業員は冷たい感じでもなく、まずまずでしたが、ユーロが使えないので、水一つ買えませんでした。ミラノに40年以上住んでいる友人夫妻が夜の空港まで迎えに来てくれたのには大変助かりました。彼らと一緒でないと、夜にホームステイ先を探すのに、苦労したと思います。ステイ先は精神科のお医者さんの共同住宅の6階でした。キッチンの隣の一人部屋で、シャワーとトイレが部屋に付いています。
 お医者さんは、見かけは怖い感じでしたが、最初の日の朝、学校までの行き方を、雨が降っているのに傘もささずに、地下鉄の駅まで連れて行ってくれて、切符の買い方まで教えてくれました。
 学校の初級クラスは6人くらいで、料理人の修業に来ている若い日本人の男性が1人いました。他のクラスにも合計5人くらい日本人がいました。イタリア語の先生は、イタリア人らしく、大きな声の元気のいい若い女性でした。
 学校の近くに、小さなバルがあって、昼食はもっぱらそこで食べました。若いあんちゃんが親切で、毎日、いろんなパスタをすすめてくれるのですが、最後まで、ピンとくるものに出くわしませんでした。私の味付けの仕方が拙かったのかも知れません。
 ミラノ観光は例の観光バスで一回りして、気に入ったところは、後から地下鉄で行ってみることにしました。ミラノを見渡せる高い塔があるという観光バスの案内で、後日出かけてみると、門が閉まっていて、入れません。近くにいた工事人らしきおじさんが、「エレベータの修理中で何日か先でないと、開かないよ」と教えてくれました。観光バスではそんな情報は全くなかったので、回ってきた観光バスの案内嬢をつかまえて、「そういう情報は流すべきじゃないか!」と抗議しましたが、暖簾に腕押しで、「わたしのせいじゃないよ」と言う感じですましていました。
 ミラノは小さい街なので、観光場所を歩き回るには便利です。有名なミラノ座でオペラなど見たかったのですが、6月と言う時期は、バカンス中で、音楽会などは一切ありません。有名なレオナルドダビンチの「最後の晩餐」は保存の為に一日の観光客を制限しているので、切符を予約しなければならず、見るのはあきらめました。同じ教会でたくさんの立派な宗教絵画をタダで見る方がよっぽど素敵でした。
 フットボールはお医者さんが近くのスポーツバルを教えてくれたので、もっぱら、そこで、テレビ観戦しました。ポーランドとウクライナの共催なので、だいたい、夜8時頃のキックオフでした。例によって、スッコダランチャ(オレンジジュース)ばかり飲んでいたので、店のあんちゃんに「スッコダランチャ」と名前をつけられました。イタリアが勝った時など、店中大騒ぎでした。イタリアは決勝でドイツに負けるまで、勝ち続けました。
 イタリア代表に、有名な、破天荒な選手がいるのですが、彼がミラノで、1か月に9回も駐車違反で罰金を払わされた、という話をお医者さんがしてくれました。夕食は彼と2人だけでする(奥さんはなぜか、支度をするだけ)のですが、おおむね、イタリア語で話をしました。ときどき「わかったか?」と確かめるので、曖昧に返事をすると、「いや、おまえは理解していない」と、今度は英語で同じ話をしてきました。
 私は留学先で歩きやすいテニスシューズを買います。ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の裏で停まっていたパトカーのお巡りさんに聞いたら、すぐそばの靴屋さんを教えてくれました。グラッチエ!中国製のアディダスを買いました。
 週末にミラノ在住のご夫婦がミラノの北、モンテローザのふもとにある別荘に招待してくれました。その山小屋で奥さんが作ってくれたパスタがミラノ中で一番おいしかった。それを告げると、「日本人に合うように作るからでしょう」と言っていました。
 その別荘の村は冬はスキー場になるところで、ゴンドラで上がって、少し歩くと、なんとマッターホルン(ドイツ読み)が見えました。普段、めったに見られないという事でした。リヨンの丘の上の教会からアルプス最高峰、モンブラン(フランス読み)が見えると言う話でしたが、滞在中一度も見えなかった。リヨンの帰りに飛行機から雪をかぶったアルプスが見えたが、どれがモンブランかわかりませんでした。
 ミラノのご夫妻のご自宅にも別の週末、お邪魔しました。そこから、路面電車で帰りましたが、途中の乗り換えのフェルマータ(停留所)の名前を忘れ、運転手にレプブリカ(ステイ先の近く)にはどうやって行くのかと聞いていると、同乗の老婦人が「私が教えてあげる」と親切に乗り換えの電車を教えてくれました。切符売り場が日曜日で閉まっていたので、レプブリカで降りる時にユーロ硬貨を出して払おうとすると、駄目らしく、そうこうするうちに、「まったく、観光客はこまるな!」と言って、タダにしてくれました。
