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9月の最後に彼岸花 [植物]

 年金の申告書を出してきた。変更があるのかないのか毎年出すわけなのだが、封筒は料金後納ではなく「切手を貼ってください」、つまり自分で切手を買って出さなければならない。毎年のことなのだが、腹立たしい限りである。[パンチ]

 もう彼岸はとっくに過ぎてしまっていますが、隅田川の土手に彼岸花が咲いています。それも、あちこちに。緑の中に赤い集団があるとアクセントになって悪くはないのですが、どれも半畳くらいの敷地に植えられているのがちょっと残念。彼岸花で有名な巾着田ほどでなくてもいいのですが、何か所かにバラバラに植えるのではなく1か所にドーンとまとめて植えれば、隅田川の新しい「名所」になったのではと思うのですが。
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★わははははは、私のほうがトランプ大統領より高額納税者だぜい。[わーい(嬉しい顔)]
https://news.yahoo.co.jp/articles/05559bcf6b0138400eef0613eecb1f8360d7c436
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癒しのミズクラゲ [動物(哺乳類以外)]

 月末でちょっとばたばたしていますが、来月はのんびりできそうです?
 それにしても、時々立ち寄る曳舟の喫煙喫茶店、のんびりできてとてもいい雰囲気なのですが、ここのおばさん何を勘違いしたのか、私のことを「先生」と言うので閉口しています。「先生」と呼ばれるほどバカじゃないので、何の取り得もないただの老人だと言っているのに、「先生」が止まりません。困った。[たらーっ(汗)]

 ペットショップのオーナーの話では、「癒される」ということで、クラゲを買って行く人がけっこういるんだそうです。月末でちょっとばたばたしているので、このへんで癒されておきましょう。(^^;
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9月28日のアキアカネ [昆虫など]

 昨夜は、「半沢直樹」最終回、世間で言うほどのドラマではないと思いながらもつい見てしまいました。あれほど多くの人が動いてくれたということは、皆が濃淡こそあるものの半沢の生き方に共感した、ということにしておきましょう。(江口が柄本の盆栽を叩き毀すシーンは、もし見ていたらwildさんが激怒したかも?)

 ちょっと仕事が詰まっていて、本日のブログ更新はパスしようと思っていたのですが、偶然、何年か前の9月28日に撮ったアキアカネの写真が出てきたので、アップしておきます。撮影データが残るところはデジタルのメリットですね。(^-^)
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秋の地味花 2 [植物]

 びっくり!
 死因ははっきりしていないようですが、まさか三浦春馬さん、芦名星さんに続いての・・・とは思いますが。竹内結子さんのご冥福をお祈りします。合掌。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6372148
 自殺と決まったわけではないですが、古稀を過ぎた年寄りとしては、やはりチャップリン「ライムライト」の中の名言を再度アップしておきたい。
There’s something just as inevitable as death. And that’s life
死と同じように避けられないことがある。生きることだ。

 さてと、在庫を一掃してしまったので明日の写真がありません。過去に書き散らした雑文で誤摩化すか、何か手持ちの写真の中から探すか、それともお休みにするか、ふうむ・・・夜までには結論をだします。(^^)/

 在庫一掃地味花セール、とりあえず終了です。なんとなく物悲しい秋には地味花がよく似合いますねえ。と、自画自賛。[たらーっ(汗)]
↓アシタバ
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↓シロバナサクラタデ
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↓ツユクサ
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↓ヒナタノイノコヅチ
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↓ヨウシュヤマゴボウ
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秋の地味花 1 [植物]

 秋の長雨なんて言っているうちに、秋が終わってしまいそうです。今日も天気は悪く、さっきベランダに出てみたら、けっこう寒いです。というわけで、今日も長袖。半袖はそろそろしまってしまってもOKかな? いや、一着くらいはまだ残しておきましょう。

 秋の花はこちらの気のせいかなぜかしっとりした趣があっていいですねえ。地味で目立たなくても、それこそが秋の花という感じがします。
↓アキチョウジ
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↓エゾアブラガヤ
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↓カシワバハグマ
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↓カヤツリグサ
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↓カリガネソウ
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秋の白い花 2 [植物]

 「女性はいくらでも噓をつけますから」と発言したこの女性の発言は噓だとしたら・・・。噓のパラドックスはどこまでも・・・。この水田って自民党のおばさん、確か「新潮45 」を休刊(廃刊)に追い込んだ張本人だよね。ま、懲りないというか自分に正直というか。さすが「生産性」がありますなぁ(^^;
https://news.yahoo.co.jp/articles/22f05ed506f499a6a1961c874ce090d4cf61febd

 昨日に続いての、秋の白い花。すべて以前撮ったものです。このところ整骨院通いと月末での原稿締め切りなどでバタバタしていて向島百花園にも行っていないのですが、一段落したら新規の素材を仕入れて来ようと思っています。
↓シラヒゲソウ
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↓シラヤマギク
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↓センニンソウ
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↓フウセンカズラ
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↓フジバカマ
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↓ヤマハハコ
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秋の白い花1 [植物]

 急に涼しくなってきました。昨日から長袖です。
 こういうときに、暑さの疲れがドット出るなんていうので、昨日は家でごろごろしていたら昼寝しちゃいました。なんとなく怠惰の言い訳のように聞いた皆さん、敬老週間ですぞ。敬老週間。わかっとるネ。[わーい(嬉しい顔)]
↓アケボノソウ
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↓イヌショウマ
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↓ウメバチソウ
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↓オシロイバナ
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↓ゲンノショウコ
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↓サラシナショウマ
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今年はアゲハに縁がなかった [昆虫など]

 新聞を見て、昨日が「敬老の日」だったことに気がつきました。
 以前と違って、祝日が毎年のように変わり、それにボケが加わっているので全然気がつきませんでした。昨日は、整骨院に行き、いつもとは別の喫煙喫茶店でランチ。夜は奥様手作りのパスタ。昼寝をしたり、あちこちのブログを見たり、テレビを見たりしているうちに1日が終わってしまったなあ(^^;。ま、とりたてて大病もなく敬老の日を迎えられたことをヨシとするか。(^_-)-☆

 ベランダのユズの葉に産まれたアゲハの卵。多分、これが今年最後の産卵だろうと採集。セットを組んで孵化を待つ(三脚使用。ストロボ2灯)。
9/19 PM01-20(枝ごと採集してセット[グッド(上向き矢印)]
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9/20 PM03-01(孵化の兆候が・・・[わーい(嬉しい顔)]
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9/20 PM09-53(なかなか孵化してくれない[がく~(落胆した顔)]
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9/21 AM00-10(このあたりで猛烈な眠気が・・・遂に撮影断念[眠い(睡眠)]
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9/21 AM08-37(こんな写真なら吐いて捨てるほどあるゾ[バッド(下向き矢印)]
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 今年は、孵化の撮影も羽化の撮影もことごとく失敗。アゲハには、ベランダのユズとキンカンの葉っぱを食い荒らされただけで、撮影には全く縁がなかったなぁ[もうやだ~(悲しい顔)]
↓ナントモ残念な結果で、ストレスも溜まるので、以前撮ったアゲハの孵化写真を追加しておきます。
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※てなわけで、敬老の日にちなんで?明日(9/23)のブログ更新はお休みします。アゲハの孵化写真追加したのでいいよね。(^^;
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安かろう悪かろうは通用しない [日記・雑感]

 先月のことだ。
 ネットでマスク100枚が1980円。税込み・送料無料。しかも、ポイント4倍(76円分)。手持ちのポイントが200ポイントほどあったので、1800円で購入。1枚あたり18円。ちょっとゴムがきつい以外はとくに問題なく使っていた先日、新しいマスクをしようとしたら、ゴムひもがいきなりポロリ。ありゃっと思ったらひもがマスクから外れている。見ると、ゴムひもをマスクに圧着する位置がなぜかずれていて、きちんと圧着されていない。これじゃあ外れるわけで、要するに不良品だ。
 100枚のうちの1枚がという感覚は私にはない。100枚だろうが、1000枚だろうが1枚でも不良品が混じっていたら、アウト。不良品なのだ。ネットの商品レビューもそれまでの★4つから急遽、★1つに引き下げた。安いのだから仕方がないと変な納得をするのではなく、商取引とはきちんとしたものが納入されるという前提で成り立つものなのだ。この商店では2度と買うことはないと思う。安かろう、悪かろうは通用しないゾ。
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やるなあ、スタジオジブリ [日記・雑感]

 スタジオジブリが「常識の範囲で、ご自由にお使い下さい」と、場面写真の無料提供を始めました[わーい(嬉しい顔)]。「ナウシカ」とかはジブリ前の作品なのでダメでしょうが、それにしても素晴らしい。拍手[るんるん]
http://www.ghibli.jp/info/013344/
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※以前、子どもたちが夏の思い出にと学校のプールに描いた絵を、著作権法違反だと消させたくそディズニーとはえらい違いです。
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亀山郁夫訳「悪霊」「白痴」雑感 [映画・文学・音楽]

 午前中に買い物に行ってきました。曇っていてもそれほど蒸さず、気温も30℃を下回っていてそこそこ快適です。お昼の弁当を買ったついでに、ホームセンターにも立ち寄りガラス飛散防止テープや養生テープ、乾電池などを買ってきました。
 この4連休、テレビで見る羽田などけっこう密ですが、こちらはどこかへ出かける予定はありません。ただ、1日引き蘢りは体力的にも精神的にもよくないので、1日1度は外出しようと考えています。

 今回の忘備録の最後。
 重複、勘違い、誤字、脱字など山積みですが「忘備録」なのですべて当時のまま。読者の皆様におかれましては、本日、もう1日スルーをお願いします
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★亀山郁夫・訳「悪霊」いよいよ発進
 光文社「小説宝石」2月号の広告に、
古典新訳・短期集中連載 ドストエフスキー 亀山郁夫・訳「悪霊」と、出ている。
 訳者と光文社には申し訳ないが、「古典新訳文庫」で出たとき買うのだから、という名目で本屋で立ち読みしてみた(^^;。
 内容は、第1編・第1章の訳と亀山氏の簡単な解説がついただけのもので、この調子ではとても「短期」ではおわらんぞ、2年以上かかるぞ、と思ってもう一度告知を見直したら「短期集中連載」とあるだけで、短期集中連載で完結までという保証はどこにも書かれていない。そもそも他の掲載作品とは違和感がありすぎるので、まあ、第1編だけでも掲載できればいいほうかもしれない。
 訳者はともかくとして、光文社の編集部はよく「悪霊」を出す気になったものである。
 古典新訳文庫のドストエフスキー・亀山訳は「カラマーゾフの兄弟」が第1弾で、「罪と罰」が続いた。一般的に知られているのは「罪と罰」のほうで、私が持っているもう何十年も前に出た河出書房・米川正夫訳の全集では第1回配本はやはり「罪と罰」だった。当時、河出書房、新潮社、中央公論社、筑摩書房といった各社から出されたどの世界文学全集(大系)にも「罪と罰」は必ず入っていたが、新潮社、中央公論社の全集には「カラマーゾフの兄弟」は入っていない。その意味では、一般の傾向とは発売が逆だったわけだが、しかし、知名度という点では「カラマーゾフの兄弟」は「罪と罰」に劣るものではない。それほど知名度のある名作があまり読まれていない。その読まれていない名作が新訳ですらすらと読める。読んでいる人があまりいないので、読むと新鮮なのである(事実、私の知り合いで世界文学入門のような本まで書いている作家も、この亀山訳で初めて「カラマーゾフの兄弟」を読了できたと言っている)。ということから、この亀山訳「カラマーゾフの兄弟」はある意味、古典新訳文庫を象徴するような作品になった。
 私自身もすでにこのブログにも書いているように、「カラマーゾフの兄弟」を買い、当然のように「罪と罰」も買い、それぞれ2回ずつ読んでしまった。で、当然、次は「白痴」だろうと予想していた。
 ドストエフスキーの4大長編「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」(実はこの間に「未成年」という作品があるのだが、あまりおもしろくない)のうち、「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」が出たのだから、次は「白痴」と予想して当然なのだ。というのも、私は一応米川正夫訳で読んではいるのだが「悪霊」という小説はともかくわかりにくい。たとえば、
「わたしは今この町、---べつにこれといった特色もないこの町で……」(米川訳)
 といった具合にこの手の大長編がいきなり1人称で始まるというのも驚きだが、がんばって最後まで読み通しても、主人公スタヴローギンのイメージがどうにもこうにも鮮明にならないのだ。
 日本でも「連合赤軍事件」などあり、「悪霊」はそれを予言したなんて発言もその当時あったのだが(そしてドストエフスキーが執筆に際しネチャーエフ事件をイメージしていたことは確かなのだが)、キリーロフのところなど読めば、この長編がそんな組織と個人の問題だけに留まらないことは、たちどころにわかる。が、しかし、ではいったい何が問題とされているのか、ということになると、残念ながら私には、はっきりとは答えられない。必ずと言っていいほど人が死ぬドストエフスキーの長編にあって、これほど多くの人が死ぬ「悪霊」の核心が、残念ながらどうにも私にはつかめないのだ。
 対して「白痴」は恋愛小説、メロドラマとしても読める。ムイシュキンの語る「処刑」の場面やラストのラゴージンとの場面など実に密度の濃いものなのだが、難しくはない。破綻も少なくまとまりもある。つまり、一般受けするのだ。ふつうに考えて、こちらの方が先だろう。
 にもかかわらず、(たとえ訳者のプッシュがあったにせよ)古典新訳文庫の編集部は、「悪霊」を先にすることに決めた。とは書いてないのだが、「小説宝石」に冒頭が掲載されたのだから、まず間違いあるまい。出版社にとっては、「売れる本」のみが「いい本」であることは長年業界にいた者として承知しているので大丈夫かなという心配もないではない。データをもっているわけではないが、4大長編の中で「悪霊」がダントツに売れていないし、読まれていないことは間違いない。少なくとも私の周囲の人間で「悪霊」を理解しているかどうかは別にして読了したという人間は皆無である。亀山訳「カラマーゾフの兄弟」を読んで、それまでのイメージが一変したように(米川訳が悪いと言っているのではない。誤解なきように)、亀山訳「悪霊」により今までとは違ったイメージが得られるのではないかと期待するところ大である。こんな些末なブログを関係者が見ているとも思えないが、「悪霊」が一刻も早く古典新訳文庫で刊行されることを切望したい。 2010-02-04

★亀山訳で「悪霊」再チャレンジ
 光文社の古典新訳文庫で亀山郁夫訳・ドストエフスキー「悪霊」第1巻が出たのでつい買ってしまった。全3巻ということなので本当は3巻を一気に読んでしまった方がいいのだが、とりあえずこの第1巻を2度ほど読んで第2巻が出るのを待とうと思う。11月ころに出てくれるとちょうどいいのだが、果して年内に出るのかどうか?
 「悪霊」を最初に読んだのは実にン十年も前の学生のときで、平凡社のロシア文学全集・米川正夫訳の「悪霊」だった。これはフランス装で箱も機械折の軽装版。本棚に並べて悦に入るのも図書購入の楽しみの1つと考えている私にはやや物足りない造本だったが、河出、新潮、中公、筑摩といった世界文学全集のドストエフスキー作品は「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」がいわば定番で、「悪霊」「白痴」は入っていない。当時は文庫にもなっていない。つまり、「悪霊」を読むにはこの全集のものを買うしかなく、ともかく「読む」ことを最優先した結果で翻訳がカスなら論外だが、その当時、私にはあまり根拠はないのだが、ドストエフスキーは米川正夫訳、トルストイは中村白葉訳といったイメージがあったので訳も信頼できると思ったのも購入の大きな要因である(ただしこの本、紙がクリーム色ではなく白い紙でちょっと読みにくいという難点があった。老眼が進んだ今となってはとても読み進めないと思う。
 話が脱線した。
 で、「悪霊」を読んだ結果はというと、
「……???」
 長編がある人物の1人称で始まる予想外の書き出しに戸惑い、正直、いったい何なんだこれはという感じのままともかくも読み終えた。まあドストエフスキーの作品はテレビ見ながら寝転がって読んでわかるというわけにはいかないが(少なくとも私には無理だ)、当時、ドストエフスキーの4大長編のうち「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」(河出のグリーン版世界文学全集)「白痴」(平凡社のロシア文学全集)はすでに読んでいて(いずれも米川訳)理解こそ浅いもののとれなりに「わかる」作品だった。ドストエフスキーの読解にかけては多少の自信もあったわけだ。ところがである。読んでいるときは五里霧中で読み終わっても理解は遠く霧の彼方。アンチ・ロマンの作品はともかくとして、「普通に」書かれた作品でこんなに戸惑ったのは初めての経験だった。
 それでも懲りないのが「若さ」というものなのだろう。
 その後、米川正夫個人全訳の「ドストエフスキー全集」(河出書房)を購入。上記の「4大長編」はすべてこの全集版で再読した。その結果、それなりに少しは理解も深まったと思うのだが、「悪霊」だけはやはり薄いベールに包まれたままで今ひとつその本質を現してはくれなかった。
 では、そんな曖昧模糊とした「悪霊」は失敗作で、魅力のない小説なのかというと、そうではない。いや、それどころか読んでからもう何十年にもなるのに未だに恐ろしいほど鮮明にイメージが残っているシーンがいくつもある。だから、困るのだ。
 たとえば、スタヴローギンがリーザと共に対岸の火事を見るシーン。実に神秘的である意味美しいシーンなのだが、実は……という恐ろしいシーンでもある。そして、キリーロフの象徴的な自殺。「白痴」のムイシュキンが語る死刑前のシーンなど、「一瞬と言えども永遠を超える価値があるのだ」というドストエフスキーの信念に裏打ちされたものなのだが、「悪霊」に登場するキリーロフはまさにその信念の具現化したものと言っていい。彼が「ある一瞬があるのだ」と言う言葉には暗い深淵を覗き込むような恐ろしさとある種の恍惚感・感動が感じられる。未完のままとはいえ「スタヴローギンの告白」など、あのイワン・カラマーゾフVSゾシマ長老の前哨戦のような迫力に満ちている。
 ……全く困ったことである。こういうシーンを含めて「悪霊」をまるごと理解したいという欲求に打ち勝てず、ついに今回、亀山訳で3回目のトライをすることとなった。

