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「鬼滅の刃」+「忘備録」映画の終わり方 [映画・文学・音楽]

  大ヒット公開中の「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の興行収入がナント324億7000万円となり歴代1位になったんだそうです(これまでは「千と千尋の神隠し」の316億8000万円)。
https://mainichi.jp/articles/20201228/k00/00m/040/084000c
 話題になっていたので、ミーハー老人としてはまず、どんなものかとテレビ放映された全26話を、そして劇場版を見てみました。
 簡単に書けば、鬼に家族を殺された主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が鬼になってしまった妹を再び人間に戻すため「鬼殺隊」に入り仲間と共に鬼と戦う物語。次々と難敵が現れ、これを倒して進んで行く中で仲間も傷つき倒れて行くという展開は「ドラゴン・ボール」や「キン肉まん」でおなじみの「ブロレスパターン」。ナンダカンダあって、炭治郎たちが無限列車に乗り込むところまでがアニメの最終26話。その直後の話が劇場版になっている。書店でチェックしてみると、全23巻のうち無限列車編は7、8巻なのでようやく1/3まできたところか? マチガイナク続編アルネ(^^;
 映画を見て驚いたのは、とくに人物紹介などなしに進んでいくこと。炭治郎の妹がなぜ竹を咥えているのか、猪の被り物をしているのは何なのか、主人公たちはどうしてこの列車に乗り込んだのか、「柱」って何なんだ・・・等々、映画が初めての人にわかるのだろうかということだが、年寄りとちがって若い人たちは原作もアニメも見ているのだろう。見ていなくてもネット情報で概略程度は知っているのだろうか。
 映画自体は列車の部分とその後の2本立てようなもので、1時間弱のアニメを2本見せられたようなもの。また、列車がどこをどう走っているのか話が列車内に留まっているため「列車物」特有のスピード感はあまり感じられない。「鬼太郎」の「幽霊列車」だって駅名が火葬場、骨壷・・・と進んで行き終点が地獄で緊張感を出していたゾ。アニメとしての作画、動きもテレビアニメと比べて唸らせるほどのものではなく、主人物の口だけしか動いていないシーンも目立つ。技術的にはジブリや新海アニメのほうが遥かに上だ。今日の本題の「終わり方」に寄せれば、素晴らしい「柱」の死は確かに衝撃であり悲しいことではあるが、あれほど延々とめそめそシーンをやるよりスパッと終わった方がはるかに余韻が残ったと年寄りは思うわけだ。が、そんな細かいこたぁどうでもいいんだよという映画なのだろう。確かに腹が立つような駄作ではなくそれなりに見られるものではあるのだが、なぜこんな大ヒットになったのか、年寄りには見当もつかない。
 「少年ジャンプ」の原作なので「友情・努力・勝利」の青少年向けのもので、残念ながら年寄りはお呼びじゃないと考えるしかない。若者たちは、
「泣くな、絶望するな、そんなのは今することじゃない」
「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない。この少年は弱くない。侮辱するな」
「俺は俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!」
「そんなことで俺の情熱はなくならない。心の炎が消えることはない。俺は決してくじけない」
「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと心を燃やせ」
 なんていう台詞にそれこそ体が振るえ、心が燃え上がるのだろう。いいなぁ、若いってのは。歳をとったからといって、若いころはあったのだ。その感情は理解できる(^-^)。しかしだからといって、多分映画を見てもいないスカ首相が「全集中」なんて言うと、てめえ全集中でGoToやってたのかと腹が立ってしまうから不思議だ(▼▼メ)。

 はいっ(ジャンポケ斉藤かっ(^^;)、以下は「鬼滅の刃」とは全く関係のない、年の瀬にちなんだ映画の「終わり方」についてなんだかんだと思いつくまま書き綴ったまとまりのない「忘備録」。