 ヨーロッパの夏は陽射しが強いので、サングラスを持っていますが、ねじが緩んで、レンズが外れてしまい、ドゥオーモ近くのキオスクのおじさんに聞いて、メガネ屋に行きました。しばらく待たされたが、修理代を聞くと、「いらない」。そういえば、老眼鏡なので授業の時、白版とテキストを交互に見るのが不便なので、メガネにつけるひもを買いに行った時もそのメガネ屋さんは代金をとりませんでした。
 ナポリ風のピザを食べさせる店を学校の近くで教えられ、学校の帰りに地下鉄の一駅を歩いて食べに行きました。これは、ほんとうにうまかった。しかし、量が多いので、ピザの縁側を残していると、おやじさんが怪訝な顔で聞いてくるので、「おいしいんだけど、私には量が多すぎる」と言い訳しました。5日間も毎昼食に食べていたら、さすがに飽きてしまいました。
1ミラノの中心、ドゥオーモ
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2その傍の ガレリア
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3ミラノ鉄道駅 ここから、マルペンサ空港へのリムジンバスが発着する
3ミラノ鉄道駅 ここから、マルペンサ空港へのリムジンバスが発着する.jpg
4はるか向こうにマッターホルン
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5モンテローザの山々
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6ゴンドラからのアンターニョ村
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7ミラノ一高い塔からのミラノの街
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★「現在迷走中」に「老人ターミネーター?『サボタージュ』」アップしました。ヒッチコックのイギリス時代の映画かと思ったら、シュワちゃんのアクション映画でした。それにしても、ターミネーターも歳をとりましたなあ。
http://www.life-clip.jp/member/tag1948/default.asp?c_id=107994

★毎日新聞のこんな記事
http://mainichi.jp/sunday/articles/20160102/org/00m/010/007000d
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リヨンへ留学、その2 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 MZさんのリヨン留学篇の後篇。今回はパリに遊びに行った話が中心ですが、MZさんは片言でも何でも平気で話しかけたりする人ですから、こういう旅行自体が語学の勉強になるんでしょうね。今回、ちょっと残念だったのは「つまづき」の原因になった「美人のマダム」の写真がなかったこと。まあいくら美人とはいえ、赤の他人ですから勝手に撮影するわけにもいかないでしょうし、仕方ないですかね。それにしてもこの「漫遊記」もだんだん調子が出てきたような気がします。次回にも期待しましょう。
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 W(管理人・前回最後に紹介されたマラガのスペイン語の先生ヴィフレド)がスペインのマラガからリヨンにやってきました。彼はフランス語が上手なので、夕食の時など、みんなとわいわい話していましたし、私には普段あまり話しかけない中学生まで安心してしゃべりまくっていました。
 週末の金曜日に、かねて打ち合わせていた通り、TGVでパリに向かいました。切符はあらかじめ、ステイ先のご主人が60歳以上の割引やフランス人割引を駆使して、ネットで2人分、私のカードで買ってくれました。
 TGVははっきり言って、日本の新幹線のほうがすばらしいです。座席は方向転換出来ませんし、4人席も向かい合わせの固定です。4人席に他人が1人入ったらどうするのかしら、それとも、あらかじめ4人席の料金が決まっているのかしら、と、余計なことを考えてしまいました。車内販売の弁当を買いました。Wは日本風の、私はイタリアン。パリまでの2時間中座席で携帯電話でしゃべっているマダムがうるさかった。