 さて、今回の亀山訳で、「悪霊」はその全体像をくっきりと現してくれるのだろうか。久しぶりに、わくわくしたものを感じながら読み始めることにしたい。ちなみに、米川訳と亀山訳の書き出しは次のようになっている。
米川訳
「わたしは今この町、ーーべつにこれという特色もないこの町で、つい最近もちあがった、奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。つまり、スチュパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイという、立派な才能もあれば、世間から尊敬を受けている人の、ややくわしい身の上話から始めようというのである。……」
亀山訳
「今日まで何ひとつきわだったところのないわたしたちの町で、最近たてつづけに起こった奇怪きわまりない事件を書きしるすにあたり、わたしはいくらか遠回りを覚悟して、まず手はじめに、才能豊かにして敬愛すべき、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェンスキー氏の経歴にまつわる細かい話を、いくつか紹介するところかにはじめなくてはならない。……」
 原文はともかく、米川訳では2つの文章に区切られ意味がとりやすくなっているところを亀山訳では1文で一気に読ませようとしている。少なくともこの出だしの部分のみの比較では米川訳よりもむしろ難しくなっているような気がしてちょっと心配なのだが(歳をとって理解力が落ちているということももちろんある(^^;)、日暮れて道遠し。ぐずぐず言ってないで、ともかく読み始めてみよう・・・(^^)/

★亀山訳・ドストエフスキー「悪霊」第1巻読了
 こういう本は速読しても意味はないので、できるだけゆっくりと読んだ。ええとこの人物はどういう関係だったのかな、この発言にはどういう意味があるのだろう(ドストエフスキーの作品の登場人物の発言は、額面通りに受け取れないことが多い)、この家とあの家との位置関係は……などと考えたり前のページに戻ったりしていたら、1冊の文庫本を読み終えるのに20日もかかってしまった。
 そのかいあってか、うれしいことに以前はあれほど希薄だったスタヴローギンのイメージが(この第1巻では後半にちょっと登場するだけなのだが)いくらかくっきりしてきたような気がする。つまり、登場人物の発言、行動の源を突き詰めていくと、すべてがスタヴローギンに行き着くのだ。
 前にちょっと紹介した米川正夫訳の「ドストエーフスキイ全集」の「悪霊」には全訳ではないが創作ノートも訳出されており、そこには「いっさいはスタヴローギンの性格に含まれている。スタヴローギンはいっさいである」と書かれているのだが、これは嘘ではなかった。
 また、この第1巻を読んで、ワルワーラ夫人とヴォルホヴェンキスー(米川訳では、ステュパン氏。なぜステュパン氏を採用しなかったのかについては巻末の「読書ガイド」に亀山氏の納得の説明がある)が思っていた以上に生き生きとした重要人物だったことに気づかされた。翻訳の力というものなのだろう。スタヴローギンを含めすべての人物がかつての米川訳のときのイメージよりずっと若々しいのは今までの亀山訳作品と同様である。2010-10-08

★亀山郁夫訳「悪霊2」ようやく刊行
 若いころは手当たり次第どんどん本が読めたものだが、歳をとってくるとそうもいかない。
 まず、読書の絶対量が減ってくる。読書というものは、寝転がって読んでいてもそれなりにエネルギーを使うものなのだ。しかも、読む本も浅見光彦や新宿鮫、すらすら読めるエッセーなどが中心となり(これらの作品には価値がないと言っているのではない。念のため)、なかなか骨のある作品を読もうという気になれない。読めばそれなりにおもしろいのだが、読もうという気になり、その本のページを開くまでに膨大なエネルギーを必要とするのだ。
 しかし、それではボケるばかりである。
 これではいかんと10年ほど前に、少なくとも1年に一作は、手応えのある本を読もうと決めた。プルースト「失われた時を求めて」、ヘーゲル「歴史哲学」など、若いころ読もうとして読めなかった古典を、わかってもわからなくてもともかく年に1冊くらいは読了しようと、しゃにむに読んできた。「読み終えた」という達成感はあるが、その疲労度もまた馬鹿にならない。「こんなもの読んだところで、金になるわけでもなし」などと問題をすり替えたくなる。そうでもしなければ、くじけそうになる。加えて、ただ字面を追っただけで、読んだとはとても言えないのではないかという不安もないではない。
 そんなとき、強い味方が現れた。光文社の古典新訳文庫である。翻訳の質を云々するような資格は私にはないが、ともかくこの文庫、他の文庫と比べて活字がひと回り大きいのが、老眼の身には助かる。訳文もこなれていて、読みやすい。
 この古典新訳文庫の中心が亀山訳のドストエフスキーで、「カラマーゾフの兄弟」に始まり、「罪と罰」「悪霊」と刊行されたものは次々と読んできた。今までのような「苦行」ではなく、気持ちのいい緊張感をもって読めるのが、何より助かる。読書とは、本来、こういうものなのだ。(^^)
 その亀山郁夫訳、ドストエフスキー「悪霊」の「1」が刊行されたのは、去年(2010年)の秋。以来、全く音沙汰がなかったのだが、このたび第2巻がようやく出た。1巻が出たのがえらく遠い昔のような気がして、いつだったんだろうと、「1」の奥付を見てみたら2010年9月20日。このとき、「(第2巻は)せめて年内には出してもらいたい」というようなことをブログに書いたが、年内どころか、今回出版された第2巻の奥付は4月20日(私が書店で最初に見たのは、5月の連休明け)。
 なんと、7か月も経っているのである。おいおい・・・・・。(^^;
 と、文句を言いつつ、実は、「2」がなかなか出ない故のメリットもあった。
 仕方ないので「もう一度読み返してみるか」と2010年内に第1巻を再読した結果、人物の名前やイメージなどがかなりしっかりと頭に入ったのである。ドストエフスキーの長編のように多くの人物が登場し、錯綜する作品では、このメリットは想像以上に大きい。さらに、年が明けても「2」が出ないので、ついにというかとうとうというか「1」の続きの部分からを米川正夫訳の全集版で読み始め、読み始めたら止まらないので、最後まで読んでしまった。米川訳は、「カラマーゾフの兄弟」が「カラキョー」なんて言われる今の風潮からするとちょっと堅いが、これはこれで立派なものであり、どこまで理解できたかはともかく、読み終えるまでにとくに支障はなかった。支障があったとすれば、それは訳文ではなく、若い頃には苦にならなかった「8ポイント、2段組み」という全集版の文字の大きさが老眼の身にはちょっとしんどかったということくらいか。それにしても、米川訳も平凡社のロシア・ソビエト文学全集(というようなタイトルだった)に始まり、今回のものを含めて河出の全集版で2回。それでも飽きないところが、名作の名作たる所以なのだろう。
 そこへ、ようやく亀山訳「2」の登場である。
 そんなに同じ作品を何度も繰り返して読むよりも、別の作品を読んだ方がいいのではないのか、と呆れられそうだが、繰り返して読んでこそ、おもしろさがわかるということもあるのだ。そして、ストーリーを知っていても興味をもっておもしろく何度も読んでいけるのが、ドストエフスキーの凄いところである。すでに100ページほど読み進んでいるが、けっこうわくわくしながら読んでいけるのだ。とくに、問題の「スタヴローギンの告白」は、米川訳では置かれている場所の問題(全集版では上巻の最後)、また原稿自体中途半端で終わっていることなどからどうしても違和感がつきまとうのだが、果して亀山訳ではどうなのか? この1点だけでも読む価値があると断言できる。

★亀山郁夫訳「悪霊」ようやく完結
 本屋に行って何気なく棚を見たら、おおっ「悪霊」の第3巻が出ているではないか。前回(5/21)の雑文の最後に「第3巻は年内に出るだろうか?」と書いたが、年内に出たことをまずは喜びたい。これで年末年始の楽しみが倍増したというものである。
 ドストエフスキーの4大長編といわれる「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」の中で、最も読者の多いのが「罪と罰」で、最も少ないのが「悪霊」である。別に調べたわけではないが、絶対に間違いはない。それも、「罪と罰」>「カラマーゾフの兄弟」>>「白痴」>>>>>「悪霊」といったくらいの断然の最下位読者数のはずである。普通なら安全策として恋愛メロドラマとしても読め「罪と罰」と同じくらいまとまりのいい(つまり読みやすくわかりやすい)「白痴」の方が先だろうが、あえて「悪霊」を刊行してくれた出版社に拍手したい。これから読むわけだが、とりあえず今までの雑文のまとめを下にアップしておく。感想は、読了した時点で。
(「訳者あとがき」だけちらりと読んだが、「悪霊」は「別巻」も出るんだそうだ。「スタヴローギンの告白」の章は、あったりなかったり(ドストエフスキー生前の刊行では、ない)、挿入されている位置が様々だったり、また妻や出版社による「改変」があったりと問題の多い章で、そのあたりの考察がメインになるようだ。出版社の販売制作に踊らされているような気もするが、買っちゃうんだろうなあ。というわけで、全体の感想は、この「別巻」を読んでからに。)

★亀山訳ドストエフスキー「悪霊」読了
 今回、待望の亀山郁夫訳が出たので3回目の挑戦になったのだが、第3巻が出ないので待ちきれずまたまた全集版を読んでしまったため、結果として亀山訳が4回目の読了となった。
 同じ本(つまりストーリーも結末もわかっている本)をそう何回も読んでおもしろいのかと思われる方もいるだろうが、古典の力というのはやはりたいしたもので、気になるから読む、読み出すと新しい発見もあってやめられないという繰り返しに陥るというわけである。まあ、読み方が浅くて中途半端だからだろう、という意見には反論できないのだが。で、以前このブログに全体の感想はこの後刊行されるはずの「別巻」を読んでからに、なんて書いたのだが、読んでみると根が軽薄なだけに、つい下手な感想を書きたくしまうわけである。
 いや、「感想」ではないな。
 ただの素人が感想にもなっていないような印象を(最近、物忘れが激しいので(^^;)書き留めておくだけのこと。そうしないと、その「印象」すら忘れてしまうのである。だからすべては独断と妄想によるものであり、これから読もうとする人にとって何の手助けにもならないことを前もって断っておきたい(そういう向きには、各巻巻末に訳者による懇切丁寧な読書ガイドがついていてとても参考になるので、別に光文社古典新訳文庫の宣伝をする義理はないのだが、ぜひ購入して読んでほしい)。
 で、いきなりこういうことを傲慢なことを言ってしまうと、誤解を招くかもしれないのだが、「悪霊」という作品はやはりうまくまとまっていないのではないか、と思う。これが、4回も読んでの妄想というか、暴論・結論である。そして、そのことをドストエフスキーも十分承知しており、いわば「悪霊」を下地というか下書きのように踏まえた上で再度チャレンジしたのが「カラマーゾフの兄弟」ではないのか。
 そうとでも考えないとラストに向かう流れの中で主人公であるはずのスタヴローギンが姿を消したまま全く出てこなくなる説明がつかない。しばらくの間、主人公が姿を消していたとしてもラスト近くになると再び登場して物語をしめくくるのが普通だと思うのだが、「悪霊」にあっては「スタヴローギンの手紙」と自殺していたという報告がなされるだけである(主人公であるにもかかわらず、その自殺の様子は全く描かれていない)。
 さらに暴論を進める。
 書き進むにつれ、ドストエフスキー自身、このままではこの話はうまく完結しないなという気持ちが強くなっていったのではないのか。つまり、組織の中の人間、存在としての人間等々といったテーマを十全に展開するには枠組みがうまく出来ていなかったのだ。しかも、うまく造型できないスタヴローギンの内面に光を当てようとした「スタヴローギンの告白」は掲載不可能。要するに、ちょっと手直ししたくらいでは修復不可能な事態に立ち至ったわけである。
 どうすれぱいいか。
 途中からの修復がもはや不可能なのだから、答えは簡単である。とりあえず、今の物語を終結させ、新たな枠組みで再チャレンジするしかない。そして、物語を手っ取り早く終わらせるには、登場人物を死なせてしまえばいい。そう考えて、ステパン・ヴェルホーベンスキーの病死とスタヴローギンの自殺は設定されたのではないかと思う(もちろん、この2人の病死と自殺は当初から設定されていたと思う。ステパン氏はともかく、スタヴローギンの「結末」は自殺以外にあり得ないはずだ。言いたいのは、その死がいかにも物語を終わらせるための登場の仕方であり、唐突な印象を受けるということである)。
 そんな妄想の上にさらに妄想を積み重ねてみる。
 純粋な3人称ではなく話者を介して話が進んでいくこと、足の悪いリーザが出てくること、「悪霊」のチーホンと「カラマーゾフの兄弟」のゾシマの類似性、むくわれない愛の物語であること、どちらの作品にも決闘シーンが出てくること、亀山氏の「『カラマーゾフの兄弟』続編を想像する」に従えばテロによる革命が物語の大きな軸になっていること、殺人が話のポイントになっていること(まあこれは「罪と罰」でも「白痴」でも出てくるが)など、「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」の間には多くの共通項が見つけられる。「カラマーゾフの兄弟」のイヴァンは、「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、「悪霊」のキリーロフと続く系列の人物であることは間違いないが、シガーリョフの「人類の十分の一は、個人の自由と、残りの十分の九に対する無限の権利を享受します。・・・」という発言・思想もまた「カラマーゾフの兄弟」のハイライトをなす「大審問官」の中に流れ込んでいることは明らかである。
 ドストエフスキーは、すべてはスタヴローギンからと創作ノートに書いており、ピョートルもシャートフもキリーロフもスタヴローギンの一種の分身のように解説されることが多いが、かんじんのスタヴローギンの造型がもう1つくっきりとしていないので、あまりうまくいっていないように思われる。何を言いたいかというと、その欠点を払拭するために各々の個性をくっきりさせたうえで「兄弟」としてくくったのが「カラマーゾフの兄弟」なのだと思う。
 ところで、こうした長編は普通3人称で話が進められるのが普通だと思うのだが、「悪霊」では全体が話者(G氏)によるクロニクルの形で語られる。「カラマーゾフの兄弟」では(現存する第1部は13年前の出来事という形で語られていることもあり)あまり違和感はないが、「悪霊」での話者の存在にはやはり違和感がある。そんなことはどこにも書かれていないが、記録として残していくためにいくら後追い取材したところで、その心の中までどうしてわかるのか(書き綴れるのか)不思議である。中には物語の中で死んでいる人物も多く、そうした人間には後追い取材も不可能である。
 そう考えてくると、「話者を介して」というのはやはりドストエフスキーの「隠れ蓑」ではないかと思われる。シベリア流刑にあったドストエフスキーは、その後もずっと当局の監視下にあったはずである。とすれば、いかに悪意に満ちたような戯画化されているとはいえ、革命集団を扱った小説はあまりに「危険」である(作者の頭の中だけに構想があり書かれなかった「カラマーゾフの兄弟」第2部で本当に皇帝暗殺が扱われる予定だったとしたら、これはさらに危険である)。そんな「危険物」の取り扱いを純粋な3人称で書いては、作中人物の発言などすべてが作者の意見ととられかねない。しかし、話者を介すれば、それは作者自身の意見ではなく、作中人物の意見である、と言い逃れができる。何度読んでも私には不自然に思える話者を介しての物語の進行は、ドストエフスキーの当局に対する警戒によるものとしか思えないのだが。
 「悪霊」はあくまで小説であり、その思想を論じるのは自由だが、それはドストエフスキーの思想そのものではなく、小説に登場する人物の思想であることに注意しなければならない。その意味では、いかに登場人物たちが生き生きと描かれているのかが大きなポイントになる。ステパン氏、ワルワーラ夫人、ユーリヤ夫人、レンプケー、レビャートキンそしてロシア5人組の面々など実にうまく描き分けられており、あまりしゃべることのないエルケーリから終盤に出てくる聖書売りのソフィアまでとても印象に残る。
 その意味でも、今回の訳で今までよりもかなりイメージがクリアになったとはいえ、スタヴローギンの造型にはやはり不満が残る。その他の人物では、ピョートル・ヴェルホヴェンスキーの描写がやや薄っぺらで単調な印象を受けた。重要な人物のわりには深みが感じられないのだ。作者の悪意も感じられ、埴谷雄高氏が「ピョートルのような人物こそなんとか救ってやりたい」と自著「死霊」にピョートルに似た首猛夫なる人物を登場させたのもわかるような気がする。が、「白痴」でラゴージンのような人物を見事に描き上げているドストエフスキーである。このピョートルの薄っぺらさは、「私はとんでもない革命なんてものを画策する人物をこんなにも嘲笑してやっていますよ」という当局向けの目くらましのポーズとして、意図的というか、わざと軽薄に描いているとしか思えない。
 以下、思いつくままに妄想メモを。
 いつも思うのだが、ドストエフスキーの作品(とくに後期の作品)は、読んでいると昔習った「過冷却」の現象を連想させる。本来なら結晶化(水なら氷)していてもいい温度で液体を保っている容器をちょんと叩くと一瞬にして全体が結晶化してしまう、あの現象である。人間関係がどんどん緊張感を増し、どうなるのかと読み進んでいくと、誰かの一言、誰かの平手打ちなどにより事態が一気にカタストロフに至る。これは「悪霊」だけでなく「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」にも共通するもので、ドストエフスキーの作風の大きな特徴と言っていいと思う。
 おびただしい人物が登場してくるのだから当然軽重はあるのだが、何度読んでもなんで登場して来たのか皆目わからないのがカルマジーノフなる人物というか文士である。何かいいことを言っているようで実は全く内容がない、といった作者の悪意すら感じられる書き方で(少なくとも私には自称革命家の面々に対する以上の悪意が感じられた)、モデルはツルゲーネフだということらしいが、はっきり言って「嫌がらせ」である。2人の間に何かもめ事でもあったのだろうか? ツルゲーネフを全く読んでいない私には見当もつかない。
 今回読んでみて、意外にもステパン・ヴェルホヴェンスキーとスタヴローギンとが似ていることに気づいた。かつて先生・生徒の関係だっただけでなく、2人はある意味、親子であり兄弟であり表裏でもあり陰陽でもある。2人は何一つとして具体的な何ものかを生み出していないが、生み出していないが故に存在としてのレゾンデートルを作中で問われているのだと思う。ステパン氏は現実の世界で、そしてスタヴローギンは観念の世界で(意味不明で、読者にうまく伝わっていないような気がする。頭の中にはなんとなくイメージがあるのだが、うまく文章化できなくてもどかしい)。「罪と罰」のラスコーリニコフとそのドッペルゲンガーのようなスヴィドリガイロフとの関係のように、ポジとネガの関係だと言えばもう少しわかりやすいか。「罪と罰」ではソーニャによる救済があったが、「悪霊」には救いはない。だから破滅するしかなく、また、相関関係にあるどちらかが単独で存在するということもあり得ない。病死と自殺との違いはあるにせよ、ほとんど時を同じくして2人は死に至るのである。
 キリーロフの自殺、そしてシャートフの殺害あたりが「悪霊」のクライマックスだと思う。いわゆる過冷却の結晶化のシーンである。キリーロフという人物おもしろさについてはすでに別のところにも書いたことがあるので、「一瞬といえども永遠よりも重い」というドストエフスキー作品に共通する思想を具現化した人物と言うにとどめる。そこに、存在の深淵を見て身震いしない人間は鈍感である、と「暴言」ついでにあえて言っておこう。
 そのキリーロフの象徴的な自殺と並んでというか、今回、目から鱗というか、イメージが鮮烈になって驚いたのはシャートフである。米川訳で読んだときは、思想的にはあまり突出したところがないこともあり、何だかぐだぐだ言って殺されていく奴だなぁくらいに思っていたのだが、いやいやシャートフというのは天才の手になる実にすばらしい人物造型である。とくにシャートフの元に妻が戻って来てから彼が惨殺されるまでの間の言動は、結末を知っている私には悲痛極まりなく、本当に胸に迫るものがあった。考えてみれば、ドストエフスキーの処女作は通俗お涙ちょうだい難病悲恋物語の「貧しき人々」だった。もともとそういう通俗的な物語を作る才能のある作家がさらに腕を磨いた末、クライマックスにこういう展開をもってくるなんて、反則だなぁ。読み進むのが次第に悲しくなり、恐ろしくなり、呼び出しに応じるシャートフに対して、本当に「行くな。行っちゃだめだ!」と声をかけてやりたくなった。このイメージ喚起力の半分は、間違いなく亀山訳の功績である。