 大昔に読んだモンテーニュの「エセー」に、人はどう死ぬのかどう死んだのか、その人の評価は死んで初めて定まるというようなことが書いてあった(半世紀も前のことなのでよくは覚えていない(^^;)。人生もその「終わり」が肝心で、いくらその過程が立派でも、終わりがダメでは、その価値も半減してしまう。体操競技やスキージャンプだって着地で転んだら大幅減点だ。同様に、映画もそのラストシーンによって評価の多くの部分が決まる。
 というのは、まあコジツケで、アベノマスクとコロナウイルスに揺れた2020年ももうオシマイなので、今回は、映画の終わり方について過去に書いたものに若干の補筆をしてアップする。実は、まだ補筆の途中だが、最近のボケ進行からすると、こういう雑文を書いたことすら忘れてしまいそうなので、思いついたときがアップ時ということで、強引にアップすることにした。
 人生も映画もその「終わり方」が肝心(それにしても、歳をとってからの1年はホントに早い。ほとんど何もしていないうちに1年が経ってしまった(^^;)。

 ラストシーンが印象に残っている映画というと、まずチャップリンが思い浮かぶ。同時期のキートンなどと比べて、チャップリンが長編を破綻なくまとめることが出来たのは一にも二にもラストのうまさ、中でも(ワイルダーと同じように)決め台詞のうまさにあったのだと思う。
 たとえば「モダン・タイムス」のラスト。
 チャップリンがポーレット・ゴダードと並んでとことこと向こうへ歩いていく有名なシーンだ。歩いていったところで何かいいことがあるという保証は全くないのだが、「何もいいことはない。死んでしまいたい」と言う彼女に対して、チャップリンが言う「笑って。さあ、笑って」という台詞がきいているので、観客も何となくいいことがあるに違いないという気になってしまうのである。それにかぶさるチャップリン自身が作曲した「スマイル」という曲がまた絶妙で、映画全体としては短編を寄せ集めたような校正なのだが、つい感動してしまうのである。
 「街の灯」のラストもうまい.目が見えるようになった彼女が、汚い浮浪者のチャップリンがかつてそれが自分を助けてくれた紳士と気付かず、手に触れて初めて「あなたなの?」ときくシーンは、ぞくぞくするくらいの上手さで多くの模倣作も産んだ。あのギャグまんがの王様を自称する赤塚不二夫ですら「おそ松くん」の中でイヤミをチャップリンにこのシーンを使っていたほどである。チャップリンの困ったような、うれしいような顔のアップで、パッと終わる終わり方も見事(とはいえ、どう考えてみても、「モダン・タイムス」にしろ「街の灯」にしろ、このあと主人公たちを待っているのは、悲惨な人生だろう気がしないわけではない。それをなんとなく「よかった、よかった」風にうまくまとめてしまっているのは反則のようなものだが、「芸」というものだろう。
 「独裁者」はちょっと退屈するところもないではない作品だが(とはいっても冒頭の15分は大笑いできることを保証する)、ラストの大演説の後、「アンナ、聞こえるかい…」と呼びかけるうまさ。その途端、大所高所からされていた演説が、突如として観客一人一人に語りかけられるものになり、演説自体は悪い内容ではないので見ている者の心に直接届くのである。「殺人狂時代」(この作品のためにレッド・パージをくらい、アメリカを追われたといわれる)は、キネマ旬報第1位になった失敗作だが、しかし、「1人殺せば殺人犯、100万殺せば英雄」という彼の有名な台詞は実に説得力がある。この台詞だけで作品の価値が1ランクは確実に上がってしまうのだから。そんな決め台詞のおかげで、観客は、チャップリンの映画を見終わると初めから終わりまで充実した1本の長編(それは、とりもなおさずもう一つの人生ということになる)を体験したような錯覚に陥り、何らかの力を得たような気分になれるのである。「ライムライト」の主人公の死を知らずにヒロインが躍り続けるラストも印象的だ。極論すればあらゆる芸術作品が錯覚の上に成り立っていることを考えるならば、チャールズ・チャップリンは、やはり偉大だったと言わねばならない。