 パリに着いた夕方はセーヌ川沿いに歩いて、ノートルダム寺院近くへ夕食に出かけました。帰りも同じ道でしたが、さっきは居なかった学生らしきグループがセーヌ川岸のあちこちで、自分らで持ち寄って酒盛りをしていました。金曜の夜はいつもこういう風景らしく、ほほえましく眺めました。感心したのは、翌朝ゴミがまったく散らかっていないことでした。リヨンのローヌ川岸でも同じ光景を見ましたが、翌朝ゴミが散らかっていました。観光地パリの学生は心得ているようでした。
 パリは5回来ているから、まかせてくれというWのことばを信用したのがいけなかったようです。ステンドグラスがすばらしい、何とかいう教会に行くことになりました。地下鉄を降りて歩きはじめましたが、15分歩いても目的の教会が見当たりません。そのうち、あるはずのないパリ北駅に来てしまいました。どうやら、地下鉄の駅から反対方向に歩いたようでした。Wが実は方向音痴だったのです。仕方なく、タクシーで教会に向かいました。
 パリの地下鉄の中で大音響で「ベッサメムーチョ」をスペイン語で歌っているマダムがいました。私もカラオケが好きなので、一緒になって座席で歌っていましたが、Wはムッとした表情でした。前の座席のマドモアゼルはイヤホーンで別の曲を聴いているようでした。後で回ってくるマダムに、お金は出しませんでした。
 パリの街歩きはもっぱら、例のガイド放送付きの観光バスを利用しました。2階の屋根のない席に座りましたが、そのせいか、パリは風が強い街だなと思いました。2日目には目が赤くなってしまいました。レストランで食べた肉はかたくて、魚にすればよかった。だいたい、大都会はあまり好きではない私はそれやこれやで、パリが好きになれませんでした。地下鉄の中でWとパリの悪口を言う時は日本語で話しました。はやく、リヨンに帰りたいと思いました。
 リヨンに帰った途端に、目の赤いのは治りました。月曜の朝、Wはスペインへ、私は学校へ自転車で向かいました。リヨンの街は犬のフンがたくさんあると聞いていましたが、それほどでもありませんでした。道の反対側にいる美人のマダムに見とれて歩いていると、道路の縁石にいやというほど靴のつま先をぶつけて、イタイこと痛いこと。それを、道のこちら側のマダムに見られていたらしく、ふき出していました。
 滞在中にリヨンの労働者のデモを一度見ました。警察官が出張ってくるのは、日本と同じですが、大型トラックの荷台を舞台にして、ロック音楽を演奏し、子供たちがその前で踊っている様子は楽しく感じました。
 ワールドカップの後半は親しくなった学校の友人とスポーツバルでテレビ観戦することが多くなりました。私はビールが飲めないので、例によってジュドランジュ(オレンジジュース)。ブラジルーオランダ戦は沢山のブラジル人と一緒でした。「どちらを応援する?」とブラジル人に聞かれたので、「じゃあ、私はオランダを応援しよう」と言ったら、本当にブラジルが負けてしまいました。
 イタリアのパルマから来ている青年と特に親しくなりました。イタリアがスロバキアに負けてしまい、彼はがっくりしていました。2年後はミラノに行く予定だから、パルマから遊びに来てよと、別れましたが、それは、実現しませんでした。
 学校や観光の帰りにステイ先の近くのお菓子屋さんで店先のグラース(アイスクリーム)を1ユーロで買って、舐めながら帰るのが日課でした。最後の日に「今日でリヨンともお別れだ」と言ったら、タダにしてくれました。
1 セーヌ川
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2 教会のステンドグラス
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3 シャンゼリゼー
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4 エッフェル塔の下
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5 陸軍博物館(パリ)
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6 サンサクレクール寺院(パリ)
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7 よく昼食を買いに行ったマルシェ(市場 リヨン)
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8 この橋を通って通学したローヌ川(リヨン)