【おまけ】
★亀山郁夫訳ドストエフスキー「白痴」について
 亀山訳ドストエフスキー「白痴」読了。
 といってもぼんやり読み進んだだけのものなので、評論というようなものではなく単なる感想であることあらかじめお断りしておく。こんな雑文を読んでいる暇があるのなら、1行でも2行でも「白痴」そのものを読んだほうが各人の人生にとってはるかにマシであること言うまでもない。
 4人の主要登場人物のうちムイシュキン(米川)とムイシキン(亀山)、ラゴージン(米川)とロゴージン(亀山)のように名前の読み方がちがうので最初はちょっととまどったが、「カラマーゾフの兄弟」のグルーシェンカ(米川)とグルーシェニカ(亀山)のときと同様、すぐに慣れた。「白痴」については学生時代の平凡社ロシア・ソビエト文学全集、社会人になってからのドストエフスキー全集(いずれも米川正夫訳)に続いて、通読するのは3回目になる。冒頭の一節を比較しただけでもわかるように、米川訳と比べて亀山訳はずっとわかりやすくなっていて、読みやすいドストエフスキーという今までの方針がここでも守られているのが感じられる。対比部分をいくつか載せておく。
★冒頭
・米川訳
「十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜はかろうじて明けはなたれたように思われた。」
・亀山訳
「十一月の終り、寒気も和らぐある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ間を走る鉄道列車が、フルスピードでペテルブルグの町に近づきつつあった。あたりはひどく湿気って朝靄がかかっているため、空はようやく明るみはじめたばかりで・・・(ここで文章が切れずに続く)」
★ムイシュキンの語る死刑囚の話
・米川訳
「もし死ななかったらどうだろう? もし命を取りとめたらどうだろう? それは無限だ! しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ!」
・亀山訳
「もしも死なずにすんだら、どんなだろう! かりに生命を取りもどすことができたら、どんなだろう、----なんという無限か! そのときはすべてが自分のものになるのだ!」
★ナスターシャの死体を前にして
・米川訳
「あれはきみなんだね?」
 あごでカーテンの方をしゃくりながら、やっと彼は言った。
「うん……おれよ……」
 とささやいて、ラゴージンは目を伏せた。
・亀山訳
「あれは、きみなんだね?」
 カーテンのほうを顎でしゃくって、公爵はようやく声を発した。
「あれは、……おれさ……」
 ロゴージンはささやくように答え、うなだれた。
★顛末
・米川訳
「もしシュナイデル博士がスイスから出て来て、もと自分の生徒でもあり患者でもあったこの人を見たら、彼はスイスにおける第一年目の容体を思い出して、またあの時と同じように今も手を振ってこういったに相違ない、----『白痴!』」
・亀山訳
「もしかりに、いまスイスからシュナイダー医師が姿を現し、かつての教え子であり患者である彼の姿を一瞥したなら、公爵がスイスでの治療の一年めにしばしばおちいった状態を思いおこし、当時と同じように手を振ってこう言ったはずである。『白痴だね!』」

 読んだ後、系統立てて整理してみたわけでもチェックしたわけでもないので、とりあえず読み終わっての印象、感想だけを以下思いつくまま書いておく。こんな緩いことを書いていると、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」なんて叱られてしまいそうだが、周囲に迷惑をかけない限りどう生きようがとやかく言われる筋合いはない。生きているということは、生きているというそれ自体に価値があるのだ。大きなお世話、余計なお世話だと言っておこう。
1 全体の印象は同じ
 まあ、同じ原作なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、全4部のうち第1部と第4部は物語が直線的、第2部と第3部は螺旋的という以前からの印象は変わらなかった。ただ、若いころは正直2、3部にはときとして退屈を感じたものだが、今回は普通に読めた。歳をとって、先を急がなくなったのだろうか?
2 イッポリートの告白意味不明
 ドストエフスキーの長編には「告白」が多い。「悪霊」の「スタヴローギンの告白」、「カラマーゾフの兄弟」の「ゾシマ長老の告白」などがその代表だが、いずれも物語と密接な関係をもつ。「スタヴローギンの告白」などなかったらただでさえわかりにくいスタヴローギンの人物像がますますわからなくなって読書断念なんてことにもなりかねない。ところが、この「イッポリートの告白」は(内容自体はよくわかるのだが)なんでこの告白が必要だったのか今回の訳でももう1つよくわからなかった。
3 アグラーヤの印象
 ナスターシャとムイシキン公爵を取り合う形になる3人娘の末っ子美女アグラーヤの印象が以前よりずっと強く感じられた。自分が美人だという自負があり自意識も強いため、ナスターシャと張合うのは、ムイシキン公爵が好きだからというわけではなく、彼女に対する優位性を確認するためだということがよくわかる。私のような凡人にもわかる亀山訳のおかげといえる。
4 ナスターシャの印象
 ふつうに考えて本編のヒロインなのだが、出ている場面の量で比べるとアグラーヤより遥かに少ない。にもかかわらず最初のパーティのときの印象があまりに強いので、物語の背景には常に彼女の影がチラついている。そのため、意外なところで一瞬登場し一言発して消えるだけでもそれ以前のバックグラウンドでの基底音が聞いているのでずっと出ていたような印象を受ける。記憶では登場場面はアグラーヤよりもずっと多い思っていたので、読んでみて意外だった。
5 語り合う夜のシーン
 ナスターシャの遺体を前にしてムイシキンとロゴージンが語り合うシーンは、作者も絶対の自信をもっていたようだし、「白痴」は失敗作だとする評論家もこのラストだけは誉めている。私も異論はない。現実には、深い闇いや漆黒の闇よりまだ深い闇の中でナスターシャの遺体が見えるわけはないのだが、それでも彼女の素足まで認識できる闇の中での会話は異様なほどの現実感をもっている。これは、ここに描かれた不思議な空間は、単なる現実の描写ではなく、一瞬といえども無限に匹敵するとムイシキンに言わせた作者の意図が強く反映されたものなのだろう。こういうシーンを読むと、大げさでなく文学というもののもつ「力」を感じざるを得ない。この部分だけでも「白痴」を読む意味があると言っても過言ではないだろう。
6 ハリネズミの意味
 最後に、亀山・読書ガイドの疑問について書いておこう。このガイドはとても役に立ち「なるほど」と思えるところ多々あるのだが、第4巻の「ハリネズミにとってネズミは格好の獲物」という解説には疑問がある。ハリネズミは、いわゆる食虫類に分類される小型哺乳類で主な食べ物は昆虫やその幼虫、ミミズなど。ペットショップに行くとハリネズミの餌用にはミールワーム(ゴミムシダマシの幼虫)を売っている。生まれたばかりのネズミの赤ちゃんなら食べることがあるかもしれないが、ハリネズミがネズミを食べたという話は聞いたことがないので、この部分の解説はやはり間違いだろう。なぜ仲直りの意味を込めてアグラーヤがムイシキンにハリネズミを送ったのか、私にはよくわからない。

 ところで、次回の亀山訳は「未成年」と予告されている。私は「罪と罰」「白痴』「『悪霊」「カラマーゾフの兄弟」といった4大長編のほか「虐げられた人びと」「伯父様の夢」「ステパンチコヴォ村とその住人」といった比較的長いものも読んでいるが(前2作はつまらなかった。「ステパン」は佳作)、「未成年」だけは冒頭を詠んだだけで、どうしても読み通せないというか読む気がしない。これを読むくらいなら4大長編のどれかをもう1度読んだほうがいいだろうという気になってしまうのだ。はてさて、亀山訳を期にチャレンジしてみるかどうか、全集米川訳での冒頭を今一度読んでみて決めようと思う。
★なお、あまり知られていないが「白痴」はあの黒澤明が松竹で映画化している。その映画の感想を書いたことがあるので、暇な人はこちらをどうぞ。2019-01-08

【おまけのおまけ】
森雅之神演技 黒澤明監督「白痴」
 WOWOWで黒澤明の「白痴」が放送された。今から60年以上も前の作品で、東宝争議のため映画が撮れなかった黒澤が松竹で撮った映画である。原作はドストエフスキー。舞台を北海道に置き換え、登場人物の名前もムイシュキン=亀田欽司などとなっている。
 前後篇計4時間半の予定で撮り進めた作品を松竹の意向で2時間40分にカット。さらなるカットを要求する松竹に対し黒澤が「これ以上切りたければフィルムを縦に切れ」といった話は有名である。そのせいもあってかところどころ流れの悪い部分があり、(多分、カットしすぎて話のつじつまを合わせるため)説明字幕が入ったりもする。クローズアップを多用した構成や、夜の幻想的な雪祭り吹雪のシーンなど見どころも多いのだが、黒澤には珍しいメロドラマ(だから松竹で撮ったということもあると思う)もこれでは興行的にうまくいかなかっただろうと想像できる。
 その中にあってただただ素晴らしいと感心させられるのが、主人公・亀田欽司を演じた森雅之である。
 ついでに言うと、大野綾子(原作アグラーヤ)役の久我美子はなかなか頑張っているものの、那須妙子(原作ナスターシャ)原節子、赤間伝吉(原作ラゴージン)三船敏郎の2人は重要な役にもかかわらず、どうにも影が薄いというか違和感がある。これはシナリオの問題もあるのかしれないが、やはり演技力の問題が大きいのだと思う。大きな動作を伴ったりしない演技が要求されるので、本当の演技力が試されてしまうのである。原、三船は力演かもしれないが、演技が一本調子なのだ。
 で、対照的にますます森雅之のうまさが際立ってしまうわけだ。
 そもそもムイシュキン(亀田欽司)は、ドストエフスキーが「現代のキリスト」を描きたいと思って書いた人物である。それだけで、この役がどれほど難しいか想像がつこうというものである。気の弱い役者なら、こんな難しい役は絶対に引き受けないはずである。それを引き受け、しかも絶妙にこなしてしまう森雅之(作家・有島武郎の息子である)という役者ただ者ではない。動作、顔の表情、しゃべり方などどれもがそれらしく見えるのだからすばらしい。役者というものは恐ろしいと再認識する次第である。
 考えてみれば、黒澤の名作「羅生門」にしても、三船と京マチ子のややオーバーに流れがちな演技をしっかりと受け止めた森の存在があって初めて成立したとも言える。吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」のいわゆる放蕩息子の役もよかった。また、溝口健二監督「雨月物語」については、新藤兼人監督「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」の中で田中絹代がこんなことを語っている。
「(ラスト前の森が戻ってくるとても難しい場面を)撮り終えたときの(溝口)先生の顔といったら、いとも満足、この上もなく満足。初めて役者に対して平伏したという感じでした」
 黒澤明の「白痴」は理不尽なカットがあり、また黒澤自身の力みもあるのだが、退屈な映画ではない。森雅之の演技を見るだけでも十分一見の価値があると言える。
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亀山郁夫訳「罪と罰」雑感 [映画・文学・音楽]

 昨日の「カラマーゾフの兄弟」に続いて「罪と罰」の雑感。同様にごく個人的な「忘備録」なので本日も読者の皆さんはスルー推奨。明日は「悪霊」と「白痴」の忘備録。もう1日ご辛抱くだされ。(^^;
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★亀山郁夫訳「罪と罰」いよいよ発進!(2008.10.19)
 10/19の朝日新聞を見て驚きました。
 光文社古典新訳文庫ドストエフスキーの作品の全面広告です。
 亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」は、ともかく読みやすくて私としては長谷川宏訳のヘーゲルに続く「翻訳革命」だと思っているのですが、今度は同じ訳者でドストエフスキーの「罪と罰」がでました(全3巻のうちの第1巻)。
 個人的には以前、米川正夫訳でよんで今ひとつわかりにくかった「悪霊」の新訳を期待したのですが、営業政策的にはやはり「罪と罰」なんでしょうね。多分、ドストエフスキーの作品ではこれが一番多く読まれているはずです。世界文学の古典と構えなくても、ミステリというか犯罪小説としてもおもしろく読めるはずです。それでいてラスコーリニコフの見る夢の鮮烈さやスヴィドリガイロフの登場や自殺の場面などいかにもドストエフスキーらしい忘れられない印象に残るシーンが多々あります。何度も読んではいますが、私もこの機会に新訳でもう一度読んでみようと思います。
 ただし、トーマスマンの「魔の山」などはゆっくりじっくり読んだほうが味わい深いのですが(私も学生の時の夏休みに1か月半かけて読みました)ドストエフスキーの作品はやはりとぎれなく読みたい。第一巻を読んで次がなかなかでないのは辛いので第二巻が出たあたりで買って読み始めることにします。未読の人には、とりあえず「読むべし」と言っておきましょう(私は別に亀山氏の身内でも光文社の宣伝マンじゃないですよ、念のため)。
 広告によると「カラマーゾフの兄弟」はなんと全5巻累計100万部突破だそうです。
「私達が歴史の大きな流れをすこし注意して眺めてみれば、二十年くらいを周期として、ドストエフスキイ熱とでもいうべき異常な傾倒の時代がやてくるのに気がつきます」と40年前に書いた埴谷雄高の慧眼に今さらながら感心させられます。
 長年慣れ親しんできた米川正夫訳の「罪と罰」の「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた」という書き出しなどほぼ覚えてしまいました。
 人物や街などどうしても米川訳によるイメージが先行してしまうのですが、亀山訳「カラマーゾフの兄弟」には、今まで抱いていた人物イメージが一変するのを感じました。なんといってもあのフョードル・カラマーゾフが55歳で、よぼよぼじいさんのイメージがあったゾシマ長老が65歳とは驚き。米川訳では10〜15歳上のイメージをもっていました。
 さて、今度の訳ではラスコーリニコフはもちろんドーニャやスヴィドリガイロフ、マルメラードフ、ソーニャといった面々がどんなイメージで浮かび上がってくるのか、今から楽しみです。早く第二巻出ませんかねー。