 ラストがうまい監督と言えばビリー・ワイルダーも欠かせない。
 が、ワイルダーについて書き出すとチャップリン以上に長くなってしまう。「情婦」(原作はアガサ・クリスティの短編で直訳すれば「検察側の証人」。「情婦」なんて邦題をつけた奴は万死に値する)のラストを見ればわかるとだけ書いておく。[翼よ、あれが巴里の灯だ」や「アパートの鍵貸します」などのラストも切れ味がよく、余韻が残る。「あなただけ今晩は」の「それはまた別の話」や、「お熱いのがお好き」の「完全な人間などいない」なども名台詞ラストも座布団3枚。いかん、ワイルダーについては書かないついっておくながら長くなりそうなので止めにする。
 アメリカ映画の古いところでは、「モロッコ」(スタンバーグ)や「カサブランカ」(マイケル・カーティス)など、今でもそのラストシーンについて語りたがるフアンがいるほどだ(私のその中の1人なのだが(^^;)。
 
 やはりラストが決まってこそ映画の評価も高まると思うのだが、どうも日本映画は、終わり方がヘタである。
 たとえば昔の映画になるが、世評の高い山田洋二の「幸福の黄色いハンカチ」のラスト。出所した高倉健がひょんなことから知り合った武田鉄也・桃井かおりと共に、妻の待つ家へ帰ってくる。妻が待っていてくれるのなら黄色いハンカチが……、ということで観客もドキドキしながら高倉健さんと同じ気持ちで画面を追っていくという、なかなかうまい場面設定である。で、(まあ見ている人が多いと思うので、ネタを割ってしまうが)黄色いハンカチはあるのだが、それが1枚ではなく、観客の意表をついて何枚も何枚もずらりと並んでいるのである。「わっ、よかった」と思うそこでどうして終わりにしなかったのだろう。その後つまらないシーンをだらだらと続けたために、この映画はせっかくの名画になるチャンスを失ってしまったのである。
 最後の着地というかキメがヘタという点では、残念ながら黒澤明も例外ではない。
 「用心棒」のラスト、三船に斬られてもうとっくに死んでいると思った仲代達也がまだ生きていて「お前は、優しいなあ」とか延々とぐじゃぐじゃ言うのには参った。続編の「椿三十郎」は、三船と仲代のラストの一瞬の勝負が話題になったが、あれはああでもしないと終わりにならないという無理やり終わりにするためのラストで私はあまり買っていない。「影武者」のラストの死体累々の間を仲代うろうろも長すぎる。名作「七人の侍」だって戦いが終わってからの百姓の田植えのシーンは、もちろんあってもいいのだがあの半分の長さででいいと思う。映画の格としては2ランクも3ランクも落ちる西部劇版「荒野の七人」だが、ことラストに関しては西部劇版の方が余韻を残して遥かに上である。
 周防監督の「Shall we ダンス?」は、なかなかよく出来ている映画だがこれもラストがもたもたと長い。「草刈民代に「Shall we ダンス?」と訊かれた役所が頷き彼女の手をとったところですぐエンディングに入るべきで、有象無象が一緒になって延々と踊るシーンなど絶対に必要ない。どうしても出したいのなら、クレジットタイトルのバックにでも出せばいい。
 これらは世間的にも名作とされているもので、それ以下の映画となると終わり方はもっとひどい。中にはわけのわからないまま幕が降りてくるものもある。アクション物、ヤクザ物などは主人公か仇、あるいはその両方が死に、登場人物が死んでしまったので映画も終わりだよーというものも多い。小言老人としては、終わり方ってものがあるだろうがと、小1時間説教の一つもしたくなるってものだ。