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フランス・リヨンへの留学 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 MZさんからの「欧羅巴語学漫遊記」。先日の「スペイン・マラガへの留学」
http://animalvoice.blog.so-net.ne.jp/2015-12-09-1
 に続く語学漫遊記第2弾です。  今回はフランス・リヨンへの留学。リヨンへ行ったときはもう70歳を越えているはずで、その行動力には本当に感心します。しかしですよ、行きの飛行機の中で早くもリヨン娘2人をナンバ。前回のCAもそうでしたが、今回の写真7に一緒に写っているドイツ娘もなかなかの美人で、「これじゃあ語学漫遊記というよりてナンパ漫遊記じゃないか」と怒り[ちっ(怒った顔)]にワナワナとうち震える管理人でありました[あせあせ(飛び散る汗)]
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 2006、2008年は経済的事情により留学はあきらめ、2010年南アフリカワールドカップの時、フランスのリヨンに4週間留学しました。
 リヨンを選んだのは、単に南アフリカから子午線を北に向かうとフランスではリヨンにぶつかっただけのことで、ここなら、時差なくフットボールが観戦できると思いました。リヨンはパリの南西、TGVで2時間のフランス第二の都会です。産業の絹織物の関係で日本とは古くから交流があったそうです。むかし、リヨンのカイコが疫病で全滅した時、リヨンからはるばる、長野県までカイコを仕入れに来た歴史があるそうです。
 成田を出発するとき、アイスランドの火山の爆発の関係で、離陸が2時間も遅れ、ローマの空港に着いた時はリヨンへの乗り換えの時間が10分しか残っていませんでした。飛行機の扉が開くや否や機内で知り合ったリヨン娘2人ともども、乗り換え客と一緒に走りだしました。というのは、乗り継ぎ便を逃すと、翌日まで便がありません。ところが、ローマの空港は広い上に、乗り換えに空港内のモノレールに乗らねばなりません。息せき切って階段を降りたところで、若いCAが「リヨーネ!リヨーネ!(イタリア語でリヨンのこと)」と叫んでいるのを聞いた時は全員ほっとしました。乗り継ぎ便はまだ準備中で、誰も搭乗していませんでした。
 リヨンではサラリーマンと学校の先生夫妻の共同住宅にホームステイしました。子供は4人で、長男は結婚して独立、長女はパリで看護師として働いていました。彼女は私の滞在中に一度帰ってきたことがありました。お母さん似の美人でしたが、難をいえば、看護師のくせにお母さん同様、たばこを吸っていました(管理人・MZさんには喫煙に対する大きな誤解・偏見があるようですがここには書きません)。大学生と中学生の息子は同居で、男性は私を含め、全員たばこを吸いません。
 私の部屋は10畳くらいの、つくえ、椅子、ベッド、ソファーがおいてある、三男坊の隣の部屋でした。トイレとシャワー室は男の子2人と私の共用。共同住宅といっても、2階フロアを全部使っており、部屋は8つもありました。もうひとり、否、1匹小さい猫が同居していました。
 語学学校はそこから歩いて30分ほどですが、ご主人がレンタル自転車の年間パスを貸してくれましたので、1日目以外は自転車で通学しました。リヨンは一部を除いて平坦な街なので、町中にレンタル自転車の駐輪機があります。そして、30分以内なら使用料はタダです。30分経ったら近くの駐輪機にもどして、また、同じ自転車を駐輪機から引っ張り出せば、どこまでも、タダで行けるわけです。しかも、自転車専用道路がたくさんあって、とても安全です。この自転車のおかげで、リヨン中動き回る事ができました。
 リヨンにはローヌ河とソーヌ河の2つの河が街中を流れていますが、私の通学路はローヌ河沿いの専用道路でとても快適な通学でした。でも、レンタル車はこぐのが重いので、通勤者の快適自転車はもちろん、きれいなおねえさんのジョギングにも追い抜かれるありさまでした。
 語学学校に入る前にレベルを決めるペーパーテストがあるのですが、調子に乗って解答したために、午後からの中級クラスに入れられてしまいました。授業は私には少し難しいし、どだい、午後からは私は眠くて、集中できないのです。前の夜に、どうやって午前中の初級クラスに入れてもらおうかと、フランス語で考えて、事務局に交渉しましたが、「初級はもう、いっぱいで、貴方のフランス語は初級クラスではない」と、断られました。3日間、毎晩、作戦を考えて、交渉を続けるうちに週末になってしまいました。金曜日の朝、やっと、「今の初級が1ランクアップする来週から午前授業に入っていいよ」と許可されました。