★早く出して欲しい亀山訳「罪と罰」第2巻(2009.02.11)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」が全3巻のうち第1巻が出ただけで、以下がなかなか出ない。「罪と罰」はドストエフスキーの長編の中ではまとまりがよく、そういう意味では一気に読みたい小説である。私自身、高校生のときに河出書房のグリーン版世界文学全集の1巻として読んだときも、米川正夫個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときも、小沼文彦個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときもそういう読み方をしてきた(ちなみに以上は通読したときの話で、米川正夫個人全訳での拾い読み・部分読みは数知れない。ドストエフスキーの「4大長編」(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」)の中で最も読んだ回数が多いのがこの「罪と罰」である)。
 訳者の亀山郁夫氏は同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」で一種の翻訳革命を成し遂げた人で、「カラマーゾフの兄弟」を読んで感動した者としてはすぐにでも読みたい作品である(本当は米川訳でややわかりにくいところがあった「悪霊」の訳出を期待したいのだが、出版社も商売だから作品の知名度からいっても、「カラマーゾフ」の後が「罪と罰」になったことは仕方がない)。
 が、上に書いたように一気に読みたい私としては第1巻が出てもじっと我慢をして第2巻が出るの待った。第2巻が出てしばらくしてから第1巻、第2巻をまとめて買って読み始める。そうすれば、およそ2週間ほどかかって第2巻を読了したころ完結編の第3巻が出る。そうすれば、目出度く?全3巻の一気読みができるだろうという綿密な?計算によるものである。
 ところが、その第2巻が、なかなか出ない。
 亀山郁夫氏は、東京外国語大学の学長でもあるので、学長としての仕事が忙しいからなのだろうか。個人的には学長などという「役人」仕事はさっさと辞め、ドストエフスキー「4大長編」の全訳に取り組んでもらいたいところだが、まあそれは部外者の勝手な要望で、そうもいくまい。
 というわけで、昨年末、まだ第2巻が出ていないのに、ついに我慢できずに第1巻を買ってしまった。できるだけ時間をかけてゆっくりゆっくり読んだのだが、それでも年内に読了してしまった。それなのに、年が改まっても第2巻は出ない。まあ筑摩書房の世界古典文学全集のように4年で完結するはずが何十年もかかるというのよりはマシだとしても、遅すぎる。おかげで、第1巻をもう一度通読するハメになった(ま、これはこれでよかったかな)。が、それも1週間ほどで再読終了。ところが、それでも第2巻は出ない。言葉は悪いが、光文社が潰れたのか、亀山氏に不幸があったのではないかと思えるほどの遅さである。
 この小説が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である。スヴィドリガイロフは後のキリーロフ(「悪霊」)やイヴァン・カラマーゾフに繋がる人物で、ラスコーリニコフがそこまで突き詰めて考えていない心の暗部に光を当てる役目を担っている人物である。またその登場の仕方も素晴らしく、あたかもラスコーリニコフの夢の中から現れたように書かれている。このシーンを読むだけでも、「罪と罰」を読む価値があると言っていい。極論すれば「罪と罰」はスヴィドリガイロフが登場するまでは「よくできた犯罪小説」、彼の登場を待って初めて「世界文学史に残る傑作」になったと言える。彼が登場するのは作品の半ばなので、一刻も早い第2巻の出版が切望される次第である。もちろん、第3巻も続けて出してもらいたい(なんて、こんなローカルなブログに書いたところで、訳者も出版社も見てはいないだろうから、こんなことを言っても意味がないのだろうが(^^*)。
 全体の感想は全巻読了したときにアップするとして、訳者による作品冒頭の違いを書いておく。
★米川正夫訳
「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。」
★亀山郁夫訳
「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方ちかく、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りへ出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。」
 「カラマーゾフ」のときほどの訳による違いはないが、それでも「又借り」しているということはわざわざ断らなくても「借家人」からさらに借りているわけで、「借家人」をすっぱり削除したことによってずいぶん読みやすくなっている。また、ここには引用しないが、老婆殺しの現場からラスコーリニコフが逃れるシーンのイメージ喚起力は明らかに亀山訳のほうがあると思う。ということで、もう一度書いておこう。第2巻、第3巻を早く出せっ!
(という一文を書いて別のブログにアップしたその日の新聞に、「罪と罰」第2巻発売の広告が載った。ま、世の中、こんなものなのかも)


★亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 1(2009.02.15)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」の第2巻がなかなか出ないと文句をたれたその翌日に第2巻が発売された。うれしいことではあるが、この調子では第3巻は4月になりそうなので、少し待ってから買おうかとも思ったのだが、我ながら意志の弱さに呆れるばかりで、実は発売日の翌日に買ってしまった。もちろん、もう読んでしまって、現在、再読中である。
 ドストエフスキーのこの名作のハイライトは世間で言われるようにラスコーリニコフにソーニャが「聖書」を読むシーンでも、老婆殺しのシーンでもなく、スヴィドリガイロフの登場シーンだと私は思っている。「この小説(「罪と罰」)が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である」と前回のブログに書いたのだが、彼の登場シーンこそ、本作のハイライトであるに留まらず、世界文学史上に記憶さるべき名シーンであると言える。
 老婆殺しの後、精神的に不安定なラスコーリニコフは、熱にうなされたように夢を見るのだが、あの埴谷雄高の言葉を借りればこの夢は「現実以上の現実」性をもって読むものに迫ってくる。現実の老婆殺しと、この夢の中での老婆殺しのシーンを比較すれば、夢の中のシーンの方が圧倒的なリアリティーをもって展開されていること明らかである(では、その「現実以上の現実」とはいったい何なのだという問題があるが、ここでは立ち入らない)。そして、まるでその夢の中からこちらの世界にやってきたかのように、それまでドーニャ(ラスコーリニコフの妹。どうしても米川訳で覚えてしまっているのでドーニャと書いてしまうが、亀山訳ではドゥーニャ。ちなみに米川訳ではドストエフスキーではなくドストエーフスキイ)の手紙で名前だけは知らされていた、スヴィドリガイロフが登場してくるのである。夢と現実とをつなぐ小道具としてのハエの使い方も絶品である。
 あまりのすばらしさに私は自分の下手な小説の中に(「カラマーゾフの兄弟」の「若葉」と同じく)取り入れたというか、パクったことがあるが、もちろんうまくはいかなかった。圧倒的なリアリティーをもつ「現実以上の現実」に当たる部分が天才のようには描けないので、「向こう」から「こちら」へやって来るという緊張感がどうしてもうまくでないのだ。
 もう一つ、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの「分身」とも言える存在で、ラスコーリニコフが(深層心理の)明確な思考になっていない暗部に光を当てるという重要な役割を果たしているのだが(第3巻になるが、ラスコーリニコフの「更生」とともに印象的な自殺をする)、それをリアリティーをもって描くのはとてつもなく難しいのだ。トーマスマンの「魔の山」にゼデムブリーニというちょっと世の中を斜に見ているようなおっさんが登場する。そして、その暗部に対応する存在としてナフタという人物が登場するのだが、全く凄みがない。つまり、トーマスマンをもってしてもゼデムブリーニまでが限界で、ナフタ、つまり「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフまではもう一つきちんと描けなかったのではないかと思う。そう考えると、本当にドストエフスキーは、凄い。
 閑話休題。
 その夢からスヴィドリガイロフ登場シーンまでの一部を米川正夫訳と亀山郁夫訳とで比べてみる。
★夢の冒頭
(米川訳)
「たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にさえていた。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。」
(亀山訳)
「すでに夜も深まっていた。闇は色濃く、満月がしだいに明るさを増していった。ところが、空気はなぜか、ことのほか息ぐるしかった」
★夢の中盤
(米川訳)
「部屋は一面、月の光にさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。……大きな銅紅色をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっとなぞをかけてるんだ』」
(亀山訳)
「月の光が部屋いっぱいに皓々とあふれていた。すべてがもとのままだった。……大きくてまるい赤銅色の月が窓からまっすぐのぞきこんでいた。『こんなにひっそりしているのは、月のせいだ』ラスコーリニコフはふとそう考えた。『いまに月がきっと謎をしかけてくるぞ』」
★スヴィドリガイロフ登場
(米川訳)
「自己紹介をお許しください。わたしは、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
(亀山訳)
「アルカージー・スヴィドリガイロフです。どうぞよろしく……」

 両者を比べてみると、亀山訳のほうが(この場面だけに限らず)クリアな翻訳になっていることがわかると思う。ただ、スヴィドリガイロフ登場のシーンだけは、米川訳のほうが皮肉な性格がでているように思える(もっとも、何度も読んで「自己紹介をお許しください……」のくだりを暗記してしまっているためなのかもしれないが)。


★亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 2(2009.02.27)

 今回も私が慣れ親しんできた米川正夫訳(河出書房版「ドストエーフスキイ全集」)と亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)との違いについての雑文(本当にどうでもいいようなことばかりで、結局のところなかなか第3巻が出ないので第2巻を再度読み返したりしているため、ついつい比較してしまうわけである。第3巻が早く出版されることを祈り続ける今日この頃である)。

☆名前
 「カラマーゾフの兄弟」で亀山訳では「グルーシェニカ」となっているのに、米川訳に親しんできたため、どうしても「グルーシェンカ」と読んでしまうということは、以前雑文に書いたが、今回の「罪と罰」でもやはり似たようなことがあった(亀山訳「ドゥーニャ」を「ドーニャ」と読んでしまうと以前書いたのは私の記憶違いで、今回米川訳で確認してみたら米川訳でも「ドゥーニャ」だった。訂正)。ま、どうでもいいようなことなのだが。
亀山訳「マルメラードワ」 米川訳「マルメラードヴァ」
亀山訳「ラズミーヒン」  米川訳「ラズーミヒン」
 と、微妙に違っている。亀山さんには本当に悪いのだが、「ラズミーヒン」と書いてあるのに、どうしても「ラズーミヒン」と読んでしまうのは「グルーシェニカ」「グルーシェンカ」と同じである。
 まあ気にする方がおかしいといえば、おかしいんだろう。そもそも一般にはドストエフスキーなのに、米川訳ではドストエーフスキイなのだから。

☆ラスコーリニコフの一言
 前にソーニャがラスコーリニコフに「聖書」を読んでやるシーンは「罪と罰」のハイライトではないなんて書いたが、ハイライトあるいはクライマックスではないにしても心に残る名シーンであることは間違いない。とりわけ、その直前にラスコーリニコフがソーニャの足に接吻した後の台詞は後々まで記憶に残る名台詞である。
(亀山訳)
「きみにひざまずいたんじゃない。人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」
(米川訳)
「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」
 どちらもリズムのある名訳だと思うのだが、亀山訳では「人間のすべての苦しみ」と「すべて」は「苦しみ」にかかるのだが、米川訳では「人類全体の苦痛(すべての人間の苦痛)」となっていて「すべて」は「人間」にかかっているように読めるのだがどうだろう。まあ、細かいどっちでもいいようなことなのだが、この名台詞は米川訳でほとんど暗記してしまっていたので、ちょっと気になったわけである。それにしても、この2人の場面は若い頃読んだときはちょっとわざとらしくてかったるい感じがしたのだが、歳をとった今読んでみると実に緊張感あふれた名場面である。「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャが大地に接吻するシーンといい、ドストエフスキーは「キス描写の天才」と言っておこう。

☆月刊か定期か
 ラスコーリニコフは、自分が書いた、超人には(意味のある)殺人も許されるというような論文を読んだポルフィーリーから老婆殺しの犯人ではないかと疑われるのだが、そのときのラスコーリニコフの言葉。
(亀山訳)
「……でもそのとき持っていったのは、『週刊言論』紙で、『月刊言論』じゃない」
(米川訳)
「ぼくはそれを、『エジェネジェーリナヤ・レーチ(週刊新聞)』に持って行ったんで、『ベジオジーチェスカヤ・レーチ(定期新聞)』じゃありません」
 ロシア語のわからない人間にとってはエジェだろうがベジオだろうが関係ないので亀山訳のほうがすっきりしていてよほどわかりやすいのだが、「月刊」と「定期」とでは受けるニュアンスが違うのでちょっと気になった次第。ロシア語の全くわからない私は「定期」の「新聞」ということで日刊新聞を想像していた。まあ考えてみれば、日刊新聞にそんな論文が掲載されるなんてことはまずあり得ないのだが、定期ということなら季刊も年刊もある。亀山訳で「月刊」と断定されたおかげで、とてもすっきりした。
 ま、そうしたことより、その論文が(自分が持って行ったのではない別の新聞に掲載されてしまったため)掲載されたことをラスコーリニコフ自身が知らないというあたりに、単に思想的な問題だけでなく、ドストエフスキーのストーリーテラーとしての才能が発揮されている。だから彼の小説は小難しい理屈抜きにしても「おもしろい」。もし、自分の論文が掲載されていることを知っていたらラスコーリニコフは殺人を決行しただろうか。これは亀山氏の解説で初めて知ったのだが、ラスコーリニコフが老婆の妹まで殺すはめになったのも時刻の聞き違いだった。これらは単なる偶然ではなく、何か大きな意思がラスコーリニコフを破滅に向かって進ませたような気すらする。とてもうまい構成だと思う。


★亀山訳「罪と罰」ようやく完結(2009.07.31)

 第2巻がでてから約半年も待たされて、亀山郁夫訳の「罪と罰」(光文社古典新訳文庫)がようやく完結した。いくらなんでも待たせ過ぎだろう。せめてこういうものは最大間を空けても3か月が限度だと思うがどうだろう。ま、私はすでに全集の米川正夫訳で2度(通読)読んでいるので第3巻が出るのを待ったが、初めて「罪と罰」を読む人たちは果たして待ってくれただろうか。少なくとも営業的には大失敗と言わざるを得ない。
 亀山訳はあいかわらず読みやすく、「カラマーゾフの兄弟」のときのような衝撃こそなかったものの、「聞き間違い」「言い間違い」など今まで知らなかった指摘も数多くあり、適度の緊張感を持って読むことができた。人間存在の(覗き込むのが怖いような)深淵を垣間見させてくれる「カラマーゾフの兄弟」と比べるとちょっと落ちるかなという感じがしないでもないが(あくまでドストエフスキーの名作群の中での比較である。勘違いしないように)、作品としてははるかにこちらの方がまとまっている。「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」というドストエフスキーの4大名作への入り口としてこれほどかっこうの作品はないと思う。
 ドストエフスキーは生きるという意味を問い続けた作家だと思うが、それは即この作品のテーマでもあるし、レベジャートニコフなんて人物はもう少しきちんと書いて欲しいところなのだが、しかし、この系列は「悪霊」の面々に直結し、また「カラマーゾフの兄弟」のコーリャなどと通ずるものがある。「地下生活者の手記」がドストエフスキーの転換点だとすれば、この「罪と罰」こそ真の出発点と言えると思う。天才と言われる作家の終着点としてもおかしくない出来にあるこの作品が出発点というところに、ドストエフスキーのすごさがある。
 また、今回読んでいてマルクスの「経済学哲学草稿」がふと思い出されたのも驚きだった。もう何十年も前に読んだ(=何十年も読んでいない[たらーっ(汗)])マルクスのこの「草稿」での、人間は自然との絶えざるフェルケール(交通)の中にある、という一文が思い出されたのである。まさしく人も自然の一部である以上、単独では生きられない。人は人とのそして自然との関係性の中でこそ初めて生きられるのである。自意識が逆転し自分だけが自分1人だけが自分1人で生きていると思うのは実は錯覚に過ぎず、実は死んでいるのである。そして、そうした、関係性の中で生きている以上、どんなに高貴な人間であろうと、ゴミのような人間であろうと、その価値は等価であるというメッセージが込められていること自明である。
 今さら細かい感想を書き連ねても意味がないと思うので、それに関連して一言だけ。
 これは死からの再生の物語である。
 ラスコーリニコフもソーニャも、そしてスヴィドリガイロフも死者である(彼らの住んでいる狭く細い部屋を「棺桶」と喝破した亀山氏はさすがである)。彼らは生きているのだが、実は死んでいるのである。スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの分身であることはよく言われているが、今回読んでみてソーニャもまたラスコーリニコフの分身であるとの印象を強くした。ラスコーリニコフを真ん中に、死の深淵に引きずり込む者としてスヴィドリガイロフが、そして(「ラザロの復活」を持ち出すまでもなく)死から生への復活を信じる者としてソーニャがいるのである。ラスコーリニコフはそのどちらにでも逝く可能性があったのだが、結果としてソーニャの方を向き、復活した。そして、スヴィドリガイロフは「アメリカ」へ逝った。もしラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの方を向いたとしたら、……。我々の生は常にこうした生と死との間を彷徨い、選択を強いられ、どちらにも逝く可能性をはらんでいる。その意味でも、一瞬といえども無限の価値があるというドストエフスキーの価値観を実によく表した名作ということができると思う。
 よく知られていることだが、「罪と罰」は次のような名文でしめくくられている。この部分を読んだだけでも「罪と罰」が死からのよみがえりの物語であることがわかるはずである。
「しかし、もう新しい物語ははじまっている。ひとりの人間が少しずつ更生していく物語、その人間がしだいに生まれかわり、ひとつの世界からほかの世界へ少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語である。これはこれで、新しい物語の主題となるかもしれない---しかし、わたしたちのこの物語は、これでおしまいだ。」
 私が慣れ親しんでいる米川訳も合わせて載せておく。これもまた名訳である。
「しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている---徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移って行き、今までまったく知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しい物語の主題となりうるものであるが、しかし、本編のこの物語はこれでひとまず終わった。」
 「白痴」あるいは「カラマーゾフの兄弟」のラストといい、ドストエフスキーは実にラストのうまい作家だったと思う。
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亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」雑感 [映画・文学・音楽]