 その点、洋画は名作でなくてもそれなりにうまいものが多く、だらだらと続けることはしない(もちろん例外は多くあり、あくまで邦画との比率)。
 ビリー・ワイルダーやチャップリンは一流の監督だからと言うのなら、「カプリコン1」のピーター・ハイアムズのような普通の監督の平均的作品でもラストは、うまいと言っておこう。偽火星着陸を演出しその乗組員はすべて殺害したと思っている政府高官が墓前で「彼らの意志を継ぎ……」とやっているところへ、たった1人生き残った乗組員が記者と共に走ってくる、そのストップモーションで終わっているのだ。政府高官を映していたTVカメラがすべて走ってくる2人の方へ向きを変えるというそのワンショットで、それがどういう結果をもたらすのかは観客は十分にわかるのだから、その後をぐじゃぐじゃやるのは愚の骨頂というものである。キューブリックの「2001年宇宙の旅」とくらべて今ではほとんど話題にもならない同じくハイアムズの続編「2010年」にしたって大した映画ではないが、ラストはうまくしめくくっている。
 第二次大戦下の潜水艦と駆逐艦との死闘を描いたディック・パウエル監督の「眼下の敵」。
 戦いは痛み分けのような形で終わるのだが、ラストでアメリカの駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムがロープを投げたために、助かったUボートの艦長クルト・ユルゲンスがこんなことを言う。
「今まで死ぬべきところで死ねなかった。しかし、今回は君のせいだぞ」
「今度は、ロープを投げないでおこう」
 と、ミッチャムはすました顔をして答える。するとユルゲンスは言うのだ。
「いや、また投げるよ」。
 そこでカメラは引きになり、大洋をバックにエンドマークが入るのだが、敵味方を越えた海の男の心意気を示して気のきいた実に余韻に溢れた終わり方できないか。
 ジョン・ヒューストンの「勝利への脱出」は途中かなりダレルところがあって傑作になり損ねた作品だが、サッカー場で観客が雪崩をうってグランドへ入り込み(このシーンは、かなり迫力有り)、その観客の群れとともにゲートを壊して場外へ逃れた、そのシーンでパッとエンディングへもっていくあたり、手慣れているというか、うまいものだと思う。
 シリーズ化された「ロッキー」も「ファィナル」のラストは素晴らしいものだった。試合が終わりロッキーたちは判定を待たずに引き上げる。つまり、ロッキーにとっては現役の世界チャンピオンと試合をするということが目標であったわけで、判定などどうでもいいことなんだと見ている者を納得させるラストといえる。判定はいずれも95-94という微差で2-1で世界チャンピオンが勝利するのだが、メイキング映像を見るとロッキーが勝利するシーンも撮ったようだが、映画に使われたラストのほうが何倍も感動的だ。

 以上はアメリカ映画だが、ヨーロッパの映画もラストで唸らされるものが何本もある。
 たとえば、クレマンの「太陽がいっぱい」やアンリコの「冒険者たち」といったアラン・ドロンの2大名作も納得のラストである。終わり方が文句なしにうまいので、映画を見た余韻がいつまでも残るというものである。やはり、外国の名監督はラストもうまいのだ。もっとも、ルネ・クレマンの映画も「危険がいっぱい」「雨の訪問者」などは映画もイマイチだったし、ラストもどうでもいいようなものだった。名監督もその映画を撮った時点で名監督だったのかどうか判断する必要がある。アラン・ドロンの他の映画では「若者のすべて」(ヴィスコンティ)「さらば友よ」(ジャン・エルマン。ただしブロンソンに食われてしまったが(^^;)「レッド・サン」(テレンス・ヤング。これも、三船、ブロンソンに食われてしまったが(^^;)などはラスト合格だった。
 トリュフォーの「華氏451」のラストなどは極めつけの1本で、その美しさと感動については、すでにこのブログにも何度も書いたが、私が選ぶ映画ラストN0.1と言っても過言ではない。

 「スパルタカス」(キューブリック)や「ベン・ハー」(ワイラー)「アラビアのロレンス」(リーン)「サウンド・オブ・ミュージック」(ワイズ)のような3時間を超える超大作でもラストは、スパッと決めている。「エル・シド」(マン)に至っては「歴史の門から、伝説の中へと駆けて行ったのである」のラストシーンのおかげで完全に評価が1ランク、いや2ランク上がった。超大作だからラストも長くていいというわけではない。見事に着地しているからこそ見終わって余韻が残るのであり、そこをだらだらやられたのではせっかくの名画もだいなしである。逆に言えば、出だしも途中の過程もラストもきちんと納得の出来にあるからこその名作ともいえる。
 超大作の場合、ともかく金がかかっているのだから何がなんでもラストはきちんと決めていい印象を残したいという意識がとくに製作者側にも強く働くのだろう。駄作も駄作。映画館では必死になって眠気をこらえる必要があったジョン・ウェインの「アラモ」ですら、ラストは感動的にピタリと決めていた。