 学校からも、午後、観光に連れて行ってくれますが、週末は観光バスでリヨン見物をしました。バスの中に8つほど国旗が着いたイヤホーンのジャックの穴があって、日本語のところに差し込むと日本語のガイドが流れます。気に入ったところで降りて、また、次のバスに乗り換えるのも自由です。あるとき、夕方の最終バスが時刻表には書いてあるのに、勝手に無くなると言う事がありました。日本では考えられないことなので、あきれましたが、その時一緒だったマラガのスペイン語の先生は「これがヨーロッパです」と笑ってました。
 ステイ先のご主人も週末に自転車や車でマルシェ(露天商)やいろんなところに案内してくれました。「なぜ、奥さんを連れてこないの?」と聞かれて、「幸か不幸か、カミサンは飛行機が嫌いなんだ」と答えました。事実、そうなのです。
 朝食は自分1人で(猫は起きて来ますが)パンとコーヒーと果物ですませて、誰も起きてこない8時半に学校に出かけます。夕食は5人で食べることが多かった。私に話しかける時はゆっくり言ってくれますが、お互い同士で話している内容は早過ぎてさっぱりわかりません。
 下着はシャワーの時自分で洗って、部屋に吊るして乾かしますが、ポロシャツは途中からマダムが洗濯機で洗ってきれいにたたんでおいてくれました。朝早くに目が覚めて困る事がありましたが、コンピュータの置いてある部屋に勝手に入って使っていいよと、言われましたので、助かりました。その時間に日本にメールするとすぐに返事をもらえます。
 そうこうするうちに、ワールドカップが始まりました。応接間に大型テレビがあって、自由に見て構わないと言われていたので、私ひとり、否、猫と2人?で見ることが多かったような気がします。家族の人はフランスが試合するときは友人と一緒にほかで見るようでした。私も後半は学校の仲間とスポーツバルで見ることが多くなりました。日本は結構活躍して決勝トーナメントに進出しましたが、フランスは予選敗退で盛り上がらないことおびただしいWCでした。
 2週目の木曜日にマラガのスペイン語の先生ヴィフレド(W)がリヨンにやって来ました。ステイ先に聞いてみると、Wも安く泊めてあげるということで、私が空港からのバスの乗り場で出迎えました。この、週末の話は、また、次回にーーー。
1 ローヌ河
1 ローヌ河.jpg
2 リヨン全景
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3 丘の上にある教会 全景はここからの眺め
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4 ソーヌ河
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5 リヨン名物 だまし絵の窓 全て絵画の窓です
5 リヨン名物 だまし絵の窓 全て絵画の窓です.jpg
6 ローヌ河沿いの自転車道路の上 リヨンの子供たちと
6 ローヌ河沿いの自転車道路の上 リヨンの子供たちと.jpg
7 メイン広場のテント張りのバル 同じ学校のドイツ娘と
(管理人・おおっ、またまた美人と。MZさんの顔にはぼかしをかけていますが、オリジナルでの顔は、はっきりニヤついています。許せませんですなあ[むかっ(怒り)]
7 マイン広場のテント張りのバル 同じ学校のドイツ娘と.jpg
8 語学学校の同じクラスの生徒
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スペイン・マラガへの留学 [欧羅巴語学漫遊記 MZ]

 先日の「忘年会」の記事で「MIZさん(今後はMZさんに統一します)には写真旅行記の依頼をしました」と書いたところさっそく原稿が送られてきました。MZさんは、私のサラリーマン時代の大先輩でいろいろよくしていただいた方です。確か7歳くらい上なのでもう70歳も半ばのはずなのですが、元気そのもので、毎年のようにヨーロッパに遊びに、モトイ勉強に行っているようです。そもそも語学の苦手な管理人には「趣味」で語学留学など考えられないのですが[たらーっ(汗)]、わざわざスペインまで行くというのも素晴らしいし、何より初対面の人とも積極的に交流できるのがうらやましい。今後もあちこちでの留学、旅行レポートを送ってもらえるはずなので、新たに「欧羅巴語学漫遊期」のカテゴリーを設けました。
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 私はフットボール(サッカー)を見るのが大好きで、偶数年に開催されるワールドカップとヨーロッパ選手権が開催されるときに、あまり時差なくテレビ観戦できるヨーロッパへ4週間留学します。その始まりが、2004年のマラガ留学でした。