 朝から曇ってますねえ・・・。
 このところどうも仕事をする気にもなれず、かといって遊びに出かける気にもなれないということでぐだぐだしていましたが、さすがに今日は少しやらなければならないかな。セミの声もいつの間にか聞かれなくなりました。せっかくなので、秋らしい写真を1枚だけ。
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 本日の「カラマーゾフの兄弟」と明日の「罪と罰」は、以前別のブログに書いたものです。
 ブログに関しては、データは「向こう」のサーバにあり、こちらにはありません。ですから、サーバを運営している会社が「やーめた」となったら一巻の終わり。そんな経験を今まで何度もしてきました。So-netに関しては親会社が「世界のSONY」なので安心していたのですが、突然、So-netが終了し、ssに移行。とくに問題はないようなアナウンスがされていますが、以前やっていたブログでは「安心」のはずの移行先の会社が3年ほどで、突如「やーめた」の終了宣告。
 このブログに関しては、月毎にデータ保存を行っているので万一の場合も最悪データだけは保存されていることになります。で、同じことを、前記別ブログでもやろうとしたのですが、なぜかうまくいかない(^^;。それで、コピペしたものをこのブログにアップしておこうと考えたわけです。要するに「忘備録」です(勘違い変換ミスなどもとくに直してはおりません)。たいしたことは何も書かれていませんが、当人にとっては、こういうものを書いたことがあったという事実が重要なのです。読者のことは、完全に無視しています。写真もありません。本当に個人的なものなので、読者の皆様はパスしてください

★亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」雑感

埴谷雄高・十三年後のアリョーシャが書かれていたら、ほんとうにおもしろいものになったと思いますね。
荒正人・はたして書くことができたでしょうか。
埴谷雄高・ドストエーフスキイが生きていたら、必ず書けたと思いますよ。だいたい「悪霊」とか「カラマーゾフの兄弟」が書けたことがすでに不思議で、そういう不思議を実現し得た作家なら十三年後のアリョーシャが書けるのは当たり前だと思いますね。

 上に引用したのは1963年というから40年以上も昔、「近代文学」の埴谷雄高、荒正人、そして作家の大江健三郎の三人で行った座談会の一部である。今回、何十年かぶりに「カラマーゾフの兄弟」を通読して思ったのは、これだけの作品が前座だとしたらいったい本編(書かれなかった第2部)はどんなものすごいものになったのか、本当に残念な気がする。
 それにしても、未完とはいえ「死霊」でドストエーフスキイが時代の制約から書ききれなかったそこからさらに半歩を踏み出そうとした埴谷雄高である。上の発言は、まさにドストエーフスキイ文学の核心をついた言葉といえる。
 ドストエーフスキイあるいは「カラマーゾフの兄弟」については埴谷雄高のすばらしく魅力的な評論があるし、ロシア語の構造から作品の内容に鋭く迫った江川卓の評論もあるし、亀山氏もNHKブックスで詳細に論じている。おそらくドストエーフスキイに関係する本を積み上げたら1メートルを楽に越えるのではないだろうか。私のような素人がそれらの本以上に付け加えることは何もないので、きちんと知りたい人はそういう本を読んでもらいたい。ここでは光文社文庫・亀山郁夫「カラマーゾフの兄弟」読後の感想を思いつくままに書いていくつもりである。ただ、作者ドストエーフスキイが何をどう意図しようと書かれた作品はそれがすぐれたものであればあるほど作者からは独立した生命をもち、読者の様々な勝手な解釈を許すはずである。そういう前提で勝手なことを書き連ねてみよう。

 「カラマーゾフの兄弟」を最初に通読したのは学生時代のことで、河出書房の世界文学全集(グリーン版)の米川正夫訳の2巻本である。ドストエーフスキイ作品としては同じ米川訳「罪と罰」に続くもので、よくわからないながらもそれなりに熱中して読んだ記憶がある。そうなると四大長編と言われる残りの「白痴」「悪霊」も読んでみたくなるわけで、世界文学全集には入っていなかったため米川正夫個人全訳「ドストエーフスキイ全集」を買うことになった。以来数十年、この全集のすべてを読んだわけでもなくすべてを読むこともないとは思うのだが、時々作品の一部を拾い読みしたり、創作ノートをぺらぺらとめくってみたりすることはある。
 社会人になってから読んだのは、筑摩書房からこれも個人全訳「ドストエーフスキイ全集」を出している小沼文彦訳の「カラマーゾフの兄弟」を駆け足読みしたことがある(図書館で借りたもので仕事の合間に読む形になるため時間が足りなくて一部ぱらぱら読みになるのである。ロシア語は全くわからないので「感じ」で言うと原文にできるだけ忠実に訳したのか、ちょっとくどい感じがして生理的には米川訳のほうが私には合った)。今度の亀山訳「カラマーゾフの兄弟」が3回目の通読になる。駆け足読みではなく、一応はきちんと読んだつもりである(翻訳については最後に書く)。
 読後最初の感想は、自分の頭の中の「カラマーゾフの兄弟」は長年の間にずいぶん自己流に改編していたんだなあ、ということである。
 一二例をあげると、あまりにも有名な「大審問官」はもっと長いと思っていたらそうでもなく、また父親フョードル・カラマーゾフが殺されるのはもっと後半だと思っていたので第3巻の半ばで殺されたときは、ええっ?と思い昔の米川訳と比較したほどである。もちろん今度の亀山訳が途中を短縮したわけではなく、私の記憶違いである。

 ドストエーフスキイの作品では、基底音として神の問題が扱われる。神は存在するのか否か。存在すると断言できる人は幸せである。が、そういう人も話を聞いてみると根拠があるわけではなく「信仰」ということで話が終わってしまう。そこに全く懐疑はないのか、神が存在しなければ死後の世界もなく死ねば自己が完全な無に解消してしまうのを恐れるあまり在ると思いたいだけではないのか。存在しない、あるいはそんなことはどうでもいいと言う人も、ただ死というものを直視したくないための結論付けで思考を停止しているのではないのか。
 だから、というわけでもないがドストエーフスキイにおける「神」の問題は、邪道を承知で言えば、私は人間の「存在」に置き換えて読んでいる。つまり、限りある生しかもたない人間にとって絶対的なもの永遠なるものが存在するのか否かの問題として読んでいるわけである。もちろん深く考える力もないのだから結論が出るはずもなく、そうしたものの間を揺れ動いているのが我々凡人なのだろうと途中で投げ出してしまうのだが。ところが、ドストエーフスキイ作品の登場人物はそれを極限まで突き詰めてしまうのだ。
 たとえば「悪霊」に出てくるキリーロフの論理。神はいない。しかし、神は必要だ。従って、人間が神になるしかない。その精神的肉体的変化に人間は耐えられるだろうか。そんな極論のあと人間の自由意思の証としてキリーロフはきわめて象徴的な自殺を遂げる。「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、「悪霊」のキリーロフあるいはスタヴローギンの延長線上にあるイワン・カラマーゾフは、神はいない、だからすべては許されているとちょっとハッタリ気味に宣言する。
 「罪と罰」におけるラスコーリニコフの老婆姉妹殺し、スビドリガイロフの自殺、「白痴」におけるラゴージンのナスターシャ殺し、「悪霊」におけるピョートルらのシャートフ殺し、キリーロフ、スタヴローギンの自殺、そして「カラマーゾフの兄弟」における父親殺しとスメルジャコフの自殺。
 こうしてみてくるとドストエーフスキイの作品においては殺人と自殺が大きなキーポイントになっていることがわかる。と同時にこの殺人と自殺が「すべては許されている」論理から必然的に導き出される神への挑戦であることも。もう少し補足すると、現実の社会での自殺は、自己の完全なる消滅という考えではなく、死ねば形が変わった生が存在するという錯覚から行われることが多いと思う(「あの世で一緒になる」などという心中がその典型。このような考えが願望に過ぎないことは学生時代に読んだ波多野精一「時と永遠」で学んだ)。が、ドストエーフスキイの作品にあっては、登場人物の自殺はそうした俗論ではなく、自由意思の行使であり、神への挑戦であるという点で大きく異なっている。
 イワンが作った劇詩「大審問官」では神はいないのだから「すべては許されている」という論理はさらに飛躍してこういう結論になる。
「人間は神を望んでいない。いや、現実の生活においてむしろ神の存在は邪魔である(必要なのは、むしろ「悪魔」である)」
(この問題は終盤、熱に浮かされたイワンと「悪魔」との対話でもう一度別の角度から問題にされる。死後の世界を否定していた人間が死んだら死後の世界があってという逸話は秀逸である。)
 この「大審問官」の論理に対抗するためにドストエーフスキイは長いゾシマ長老の話を書く。この話もなかなかにおもしろく、特に若いころゾシマを尋ねてきた謎の男の話など興味津々なのだが、しかし私が読んだ感じではイワンの否定する力に及んでいないと思う。
ついでに今回初めて少し不思議に思ったこと。
 カラマーゾフの父親フョードル・カラマーゾフ殺しがドストエーフスキイの父親が農奴に殺されたこととどう関連しているのかということについてはそれこそ万と書物があるのだが、今回、作品の大きなテーマの1つである「父親殺し」が妙にあっさりしたものである印象を受けた。あまり評判のよろしくない人物だったので周囲の人間やドミトリー、イワンがとくに感慨をもたないのは理解できる。しかし、もう1人の父親というべきゾシマ長老の死にはあれほど大きな衝撃を受けた(聖人の墓の上に座り込むほどの狼狽ぶりというか衝撃を受けたのだ)そのアリョーシャまでもが淡々としているのはどういうことなのだろう? 第4編は2か月後とはいえ、アリョーシャを含めてフョードル・カラマーゾフの死(惨殺!)を惜しむ人間は1人もいない。不思議だ。

 これはドストエーフスキイ論でも「カラマーゾフの兄弟」論でもない、あくまでも「雑感」なので、思いつくまま書いていく。
 ドストエーフスキイの作品で大きな役割をもつものにドッペルゲンガー(分身)がある。彼らは当人が無自覚だった部分にも照明を当て、さらにそれを極限まで拡大して見せてくれる。こうした分身の登場のおかげでドストエーフスキイの作品は深みを増し、文字通りの「巨大作」になったのだと思う。
 すぐに思い浮かぶのが、「罪と罰」におけるラスコーリニコフに対するスヴィドリガイロフ。「悪霊」におけるスタヴローギンから派生したピョートル、シャートフ、キリーロフ。そして「カラマーゾフの兄弟」ではイワンに対するスメルジャコフ。
 これらの中で最も印象に残るのは、やはりスヴィドリガイロフ。すでに妹ドーニャからその名前は知らされているのだが、ラスコーリニコフがうなされるように見る夢というにはあまりにリアリティのありすぎる夢(老婆殺しを再現する夢なのだが実際の老婆殺しのシーンよりはるかにリアリティーがある)、まるで現実以上の現実感をもつその夢の中からやって来るようにスヴィドリガイロフは登場する。鮮やかと言うしかない。この登場のさせかたがあまりに魅力的なので私も自分の下手な創作の中でパクッてみたが、当然のようにうまくはいかなかった。残念、というか己を知らないというか……(^^;;。
 「悪霊」のキリーロフも先に書いたように人から神への理論を具体化したような徒花で印象に残る。これらの分身と比べると残念ながらスメルジャコフは魅力という点では一段落ちると言わざるを得ない。もちろんドストエーフスキイもそのことに気づいていたに違いない。後段、熱に浮かされたイワンの前に現れる「悪魔」は、その不足部分を補うために登場させたのではないかと思う。「あの世」はないと信じていた無神論者が死んだら「あの世」があり……という、悪魔が語るエピソードは「大審問官」の裏返しでもあって実におもしろいのだが、スメルジャコフの人物設定から言ってスメルジャコフに語らせるには無理があったのだろう。

 今回読んでみて、以前読んだ時には全く気づかなかったことの一つに、ドミトリーは現代のキリストになり得るのかという問題提起の発見があった(と私は勝手に思っている)。無実の罪でシベリア送りになるドミトリーの姿には人類の原罪を背負って十字架にかかった(とされる)キリストの姿がオーバーラップせざるを得ない。が、もちろんキリストにはなれるはずがない。作品ではエピローグでドミトリーの脱走計画の話が出て途中で終わっているが、だとすれば脱走は失敗するのか成功するのか、あるいはドミトリーが脱走そのものを拒否するのか。しかし、やってもいない父親殺しの罪を背負ってシベリアへ行くとすると刑期は20年と書かれているの。とすると「第2」の小説の舞台は13年後なのでこれでは間に合わない、というかドミトリーは登場できない(それともアリョーシャ、グルーシェンカといった人物がシベリアへ尋ねていくような設定が考えられていたのだろうか?)。
 また、熱病で死にそうなイワンはそのまま死んでしまうのか、あるいは治るのか。もしドミトリーが服役したままで、イワンが死んでしまうと仮定すると第2の小説はアリョーシャ1人になってしまい「カラマーゾフの兄弟」という題名そのものが成り立たなくなってしまう。ところが第2の小説はそもそ「カラマーゾフの兄弟」という題名ではないという説もあるようで、真相は永遠にわからないのだが、その意味でも第2の小説が書かれなかったのは惜しんでも余りある。

 もう一つ、以前読んだときには横道にそれるようで少々退屈したのだが、少年たちが実に魅力的に描かれていることも新しい発見だった。スネギリョフの息子で亡くなるイリューシャなどこの子中心の話だけでも一編の長編小説ができるほどである。コーリャやトロイの少年などももちろん印象に残る。
 ドストエーフスキイの構想では現在の「カラマーゾフの兄弟」は第1の小説であり、繰り返すがより重要な第2の小説は第1の小説の13年後ということになっている。とすればこの少年たちはそのころには26歳前後になっているわけで、導入として少年たちを数多く登場させているのは当然のことだが、とくに自ら「社会主義者」と言うコーリャがかなり重要な人物として登場してくるだろうことは容易に想像できる。あとアリーシャに対して勝手に婚約を宣言しこれまたすぐに婚約解消を宣言した「足の悪い」リーザも14歳なので第2の小説ではこれまた重要な人物となることまず間違いない。