 最後に、映画1本1本ではなく、シリーズもあまり長く続けようとはせず、キリのいいところでスパット終わる方がいい。たとえば「エイリアン」。1は宇宙ホラーとして、2は宇宙活劇として十分に満足できるものだったのだが、3でいきなり2で脱出に成功した宇宙船が墜落。2での話がチャラになってしまったところからスタート。2で、よかったよかったとおもった観客は完全に脱力。それでも凝りもせず4では、3で死んだシガニー・ウィーバーおばさんがDNAから復活。しかも眠気と闘わなければならないほどの不出来でシリーズの価値を完全に落としてしまった。多分、客の入りも悪かったのだろう、やれやれともかくこれでシリーズも完結だなと思っていたら、ナント第1作の監督リドリー・スコットが「プロメテウス」なる第1作の前史を作り始めてしまった。その後の話が「エイリアン:コヴェナント」で、さらに第1作前の話が1本作られるという噂を聞いたが未だに作られていない。リドリー・スコットは傑作「ブレードランナー」に泥を塗るような「ブレードランナー2049」という続編も作っているが、歳をとったせいで完全にボケているのだろうか、「ブレードランナー」を見て感動した人は絶対に見ないほうがよい。。
 「スターウォーズ」も第1作(epi.4)で十分だったものを儲かったので話を水増ししたようなepi.5、epi.6が作られた。まあ、全9作なんて言っていたが3部作ということで終わりにするんだなと思っていたら何年か経っていきなりepi.1、epi.2、epi.3が作られた。前史にあたるものでepi.4に繋げるストーリーなのだが、見ている方はどうなるのか結末がわかってしまっているので、全くハラハラドキドキしない。それでもepi.4の監督でもあり製作総指揮のジョージ・ルーカスの「全6作。ダース・ベイダーになった人間の誕生から死で物語は終わった」という発言に、私は、まあそういうことなら仕方がないかと思ったものだ。その後、金の亡者のルーカスが権利をディズニーに売り渡しepi.7、epi.8、epi.9が作られ、さらにサイドストーリーとして「スターウォーズ・ストーリー」「ハン・ソロ物語」が作られ、シリーズとしての価値を大幅に落としてしまった。
 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はタイムトラベル物としてなかなかよくできていたので、ヒットしたのだろう。続編、続々編と作られたのだが結局は同じことの繰りかえしになり、教訓的なものまで入って来てつまらなくなった。同じタイムトラベル映画の「ターミネーター」も「ターミネーター2」まではおもしろく見られたが、3以降はゴミ。「ブレデター」に至っては、続編が作られるたびにつまらなくなっていき、今やクズだ。古いところでは、「スーパーマン」もおもしろかったのは、2までだ。こうしてみると、SFファンタジー映画がシリーズ化されることが多いようで、結局はつまらないシリーズになってしまうのは、青年時代SFフアンだった私としてはなんとも残念なところである。

 やはり、最後をどう決めるかというのは重要だとつくずく思う。アホもスカも悪事を重ねて来たのだから、「真摯に反省」なんて言葉だけの反省はもう聞き飽きた、せめて引き際くらいは奇麗にと思うのだが、まだまだ居座り続けるんだろうなあ。見苦しいほど往生際が悪い。先日までNHKで放送されていた「焔魔堂沙羅の推理奇譚」なら間違いなく地獄行きだな。(^_-)-☆
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wildboar

世間から見放されないように、先日TV放送された一部だけ録画しましたが、まだ観てません(-_-;)
by wildboar (2020-12-29 10:06) 

アニマルボイス

正直、老人でも見られる出来にはありますが、なぜこれほどの大ヒットになったのかはよくわかりません。(≧Д≦;)

by アニマルボイス (2020-12-29 10:33) 

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