 マラガはスペインの南部アンダルシア地方にある地中海に面したコスタデルソル(太陽の海岸)のいなか街でヨーロッパの人はバカンスに良く来るところです。海水浴場での小イワシを焼いたもの(サルディーニャス)は絶品です。
 なぜ、語学学校に入るのかというと、私は酒が飲めないので、旅行しても夜が退屈で困ります。語学学校に入ると、午前中は語学の授業、午後は学校が観光遠足に連れて行ってくれ、夜はスポーツバルのテレビでフットボールが見られるので、退屈しません。それに、マラガでは学校の経営するホテルへ格安で泊まりましたが、希望すればホームステイ先を紹介してくれます。
 マラガではシニアクラスに入学しました。同級生はオランダとデンマークからのマダムでした。休憩時間には、彼女らはワインを飲んでいましたが、私はもっぱらスーモデナランハ(オレンジジュース)です。ヴァレンシアオレンジをまるごと機械で絞るジュースは絶品でした。少し困ったのは、学校の食堂で安い食事をとるのですが、これがあんまりおいしくなく、数日後は近所のバルで食べるようになりました。バルの親父さんも私にとってはスペイン語の先生です。
 レストランの食事もおいしいのですが、量が多いのには参りました。やむを得ず残しては「おいしいのだけれど、私には量が多すぎる」とカマレロに言い訳していました。遠足の時の昼食にデンマークのマダムと一緒になりまして、料理は一人前、お皿は二人分たのんで、食事をすませたこともあります。
 スペイン語の先生は私より5歳くらい年下の男性で、ヨーロッパ中からの生徒を教えている関係からか、彼は10カ国語をしゃべります。日本語もすこし勉強中でした。日本に来た時デパートの高島屋がひどくお気に召したようで、高島屋の包装のやり方は芸術品だと感心していました。確かにヨーロッパでは紙の袋に入れてくれるだけのところが多いです。白板に高島屋と漢字で書いてくれといわれるので、書くと「どうしてそんなに早く書けるんだ」と驚かれました。この先生とは以降2回一緒に旅行しましたし、今でも交流があります。
 地中海を初めて見て感激しましたし、タリファというジブラルタル近くからアフリカの山が見えたのも感激でした。ポルトガルに近い場所で丘の上に沢山の風力発電のプロペラが回っている姿も壮観でした。マルベージャという隣町のお祭りにでかけて、街中が唸っているようなラテン音楽の騒音の中で、当地のマダム達とサルサを踊ったことや同じ学校のマダムとルンバを踊ったのも楽しい思い出です。
 学校の受付の男性が、かつて話をした闘牛が日曜日に隣町であるよと教えてくれ、バスで行ってみました。日が当たる席と日陰で料金が違うことも興味ありました。学校に帰って感想を聞かれたので、「少し悲しかった」というと、日本人ならそうかもね、スペインの伝統だから、と言ってました。
 学校の中にプールがあって、学校の生徒の若い女の子たちがトップレスで楽しんでいるのを見るのも楽しいものでした。私は泳がないで、日陰で本を読んでいると、その子たちが何故日陰ばかりにいるの?と聞いてきたので、日本人はヨーロッパ人と違って、太陽が嫌いなんだ、と答えておきました。
 学校には日本からの若い娘も多く、聞いてみると、スペイン語を上手くなって就職に役立てようとしているらしく、1年、2年と留学している子もいました。たくましいもんだなと感心しました。彼女たちから、ホームステイ先の話を聞いて、食事は美味しいし、夜中にトイレに起きても大丈夫だという事が判り、次の留学からはホームステイにしようと思いました。ということで、写真を2枚ほど。
↓グラナダ(アルハンブラ宮殿で有名)へ行く途中のプエブロブランコ(白い村)と呼ばれるとこでの村の子供とのスナップです。遠足の自由行動でガイドがスペイン語で集合時間とか集まる場所とかを説明するのですが、中には、あまり理解できない人もいるので、親切なブリティッシュエアウェイのCAが英語に訳して再度説明していました。このCAも仕事で必要なのでスペイン語の上級クラスに入っている生徒です。私が来る時の飛行機がBAだと言うと、「今度仕事中に出会ったらコーヒーを山盛りにしてあげるね」と笑ってました。
(管理人・いやあBAのCAさん美人ですなあ[わーい(嬉しい顔)]
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↓アルハンブラ宮殿の屋上でクラスは違いますが、同じ学校の生徒のスイス娘とのスナップです。
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