 ……と、まあいろいろぐだぐだ書いてきたが、第2編の兄弟の接近から第3編のドミトリーの逮捕までは実に息も切らせぬおもしろさで、読みながら自由にあれこれ考えながらどんどん読み進むことができる。以前読んだときにはやや退屈に思えたゾシマ長老のところもそれなりの興味をもって読むことができた。思想的にイワンの「大審問官」には及ばないと思うものの、それは比較の問題であってこのゾシマの回顧だけでも十分一流の小説として成立する。若きゾシマの所に毎日尋ねてくる謎の紳士などサスペンスも上々である。しかもかつて人を殺しそのことを長年悩み告白した後に死んでいくというこの紳士の姿は実はスメルジャコフの殺人の後押しをし法廷で告白した後熱病で精神的にもおかしくなってしまうイワンの姿とオーバーラップしてくる。さらに言えば「すべてが許されて」いたとしてもそれを自覚している人間は殺人や子どもの虐待などはせず、別の言い方をすれば、それを実行してしまった人間はその重みに耐えられないのではないのか、という作者のメッセージも当然のように込められている。このようにドストエーフスキイの作品はとても一筋縄ではいかない。こうだと思っても別の場面でいやいやこうも言えますよと作者は別の答えも用意している。このことが何度読んでもおもしろいという古典の奥深さ、多面性を端的に表していると言えるだろう。
 ただし(これは私の読み方が浅いせいなのだろうが)これほどの名作でも第4編は「イワン」の部分はともかく、それに続く「誤審」は私にはかなりの程度に退屈だった。とくにイッポリート検事の論告は読み続けるのすらちょっと辛い。この若き検事は上昇志向の強い男だけにおそらく第2の小説でアリョーシャがかかわる事件にまた登場してくることを見込んでのことなのだろうが、それでも今の形で読み通すにはかなりの努力がいる。13年後の第2の小説を読むとおそらくこの退屈な部分すら、ああそうだったのかと違う感想をもつと思われるだけに、繰り返しになるが第2の小説が書かれなかったことが惜しまれる。

 最後に、翻訳について少々。翻訳はかつて私が読んだ米川正夫、小沼文彦訳と比べて格段に読みやすい。以前、別ブログに、

 とくに今回驚いたのは『老人』たちの年齢。かつての米川訳では(もちろんちゃんと年齢は明記してあるのですが)ゾシマ長老は80歳くらい、父親のフョードル・カラマーゾフは70歳くらいのイメージでした。ところが作品の中で設定された年齢はゾシマ長老が65歳、フョードルに至っては何と55歳という『若さ』だったのです。もちろん私が誤解していたわけなのですが、しかし翻訳の口調が何となくそんな感じなんですね。
 たとえば米川訳でゾシマ長老が、
『どうすればよいか、自分でとうからごぞんじじゃ。あなたには分別は十分ありますでな』
 と言う部分は亀山訳では、
『どうしたらよいかは、とうの昔からご存知のはずです。あなたは、十分に分別をおもちでいらっしゃる』
 となっています。ロシア語が全くわからない私には翻訳の当否を云々する資格はありませんが、亀山訳では老人たちが15歳ほど若返り実年齢に近くなったような気がします。」

 というようなことを書いた。
 65歳どころか70歳の老人でも「ごぞんじじゃ」なんて言う人は今ではいない。少なくとも私は聞いたことがない。
 もう一つ例をあげておく。ホラコーワ夫人がドミートリー・カラマーゾフに金を貸したことがないということを書いたメモは米川訳では、
「……三千ルーブリの金を与えることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし!世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なることを誓う」
 となっている。一方、亀山訳では、
「……三千ルーブルを貸した事実は絶対にありません。それに、ほかにどんなお金も貸したことはありません!世界の聖なるものすべてにかけてこれを誓います」
 この部分を見ただけでも(寝ころんでテレビを見ながら読めるしいうようなことはないにしても)ずいぶん読みやすくなっているのがわかると思う。前の翻訳を参考にできるという「後出しじゃんけん」のようなところがあるにせよ、これは長谷川宏訳のヘーゲルに次ぐ一種の翻訳革命と言っていいのではないかと思う(ま、そう断言できるほど本を読んでいるわけではないが)。
 ただ「大審問官」の中の一節などは「一日が過ぎ、暗くて暑く『物音ひとつない』セヴィリアの夜が訪れてくる」という亀山訳よりも「一日も過ぎて、暗く暑い『死せるがごときセヴィリアの夜』が訪れた」という多少文語的な米川訳の方が私にはぴったりきた(何度も読んだことによるイメージの固定ということは無論ある)。第9編第6章などの章タイトルなども米川訳「袋のねずみ」のほうが説明的な亀山訳「検事はミーチャを追い込んだ」よりぴったりくる(原文はどうなっているのかは知らないが)。あと、細かいことでは「餓鬼」に「がきんこ」とルビがふられているのがちょっと気にはなった。もちろんもともとの餓鬼とは餓鬼道に堕ち常に餓えに苦しんでいるもののことでそこに子どもの意味はないが、普通に子どものことを餓鬼ということもあるのでわざわざ「がきんこ」と読ませなくてもよかったのではないのか。
 「白痴」のナスターシャの系列のなかなか魅力的に描かれているグルーシェンカ(米川訳)が亀山訳ではグルーシェニカになっているのには最初かなりとまどった。長年読んだ癖と「ン」と「ニ」が何となく似ていることもあり、多分グルーシェニカの方が原語の発音に近いのだろうが、どうしてもグルーシェンカと読んでしまうのだ。途中からは諦めてグルーシェンカで読んでいってしまったが、この点に関してはせっかく画期的な翻訳をしてくれた亀山郁夫氏にあやまらなければならない。m(__)m

 ところで、「カラマーゾフの兄弟」第五篇第一章で、ホフラコーヴァ夫人がリーザの言葉として「あの松を夢のように覚えている」なんて変なことを言うんです、と語るところがある。米川によればロシア語の「松を」と「夢で」は語呂合わせ(要するにダジャレね)になっているのだそうだ。もちろん、注記で「これは一種の語呂合わせ」とすることもできる。亀山郁夫訳ではこの部分は「松の木(サスナー)を、夢で(サスナー)」と訳したものにルビをふっている。これはこれで、私のような凡庸な読者にも語呂合わせなんだなと読者にもわかる。
 では、米川正夫は、これをどう訳したか。
「梅を夢のように」
 と、訳している。なんと、松を梅に替えてしまっているのだ。試験の問題なら松と梅を「間違えて」いるのだから、これは零点だろう。しかし、文学作品の翻訳としては、これはもう100点満点の120点と言っていい。何よりも、松を梅に替えたことにより、日本語としての語呂合わせが成立しているのだ。見事と言うしかない。これぞ翻訳の真髄だろう。誤訳だ、冒涜だと騒ぐ研究者たちは、それこそロシア語の原文を読めばいいのだ。どうせなら亀山訳もそこまで踏み込んでもらいたかった、というのはもちろん読者の勝手な無い物ねだりである。


★「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」で空想する
 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」という光文社新書が出ていた。著者は光文社古典新訳文庫で先日『カラマーゾフの兄弟』の全訳を完成した亀山郁夫氏。となると、読了したものとしてはやはり気になる。買わないわけにはいかない。
 アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)を主人公にした作品は二つの小説に分かれ、そのうちの「第1の小説」が「13年前のアリョーシャ」の身の上に起こった出来事を書いた現行の『カラマーゾフの兄弟』であり、ドストエーフスキイの死により「第2の小説」は全く書かれずに終わったことは広く知られている。
 もちろん「第1の小説」だけでも世界に冠たる古典であることは疑いない。私自身この長編を3回も、それも3人の訳者のものを通読しているわけで、こんなことは他の小説にはない。そして、この「第1の小説」はそれなりに一つのまとまった作品として読めるのだが、第4部やエピローグに登場してくる多くの意味ありげな少年たちを考えるといやでも彼らは「第2の小説」ではどういう役割を果たしたのだろう、と空想せざるを得ない(とくにコーリャ)。アリーシャとの婚約を一方的に宣言しまた一方的に破棄した14歳のリーザ、カテリーナとグルーシェンカの2人の女性、そして病にかかったイワンと脱走計画もあるドミートリイの兄弟についても決着はついていない。これまた気になるところである。
 亀山訳『カラマーゾフの兄弟』は5巻合わせて40万部も売れたそうで、全巻買った人は40万/5=8万の半分とみて4万。通読した人はその半分の2万。しかし『カラマーゾフの兄弟』は何も亀山訳だけでなく米川、小沼、江川といろいろな訳が出ているわけで通読した人は少なく見積もってもその10倍はいる。つまり最低でも20万人が『カラマーゾフの兄弟』を通読しているのである。通読すれば私が言ったような登場人物のその後が気にかかるはずである。
 そして、私の知るかぎりでは「第2の小説」についてわかりやすく論じた本は今まで皆無。とすれば通読している20万人の1割、つまり2万人はこの本を買うに違いない。そう考えた光文社新書の編集者には「あっぱれ!」を差し上げたい。まあ後書きを読むと企画提案は亀山氏のほうからされたようで、本当に「あっぱれ」な商売人は氏自身なのだが(←悪い意味で言っているのではない。長年出版に関係してきた者として断言するが、出版社にとって「いい本とは売れる本」のことである)。
 この種の本は正解があるわけではないので(正解は作者しか知らない)何が正しいかではなく、残された手がかりからどんなことが考えられるか、その空想された話が「第1の小説」あるいはそれまでのドストエーフスキイの小説と照らし合わせて説得力を持つのかどうかということに尽きる。エチケットとして、この本でどんな空想が語られているのかは書かないが、私の考えと感想を二つだけ。
 亀山氏はドミートリイとイワンについては「第1の小説」で終わっており、話には出てくるにしてもサイドストーリーのようなものになると考えているようだ。が、果たしてそうか。ドミートリイの脱走計画が「誤審」が終わった後の最終章にある意味唐突な感じで出てきたこと、そこでのカテリーナとグルーシェンカの2回目の鞘当て等を思うと、別に二度あることは三度あるなんてことは言わないにしても、ここまで何だかんだとあって未完ということは単なるサイドストーリーには終わらない「第2の小説」への重要な伏線のような気もするのだが。
 もう一つ。「第2の小説」の小説の亀山タイトル案『カラマーゾフの子どもたち』というのはありそうでいて実に魅力的な題名だと思った。「第1の小説」を想起させるタイトルであるばかりでなく、その後のアリョーシャと子どもたちとの関係を暗示し、さらに神(父)と人間(子)の関係までをも内包していて、見事である。

 いずれにしても絶対に書かれることのない、つまりは正解のないものについてこれだけあれこれ語れるのはドストエーフスキイ作品のもつ深みにちがいない。


★「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」の余白に
 光文社新書・亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」を読んでの雑感はすでに「〜空想するを空想する」に書いた。これは前半部で、その続きを次に載せようと書き始めてはいたのだが仕事の方が忙しく放置していたところ、思いもかけず著者・亀山氏からコメントをいただいてしまった。で、慌ててアップする次第である。と言ってもたいしたことが書いてあるわけではない。暇な人だけどうぞ。

 この本を読むまで私が全く考えていなかったというか私の「空想」から完全に欠落していたもの、それはドストエーフスキイの生きた時代と作家自身が置かれた状況ということである。
 ドストエーフスキイの作品を読むと、老婆を殺したラスコーリニコフの夢の中からやって来るようなスヴィドリガイロフ、「ある瞬間があるのだ」と印象的な自殺を遂げるキリーロフ、そして人間の存在と自由について劇詩「大審問官」を語るイワン・カラマーゾフ……、こういった人物の印象がどうしても先行しがちであり、また印象に残る。これらはある意味歴史貫通的な事象なのでついついそういうイメージで見てしまいがちだが、しかし生身の作家としてのドストエーフスキイも、そして彼の書いた作品もまた時代の制約から自由だったわけではない。
 この当たり前のことが時代を超越しているようにも見えるドストエーフスキイの作品を読んでいると見落とされてしまい、本書で指摘されるまで私の視野からも完全に消えてしまっていた。

 昔買った米川正夫個人全訳の「ドストエーフスキイ全集」には別巻としてドストエーフスキイの生涯+作品研究がついていたのだが、「そんなの関係ねー」と読んでいなかった私は、ドストエーフスキイが終生警察の監視下に置かれていたなんてことは「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」を読むまで知らなかった。そうした当局の監視をいかに騙し、いかにくぐり抜けて己の構想を実現させるのか。ドストエーフスキイのわかりにくいところは実はそうした部分に負うところが大きいのかもしれない。シェイクスピアの有名な作品の台詞ではないが「無知というのは致命的」である(^^;;。
 少なくとも「当局の監視下にある」ということが明らかに作品に影響を与えている、というか与えないわけはないという点をくっきりと指摘してくれただけでも目から鱗である。ドストエーフスキイという作家の生活というとバクチ狂いで有り金全部使ってしまい、借金返済のために作品を書き続けたという従来のイメージは、もしかすると当局の目をくらませるための演技も入っていたのではと考え出すとなかなかに興味津々なところがある。

 昔々のその昔、まだ若かりしころの私が『罪と罰』を読んでいたら母親が、「それ学生が老婆を殺す話だよね」と話してきて、聞いてみたら昔読んだというので驚いたことがある。今にして思えば当時の母親はまだ40代そこそこ。『罪と罰』を読んでいたところで別に驚くことではないが、母親が世界文学なんぞ読むはずがないという先入観があったそのころにはけっこうな驚きだった。老婆を殺したラスコーリニコフが次第に追いつめられていくミステリとして読んだようだが、それも一つの読み方として間違っているわけではない(昔読んだミステリベスト10で『罪と罰』やポーの『メエルシュトロウムの大渦』を選んだ人がいた。あの江戸川乱歩も『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の回顧の中にでてくる「謎の紳士」をスリルの一つの典型として読んでいる)。
 ドストエーフスキイの作品にはやたらと殺人や自殺が出てくるが、単に存在や自由といった形而上の意味だけではなく、ドストエーフスキイ自身実は無類のミステリ好きだったのではないかと思う。でなければあんなにゾクゾクするようなストーリー展開ができるはずがない。また『悪霊』のキリーロフの思想などニーチェを通り越して一種SFとしても通用する。今でいうSF的なものにも興味があったに違いない。現に『鰐』という奇妙な短編はSFとはいえないまでもファンタジーとして立派に通用する。
 まあ私も若いころはミステリ好きで、エラリー・クイーンの「ドルリー・レーン4部作」やクリスティー、ウールリッチをはじめ日本のものでは「江戸川乱歩全集」「横溝正史全集」などひところかなりミステリを読んだ。と同時にクラーク、アシモフ、ブラッドベリ、レム、ディックといったSFも。そんな流れの中で「難解」と言われる(実はそうでもないのだが。私にとってはビュトールやロブグリエなどアンチロマンの作品の方がはるかに難解で手に負えなかった。これは映画だがロブグリエ原作の「去年マリエンバートで」は私の理解不能映画NO.1である(^^;;)ドストエーフスキイの作品も表面だけとはいえ比較的すんなりと読み進むことができたのではないかと思う。
 なぜこんなことを言うのかというと、著者の亀山郁夫氏ももしかするとミステリ、SF好きなのではという気がするからである。そうでなければ『カラマーゾフの兄弟』の構造分析をし、その先の「第2の小説」について簡単に触れることはあっても、「第1の小説」に残されたわずかな手がかりから「推理」を重ねて「第2の小説」を「空想」するなどということはないはずである。
 ということでそういう著者が書いた「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」は異色のミステリ・エッセイ、謎解きエッセイとしてもおもしろく読めるのである。
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今年も秋の七草 [植物]

 1日1日、口だけのやってる感の演出、憲法違反の集団的自衛権、森友隠し、加計隠し、桜隠し、アベノマスク配布に全力を尽くしたんだそうです。首相任期記録更新とともに政権を放り出すほど体調が悪いようなので、政界を完全に引退してくだされ。大丈夫、安心してください。あんたの名前は憲法違反総理、嘘つき総理、そしてアベノマスク総理の三冠王としてまちがいなく歴史に残りますから。(^-^)
https://news.yahoo.co.jp/articles/00a26ae931eaecea407f1a576650a8204a29cf31

 このブログではもう何回もやっていますが、「秋宣言」をした手前、今年も「秋の七草展」をやっておきましょう。
 秋の七草は「万葉集」にある山上憶良の歌がもとだというようなことを聞いたような薄らとした記憶がありますが(書き方を見ればおわかりのように、ボケで記憶もぼんやり)、確か憶良の歌では朝顔になっていて桔梗ではなく何なんだ?と思ったさらにぼんやりとした記憶も。いずれにしても春の七草とちがって秋の七草は食べられないせいか知名度は今ひとつですね(あくまで個人の感想です[たらーっ(汗)])。
↓オバナ(ススキ)
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↓オミナエシ
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↓キキョウ
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↓クズ
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↓ナデシコ(カワラナデシコ)
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↓ハギ
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↓フジバカマ
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SKさんから1枚の写真 [投稿写真・原稿]

 自民党総裁は予想通りスガちゃんに決まりましたねえ。森友も加計も桜もすべて調査済みってことで、安倍ちゃまの姿が前面から消えたこと以外に何か変わるんでしょうかね(さらに悪い方向に変わっていったりして(^^;)?

 私の周囲で唯一「オリンパス」ユーザーのSKさんから写真が届きました。何を撮ったんだろうとしばし写真を見て・・・おおっ![わーい(嬉しい顔)]
 写真の中に何がいるか、みなさんには、わかりますか?
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今日から「秋」と決めました [日記・雑感]

 夜になって窓を開けると、涼しい風がさーっと入って来ます。その風に乗って虫の音が聞こえます。やっぱ秋ですねえ。・・・なんて思っていたら、芦名星さんが亡くなったという突然のニュースが。まさか、自殺?

 依然として蒸す感じは続いていますが、気持ちを切り替え、今日から秋ということにして生活することに決めました。せっかくの「実りの秋」ですから、とりあえずうまいものを食べたいですね[るんるん]
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そろそろ秋の長雨? [日記・雑感]

 本日、薄日が差していて、どうやら夕方まではこんな感じなのかも。ヨシヨシ。ただ、夕方からは傘マークのよそうが・・・。いずれにしても、のんびりすることにします。(^-^)

 昨日(9/12)は、1日雨でした。ただ、湿度はけっこう高くて蒸すので、エアコンは冷房からドライに切り替えて継続運転。そろそろ秋の長雨に入ってしまうんですかねえ・・・?
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♀はいつでも歓迎される SH [鳥以外も撮る SH]

 SHさんからの写真。相変わらず昆虫撮りに東奔西走しているようですねー。私は、暇さえあれば整骨院(といっても、週2回行けたらいいほうですが(^^;)。少なくとも行った日は、体が楽になります。
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 ハギの花が咲きキタキチョウが発生しています。
 そこでおかしなものを発見、キタキチョウが集まっています。よく見ると羽化が近いサナギに成虫がとまっているのです。どうも♀の蛹に♂が集まって羽化するのを待っているようです。2頭がとまっていてもう一頭が割り込もうとするのですが追い払われています。たぶんフェロモン出しているのと同時に色(紫外線反射)で蛹の♂か♀を見分けているのでしょう。翌日覗いてみるとみごとにカップルが成立していました。
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恵比寿事務所撤退 [日記・雑感]

 この度、恵比寿事務所を閉鎖・撤退しました。
 コロナの影響が全くないわけでもないのですが、入っていたビルが11月いっぱいで取り壊しになるというのが最大の理由です。なんだかんだで20年も通った所なので、一抹の寂しさもありますが、これも時の流れです。かといって、新規に保証金を出して事務所を借りるというのも、歳が歳ですから無理はしたくない。
 これからの仕事は、知っている人間からの依頼で、それなりにおもしろそうなものだけにとどめて、まあのんびりやっていきます(今現在ひっかかっている2件の仕事については責任をもってフィニッシュまでやりますので関係者はご安心を[わーい(嬉しい顔)])。
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アゲハは、バカか(^^; [昆虫など]

 ベランダのユズとキンカンの葉がアゲハの幼虫に食べ尽くされてしまったという話はすでに書きました。それでも健気なもので、新芽、若葉が少しずつ・・・と思っていたら大発見。またしてもアゲハが卵を産んでいったようです。現在の新芽、若葉の様子を見たらとても蛹になるまでの食糧をまかないきれないことは、明らか。それでも産卵してしまうのは、柑橘類を見つけたら産め、という本能スイッチが入るのでしょうか?
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秋はまだか・・・(^^; [日記・雑感]

 昨日は恒例?の整骨院に行き、そのあと喫煙喫茶でのんびり。昭和の雰囲気のある喫茶店でとても落ち着け、タバコも吸えて[るんるん]いいのですが、ここのおばさん、何を勘違いしたのか私のことを「先生」と呼ぶので困ってしまいます[あせあせ(飛び散る汗)]。夜、久しぶりに見たスマホの歩数計は3188歩。1日5000歩というのは、難しいものですなぁ[バッド(下向き矢印)]

 もう9月も半ばになろうとしているのに依然として暑い日が続いています。年寄りにはたまりませんなあ。ふう・・・早く秋にならないかなあ(秋になった途端、秋の長雨になり、あれれれれと言っているうちに冬になってしまう[がく~(落胆した顔)]という悪い予感がしています)[たらーっ(汗)]
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映画オールタイム・ベスト10 [映画・文学・音楽]

 なんでもベスト10が好きなのは映画とミステリなんだそうだ。
 言われてみれば確かに昔から盛んである(強いて上げれば、あとSFだがベスト10好きのランクで言えば2ランクほど落ちる)。ただ、これはすでに何度も書いていることなのだが、多くの人の評価の平均というのは、あまり参考にはならない。というのも、「まあ話題になった映画でもあるし、ベスト10の10位くらいに入れておくか」という人が多ければ結果としてその作品が上位にきたりすることもあるわけだ。「他の評論家が1位に押しているかもしれないし、そんな作品を自分が無視していたことになるとマズイ」なんて自己保身が働いていることも大いに考えられる。
 ほとんどのベスト10が1位10点、10位1点の計算なので、しっかり見て考えた何人かが1位に推した作品より、適当に見た(私のこのカテゴリ(^^;)多くの人が5、6位に推した作品のほうが上位に来るなんてことはざらにある。
 ベスト10なんてものは所詮その程度の適当なものだということがわかっていたからこそ、昔、双葉十三郎さんは、ヒッチコックの「鳥」を1位に推したとき、
「えっ、『鳥』が1位ですか?」
と訊かれてこう答えたのだ。
「まあ、1位という感じの作品じゃないんだけどね、少し順位を上げたかったから」
 さすが双葉さん、集計ベスト10の無意味さがわかっていらっしゃる。
 黒澤明の傑作「隠し砦の三悪人」の評に、ベスト10の時には、きちんと見ていなかったので入れなかったが「いま、もう一度、この作品を見て、やはり、『楢山節考』と並べてもいい作品だと思っている」(井沢淳)なんて無責任なものもあった。おいおいおっさん、あんたそれが仕事だろうが、仕事がこなせないのなら選者辞退しろよ、と言いたくもなる。が、「権威がある」と言われているキネマ旬報ベスト10にしてからが、そんな程度のものなのだ。ちなみに、ここであげられている「楢山節考」は木下恵介監督で、この年のキネマ旬報ベスト10の1位。

 キネマ旬報のベスト10はわかりやすいヒューマニズムが評者たちに受けるのか、なぜか異様に木下恵介の評価が高い(逆に娯楽色の強いものは評価が低い)。たとえば黒澤の代表作「七人の侍」が3位になった1954年度のベスト10は1位が「二十四の瞳」、2位が「女の園」どちらも監督は木下恵介である。「二十四の瞳」はともかくとして、「七人の侍」を知らない人はいないと思うが、「女の園」を見たという人には未だ会ったことがない。もちろん?私も、見ていない。木下の高評価に対して黒澤は概して低く、2009年のキネマ旬報オールタイム10で堂々5位にランクされている「羅生門」も1950年のベスト10では第5位。1位から4位までのうち私が見ているのは「また逢う日まで」(今井正監督)だけだが、映画のもつ緊張感からして比較にならない(ついでに書いておくと黒澤映画でもヒューマニズムを前面に出した「生きる」と「赤ひげ」はベスト10堂々の1位で、黒澤作品の1位はこの2作だけである)。
 もちろん、私が、きゃはははと映画館で笑い転げたクレージー・キャッツの映画なんてのは「お呼びでない」ので全滅。007屈指の傑作であった「ロシアから愛をこめて」は完全無視。今でこそカルト・ムービーなんて言われている「ブレード・ランナー」なんか、映画館はガラガラだったぞ。

 1999年のキネマ旬報オールタイム・ベスト10で1位(2009年のベスト10では4位)と評価が高い「第三の男」が1952年のベスト10では「チャップリンの殺人狂時代」に1位をゆずっているもの納得がいかない。オールタイム・ベスト10上位常連の「天井桟敷の人々」や「2001年宇宙の旅」も公開年のベストワンにはなっていない。ちなみに、2009年に発表されたキネ旬オールタイム・ベスト10(ベスト200として発表)は、

★洋画
1 ゴッドファーザー
2 タクシー・ドライバー/ウエスト・サイド物語
4 第三の男
5 勝手にしやがれ/ワイルドバンチ
7 2001年宇宙の旅
8 ローマの休日/ブレードランナー
10 駅馬車/天井棧敷の人々/道/めまい/アラビアのロレンス/暗殺の森/地獄の黙示録/エル・スール/グラン・トリノ

★邦画
1 東京物語
2 七人の侍
3 浮雲
4 幕末太陽傳
5 仁義なき戦い
6 二十四の瞳
7 羅生門/丹下左膳・百萬両の壷/太陽を盗んだ男/家族ゲーム
10 野良犬/台風クラブ

 まあ、馬鹿言ってんじゃないよと蹴飛ばしたいほどの意味のないベスト10ですな。1995年の洋画ベスト3に入っていた「市民ケーン」は、どこへ行ったんじゃあ。「ゴッドファーザー」なら「PART2」のほうが出来がいいし、「ワイルドバンチ」は傑作で私も好きな作品だが、「駅馬車」や「シェーン」の上に来るような大傑作ではないだろうが。えっ、「シェーン」に至っては圏外か。オールタイムの名作として「タクシー・ドライバー」や「地獄の黙示録」なんていうクソつまらない作品を選ぶセンスにはとてもついていけない。そもそも、「西部戦線異常なし」のような名作中の名作が入っていないベスト10などとても参考にする気になれない。
 邦画もひどいもので、7位に4本入っているのだから、次は11位になるはずなのになぜかなぜか10位に2本。キネマ旬報は年々つまらなくなっていったのだが、今や小学生にもできるような計算までできなくなったようだ。これでは内容について書く気にもなれない。なんまんだ、なんまんだ・・・合掌。

 そんなわけで、キネマ旬報のベスト10など、あまり信用できない。というか、全然信用しないほうがいい。キネ旬の順位など、映画の宣伝に使われる以上の価値などないと知るべきである。
 100人のアンケート結果なんてものより、信頼のおける(自分の感性に合う)評論家を見つけ出し、その人が単独で選んだものを参考にしながら見る映画を選んでいくべきである。ヨドチョーさんでもおすぎでも町田でも前田でもいい。自分の感性に近い評論家の誉めている映画を追いかけているうちに自分自身の選択眼というものができてくるはずだ。
 私の場合はその信頼できる評論家が故・双葉十三郎さんだった。もちろん生まれた時代もその映画を見る能力も環境も違うし、価値観が全く同じということなどはあり得ないのだから、「それはちょっと違うと思うんだけどなぁ」というものも多々ある。それでも、学生時代ならともかく、手当り次第に映画を見ていく金も時間もない今、名作を見ていく上で双葉さんの批評は大いに参考になった。双葉さんが亡くなった今では、自力でおもしろい映画を探すしかないのだが、映画の見方など多くを教えてもらったと思う。感謝。

 以下、双葉十三郎さんのベスト10(ベスト15)を掲げておく。
 すべて、オールタイムのもので、◎のついているのは私も見ているものである。リアルタイムではない古い映画はとりあえず双葉さんの評価を頼りに見てきたので、かなりの達成率だと思う。「ベスト10に入れるほどのものでもないのかな」と思ったものはあるものの(たとえば「大いなる幻影」。もちろん凡作ではないが、ラストの国境越えで「撃つな」というのはとても「甘い」と感じた。見たときの「時代」というものが大きく影響しているのだと思う)、ただし、見てがっかりというものは1つもなかったと書き添えておく。
★外国映画ベスト15
◎「黄金狂時代」チャップリン
◎「西部戦線異常なし」マイルストン
◎「大いなる幻影」ルノワール
◎「駅馬車」フォード
◎「疑惑の影」ヒッチコック
◎「天井桟敷の人々」カルネ
◎「サンセット大通り」ワイルダー
 「河」ルノワール
◎「恐怖の報酬」クルーゾー
◎「禁じられた遊び」クレマン
 「水鳥の生態」(ドキュメンタリー)
◎「野いちご」ベルイマン
◎「突然炎のごとく」トリュフォー
◎「スティング」ロイ・ヒル
◎「ザッツ・エンタテインメント」ヘイリーJr

★日本映画ベスト10
(オーソドックスに選んだもの)
 「忠次旅日記」伊藤
 「抱寝の長脇差」山中
◎「浪華悲歌」溝口
◎「安城家の舞踏会」吉村
◎「麦秋」小津
◎「七人の侍」黒澤
◎「二十四の瞳」木下
◎「浮雲」成瀬
◎「飢餓海峡」内田
◎「幸せの黄色いハンカチ」山田

★ゴヒイキ作品ベスト10
(双葉十三郎さんの「好みを前面に出した」もの)
◎「姿三四郎」黒澤
◎「幕末太陽伝」川島
◎「独立愚連隊」岡本
 「古都」中村
◎「砂の器」野村
◎「男はつらいよ・寅次郎相合い傘」山田
◎「時代屋の女房」森崎
◎「おはん」市川
◎「本覚坊異聞 千利休」熊井
◎「Shall we ダンス?」周防

 というわけで、ベスト10に入れるか入れないかは別にして、それなりに納得できるベスト10ではある。

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 以下は私のベスト10。双葉さんのものと違って全く頼りにならないベスト10であり、全く参考にならないことは、言うまでもない。好みを前面に出して選んだもので、まあ意味がないと言ってしまえばそれまでだが、ブログの役割の大きな部分は私の忘備録のようなものでもあるので、お許し願いたい。
(いずれも順不同。◎は双葉さんと重なるもの)

★外国映画ベスト10
◎「西部戦線異常なし」マイルストン
 「アラビアのロレンス」リーン
 「サウンド・オブ・ミュージック」ワイズ
◎「駅馬車」フォード
 「第三の男」リード
◎「野いちご」ベルイマン
 「スパルタカス」キューブリック
 「ベン・ハー」ワイラー
 「街の灯」チャップリン
 「太陽がいっぱい」クレマン
【補足】
 ブログの別記事でも書いているように映画というものは基本、見世物だと思っている。だが、見世物だけに終わらないのも映画というものだ。その意味で、「ロレンス」以下、いわゆる見世物だけに終わっていない超大作が何作かランクインした。「2001年宇宙の旅」「大いなる西部」「ブレードランナー」「ライアンの娘」なども入れたかったのだが、今回は微差のところで残念。芸術映画はあまり好きではないが、「野いちご」ぐらいのレベルに達しているとやはり無視するわけにはいかない。人生というものの意味をこれほど考えさせられた映画は他にない。厳しい映画だが、ラストには不思議な温かさがあった。チャップリンはいつも「街の灯」と「モダンタイムス」で迷うのだが、今回は「街の灯」にした。アラン・ドロンの主演映画は「太陽がいっぱい」と「冒険者たち」で迷うところだが、今回は「太陽」。この名作群の中で、さらにこの1本となると、やはり「西部戦線異常なし」を推したい。

★日本映画ベスト10
◎「七人の侍」黒澤
 「隠し砦の三悪人」黒澤
◎「砂の器」野村
◎「幕末太陽伝」川島
 「独立愚連隊西へ」岡本
 「ニッポン無責任時代」古澤
 「ゆきゆきて神軍」原
 「上意討ち」小林
 「雨月物語」溝口
【補足】
 私は黒澤のフアンなので、そのつもりで選ぶと「羅生門」も「生きる」も「用心棒」も入れたくなる。それではベスト10の半分が黒澤作品になってしまい、こういうものを作る意味がなくなってしまう。それで黒澤作品は2本だけにし、好みを出しながら上記のようにしてみた。「雨月物語」は話自体はどうってことはないが、ともかくカメラマン・宮川一夫が映し出す琵琶湖の幽玄とも言える景色が絶品。溝口+宮川での入選と考えてもらいたい。「ゆきゆきて神軍」はあまり見ている人はいないと思うが、これを見たらマイケル・ムーアをはじめとする世のドキュメンタリー映画など屁のようなものである。「ニッポン無責任時代」は、「クレージー黄金作戦」に換えてもよい。「上意討ち」は「十三人の刺客」と迷うところだが、今回は「上意討ち」に。高畑「火垂るの墓」、宮崎「ナウシカ」などのアニメも入れたかったのだが、またの機会ということで。m(__)m

 ……というような、いいかげんな私の映画ベスト10だが、
 さて、みなさんも独自の映画ベスト10作ってみてはどうですか?

★カメラの「Leica Q2 James Bond 007 limited edition」が発売されるんだそうです。ボンドがライカのカメラを使っていたシーンでも今までにあったのでしょうか? それとも今度封切られる作品で使われているんでしょうか? ま、いずれにしても50万以下ということはあり得ないんでしょうから、私には関係ない話なんですが。(^^;
https://leicarumors.com/2020/09/07/more-rumors-leica-q2-james-bond-limited-edition-and-leica-q2-monochrom-camera.aspx/
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奇跡!初めて咲いたキンカンの花(^-^) [植物]

 PM1:00過ぎから突然の土砂降り。雷の音も。ただ、これも30分くらいでやんで、あちこちに青空も。風はあいかわらず強く、蒸すのでエアコン点けっぱなしです。
 AM7:00ころは、雨・・・と思っていたら10:00には青空。ただし、風が強いので、洗濯物は浴室乾燥に。(^^;

 久しぶりに「迷惑メール」ボックスを見てみると、AMAZONのセキュリティがなんたらかんたら、AMAZONのIDとパスワードを変更してくださいという、登録もしていないAMAZON関連が10通程度。あとは、「連絡まってます」とか「近くまで来ています」「約束」なんていうような女性名義のメールがどどーんと数十通。ウヒヒヒヒヒそんなにもてていたとはなぁんてことは思わず、当然中身など見ずにばっさりと一括削除。[わーい(嬉しい顔)]

 何年か前、今は埼玉在住のKSさんがまだ知多に住んでいたころ、毎年、キンカンをどっちゃり送ってもらっていました。せっかくなので、そのキンカンの種をベランダの鉢に埋めておいたら無事発芽。もう何年も前のことです。以来、キンカンの葉は我が家に毎年のようにやって来るアゲハの幼虫の重要な食糧源になり、今年もほとんどの葉を食べられてしまいました。あーあ、と思って見ると枝のあちらこちらに白いものが。あれっアワフキムシまでついてしまったのかなとがっかりしながらよーく見ると、ナント花の蕾じゃあーりませんか。
 これを「奇跡」と言わずして・・・。
 最近の私にしては珍しく一眼+マクロレンズで何枚かパチリ、パチリ。鉢植えのまま何年もほっぽらかしていたのに、初めての花です。蕾は2桁あるので、もしかすると、こりゃあ実のほうも期待できるのかな?
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最終アゲハ、無事羽化 [昆虫など]

 薄曇りで雨は降っていません。風もありません。ただ、ちょっと蒸すのでこれが台風の影響かな、と。いずれにしても今日は基本的に外出自粛かな?

 多分、我が家での今年最終になると思われるアゲハが無事羽化したようです(前回の大失敗で心が折れてしまったので今回は経過観察なし(^^;)。
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※多数のアゲハの幼虫に、ベランダにあるユズ1鉢、キンカン2鉢の葉はほとんど壊滅状態であることは、すでにお知らせしましたが、葉を食べられたおかげかキンカンの1鉢に「小さな」奇跡が[るんるん]。どんな奇跡が起こったのかは、明日のブログで[グッド(上向き矢印)]
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夏は終わりぬ? [日記・雑感]

 今日(9/5)も朝からいい天気です。今のところ(AM9:30)風もほとんどありません。台風[台風]、どこ行った?

 SHさんの一眼写真の後は、いきなりスマホ写真(^^;。今の台風が通り過ぎると、いきなり秋になるのでしょうか?
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150mmマクロ+テレコン SH [鳥以外も撮る SH]

 結局、傘を持たずに出かけ。17:30ころに帰って来ました。ところが18:30ころになって突然、ザザザザザザ・・・。こちらはエアコンの効いた部屋でのんびりと電子タバコを吸っていますが、換気のため少し開けてある窓の隙間から子どもたちの悲鳴が聞こえてきます。まあ、この雨足では走って帰ったところでずぶ濡れでしょう。やはり、「いい子」は遅くまで遊んでいちぁあかんね。

 昨日(9/3)は、台風のせいか突然晴れたり土砂降りになったりと変な日でした。今日はちょっと出かける用事があるのですが、一応、折りたたみ傘持って行ったほうが無難ですかね?

 最近は昆虫が多いSHさんからの写真オンパレードです。こういう写真を見ると、よくもまあと思うのですが、熱中症も心配になってきます。気をつけてくださいねー。(^-^)
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 相変わらず暑いですが、少し気温が下がっただけで昆虫の動きがかわりました。撮影機材は去年の夏と同じで、レンズ交換をなくすため(暑くて面倒)150mmマクロにしました。更に不精をしてテレコンをつけっぱなしにして210mmとし、重さに耐えながら撮影しています。
↓アゲハ
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↓アゲハモドキ
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↓イチモンジチョウ
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↓オオスカシバ
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↓キアゲハ
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↓クロヒカゲ
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↓ゴマダラチョウ
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↓ジャコウアゲハ
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今年最後のアゲハ蛹 [昆虫など]

 青空が広がっていたと思ったらいきなりの雨。ひぇーっと洗濯物を取り込んだら、また日が差してきました。台風の影響なんでしょうねぇ・・・[たらーっ(汗)]

 この先、卵が産みつけられたとしても、以前からあるユズの木もKSさんからもらったキンカンから育てた木も、葉はほとんど丸坊主状態なので孵化しても蛹になるまで育たないと思います。
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ネコに負けた2大人気猛獣 [哺乳動物animal]

 本ブログのプロフィールのところにある写真、長らくネコの写真でした。その前は何だったか覚えていませんが、ヒョウの顔だったこともありますし、短期間イヌだったこともあります。ブログ管理者としては、ネコも少し飽きたかなとホワイトタイガーに代えてみたら、これが評判悪し[がく~(落胆した顔)]。小さい写真なのでなんだかわからないというメールも。なら、わかりやすいものにとライオンが欠伸をしている写真にしたら、やはりネコのほうがわかりやすいというコメント[がく~(落胆した顔)]。結局、元に戻しました[もうやだ~(悲しい顔)]
 人気の2大猛獣もイエネコにあっさり負けてしまったわけです。かわいそう?なので、元写真でもアップしておきましょう。
ホワイトタイガー.jpg
ライオン欠伸.jpg
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埼玉・日々気まぐれ日記:2020年8月 [埼玉特派員より KS]

 今月も月初めはKSさんからの「気まぐれ日記」。
 8月なので、戦争のことがかなり書かれています。覇権争いの戦争なので、どちらが正しいということはありません。欧米やソ連も、中国や韓国も問題は山積みです。だからと言って、日本は正しかった、白人はひどいという俗論にもやはり問題は山積み。戦争が始まると、どちらも(あのヒトラーでさえ)「正義のための戦争」であることを主張するので、一歩引いて考えていく必要があります。
 もう一つ別視点として、日本、とくに日本軍内部の問題も。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦時訓などやはりこういう時代はどこか狂っているのでしょう。こんな戦時訓のために意味のない「玉砕」が多発し多くの人がなくなったと思うと心が痛みます。インパール作戦など、日本人による日本人の大虐殺と言う以外の言葉がありません。それを「英霊」なんて言葉で祭り上げる人間もいますが、死んでいった者には何の慰めにもなりません。はっきり「犬死に」です。どちらが正しかったのかなどという不毛な議論の前に、なぜ戦争は起こってしまったのか、なぜ止められなかったのかを考えることこそ未来への糧になると思うのですがどうでしょう。
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8月1日(土)
 今日の競馬完敗。なかなか馬が見えない。やっと梅雨が明けた。照ノ富士敗けて12勝2敗。明日が千秋楽。

8月2日(日)
 照ノ富士13勝2敗で見事優勝。おめでとう。うれしく思わず拍手した。
 競馬は新潟最終レースで15頭中11番人気の馬の複勝が当たった。穴馬を見つけると嬉しいものだ。
 コロナは一向に沈静化しない。今月11日の知多の施餓鬼に出席するかどうか、もう少し様子を見ようと思う。

8月3日(月)
 歯医者に行ってきた。入れ歯が外れやすくなってきていることを相談したら、粉末の入れ歯固定剤を紹介してくれた。年食うと色々不具合が、入れ歯にもという感じ。
 YouTubeで或る科学者がコロナについて話をしていた。4月のコロナ感染者数は12000人で死者数は370人、7月の感染者数は15700人、死者数は31人だったそうだ。この数字から現時点で言えることは「コロナは約2週間間隔で変異しており今はその威力がかなり落ちてきている」と見える。つまり現時点ではコロナは恐ろしくない、と言っていた。念のため人込みは避け、マスクもかけることは継続する。人口3憶2000万人のアメリカでは15万人以上が死亡し、人口1億2600万人の日本では1000人ちょいの死亡、これどう説明出来るのか。集団免疫説、BCG説、他色々と言われているようだが、よう分からん。
 ドラマ「異世界居酒屋のぶ」、まあ話はマンガだが面白い。大好きな「孤独のグルメ」というドラマはシリーズ8まで放映された。「ワカコ酒」も好きなドラマ。酒を飲む場面がいい。手元に酒が有れば一緒に酌み交わす。「半沢直樹」ドラマも面白いが軽い料理ドラマも劣らずいいものだ。人生に酒は必要不可欠な飲み物。食に関して自分は味覚の才能が無い。それほど美味くなくても、美味かったとしても(?)ようわからない。味に敏感な人がうらやましい。酒は全てが美味いと感じている。日本酒、ビール、焼酎、ワイン、ウォッカ、ウィスキー、ジン、等々色々と飲んだが全て美味い。アルコールが入っていれば何でも良いということかもしれない。
 NHKドラマ「長閑(のどか)の庭」をビデオで観た。ちょっと変わったドラマで面白かった。じみで落ち着いた若い女性の心模様、いい感じ。で、次が観られるかどうか。

8月4日(火)
 30分足らずのウォーキングだったが汗びっしょりだった。ちょっときつく感じたがこれくらいが丁度良さそうな感じだと思う。

8月5日(水)
 今日はスーパーへ買い物だけ。およそ30分で歩数も1400歩。しかし本当に蒸し厚く汗がよく出る。少しでも運動しないとこの年ますます筋肉が衰え老いていくという恐怖感を感じている。再び腰の調子が思わしくなくなってきた。周期的に来る。
 またまたYouTubeの情報から。自分は右翼でも左翼でもないのだが、報道内容、意見が色々あって面白く見ている。コロナについてはNHKを始め民間テレビは感染者が激増していて大変だと大騒ぎしているが、冷静な事実データに基づいた科学的検証が求められているし、自分もそれを知りたい。芸能人らしき人間の意見など聞きたくはない。どうもコロナに罹らないようにするには、外に出たとき物にはさわらない、手の消毒うがいは出来るだけ心がける、マスクは一応かける、スーパー、コンビニでの買い物には気を付ける、ようにしたらいいと言っていた。今感染者が増大しているのに死者数、重傷者数は大して増加していない。これはどういう説明がつくのだろうか、と思ってしまう。
 或る番組で「氷結酒」を飲んでいる場面が有ったが、昔会社の近くの酒場で氷結酒を飲んでいたことを思い出した。美味かったなあ、氷の冷たさを味わいながら日本酒を飲む。もう何年ご無沙汰しているのだろうか(後日試してみたがうまく飲めなかった)。
 今の自分の楽しみはYouTube の色々な人間の意見を聞くことと世界情勢特にアメリカと中国、そして韓国、日本の国際関係状況の変化が面白い。全てテレビかPCの画像上の出来事であって、自らの行動ではない。頭の中だけの事象にしか主たる興味がわかない状況のようだ。のほほんと年を食っていくような気がする。

8月6日(木)
 午前8時15分1分間の黙祷。広島に原爆が投下されて75年。これまでに32万人以上の人が原爆で亡くなっている。アメリカという国は恐ろしい国だということを再認識する。
 このコロナ騒ぎの最中で、知多のお寺での施餓鬼には出席しないことにした。名古屋に住んでいる息子に頼んだ。空き家となっている実家がどうなっているのかを見たかったのだが。
 腰の調子がよろしくない、ちょっと中腰になるだけで痛みを感じる。

8月7日(金)
 ATMで息子の口座に施餓鬼の祈祷費用他を振り込み、途中少し買い物、往復50分だが汗だく。丁度いい運動かもしれない。歩数4330歩。

8月8日(土)
 競馬はとんとんでおさまった。勝つことはむつかしい。ほどほどに小遣い範囲で遊べれば御の字なのかも。今日もコンビニに出かけただけ。歩数460歩。

8月9日(日)
 今日は長崎原爆の日。11時02分爆発。これまで12万人以上の人が原爆の為に亡くなっている。広島合わせて45万人程の人が亡くなっている。たった一人のアメリカ大統領の命令で無辜の人々が殺戮された。こんなことは許されない。と改めて白人人種の残虐さを認識する。
 コロナの感染(陽性?)が蔓延しており一向に収束に向かわない。重傷者数はそれほど増加していない、死者数も少ない状況下で、どう考えたらいいのか。ただ陽性者数だけが増えているだけの感じがする。政府は「ほっとけば」という感じの対応しかしていない。それでいいのか。いずれにしろ出来るだけ外に特に人込みには近寄らなく、家でじっとしていればいいのか。
 今日の競馬はプラスマイナスゼロ。女性騎手藤田菜七子が2勝(3レース騎乗で)した。今日が23歳の誕生日だそうだ。おめでとう。

8月10日(月)
 買い物がてらの短いウォーキング。たったの30分余りだが汗が出た、マスクはもういらないのではないかと思うが、念のためかけて歩いた。
 今日はテレビドラマのオンパレード。「半沢直樹」は途中から音声が途切れてしまいストレスが上がった。次のドラマは思わせぶり過剰な推理もの、つまらなかった。「家政婦」さんは面白かった。「ハケン」女子さん最終回もう一度見たが面白かったしスキッとした感じ。
 明日はどう過ごすことになるやら。知多では施餓鬼で息子はちゃんと行ってくれるか、気になる。コロナ腹立つなあ。ええかげんに落ち着いてじっとしていろ。
 NHKプロフェッショナル「石川佳純」を見た。卓球のプロのすごさを再認識したし、面白かった。

8月11日(火)
 本当に暑い。さいたま37℃だったそうだ。相変わらずコロナ陽性者は多い。今日は一日家の中。

8月12日(水)
 相変わらず蒸し暑い。30分ウォーキングで十分、これ以上だと熱中症になってしまいそう。
息子に電話をした。知多のお寺での施餓鬼は問題なく済んだとのこと。お墓は前日に掃除してくれたと言っていた。有難いことだ。お寺から施餓鬼の祈願出席は極力自制した人数でというお達しが有ったそうだ。コロナ騒ぎのせいだが、これ本当に正しいのかいな。愛知県知事は極力経済活動自粛しおとなしくしろと公言したが、コロナで亡くなった人は7月愛知県で1人。たった1人しか死んでいないのにみんな自粛し経済活動するな、と言った。経済的にどれだけ愛知県民被害にあうか、考えたのだろうか。
 毎年どれだけの人が色々な病気、事故で死んでいるか。コロナで死んだ人は1人。そのコロナが怖くて全産業活動を止めようとした。なぜなのか、きちっと根拠を説明する義務がある、と思うのだがどうなのか。それに従って自分は愛知県知多市に行くことをやめた、という形なのかな。大いなる疑問を抱きながら曖昧に、まあやめとこう、と判断した。
 午後2時ころすごいスコールが有った。雷もいっぱい鳴っていた。その少し前にベランダに出たときはまるでサウナに入ったような高温でむあーっとした感じだった。全く異常なほどの天気状況である。NHKニュースは熱中症で死亡した年寄りの報道をしながら、夜中でもクーラーを稼働させてくださいとしきりに言っている。カミサンは「クーラーの無い人はどうすればいいの?」と言っていたが全く同感。クーラーを買えない人が多くいると思われる状況になっている日本。貧富の差が激しくなってきているという日本。NHKはつぶせという政党に賛同したい気にもなる。

8月13日(木)
 午後3時過ぎに雷、スコール。トイレに入っていた時一時停電。雷はすごかった。相変わらず猛暑。本来ならこの時期オリンピックが開かれていたのだが、この暑さで大丈夫だったのか大きな疑問符。本来こんな夏の時期にオリンピックを開催するという発想が間違っている。根本から考え直すべきだと思う。来年はおそらく開催出来ないと思うが。
 一日中家の中。1階の集合郵便受けに新聞を取りに行ったきり。早朝なのにむあーとした外気だった。今日も最高気温37度か。

8月14日(金)
 約2か月ぶりの散髪。開店時間で3人並んでおり終わるまで約2時間かかった。直射日光が照りつける店の前で少し時間待ちしたが暑かった。さっぱりした。コロナ、死亡者が徐々に増えてきているそうで嫌な気がする。

8月15日(土)
 終戦記念日。例年は空襲で爆撃された全国あちこちで慰霊祭がひらかれていたが、今年はコロナのせいでかなり縮小されていると報道されていた。自分は一度も参加したことは無い、知多市には爆撃が無かった。あらためてアメリカをはじめ白人どもの非道な行動を思い知る。
 今日は弟、甥2人と会食をした。知多の相続した土地が売れてその報告だった。甥の一人が手続き等全てやってくれた。有難く感謝している。
 中央線国立で打ち合わせしたのだが、行き帰りむちゃくちゃ暑いこと。日射病になるのは納得。いつまでこんな天気続くのやら。
 渡哲也が78歳で亡くなった。色々病気に苦しみ最後は肺炎だとか。葬儀は全て身内のみで行いお別れ会はしない、これでいいと思う。渡さんらしいなあ。芸能人のファンによるお別れ会はだいたい開催されているが、いつも疑問に思っていた。

8月16日(日)
 今日の競馬は負け。Win5は途中3レースまでは当たったがそれ以降はアウト。藤田菜七子騎手が今日も一勝した。

8月17日(月)
 2か月ぶりの内科検診。2か月前の血液検査結果では血糖値が少し上がっていたがその他は異常なしだった。市の費用による特定健康診査を受けた。結果は2か月後だが胸部診察含め特に異常なし。それにしても片道約20分の内科だが、暑くマスクは外して歩いた。行き交う人もほとんどマスクをしていなかった。

8月18日(火)
 今日は歯科医院。入れ歯の具合の確認と歯ぐきの掃除。次回は膿が出ている個所の治療の予定。暑い日が続く。

8月19日(水)
 共産主義は怖い。中国しかり、ロシアしかり、北朝鮮しかり、北朝鮮に支配されるであろうと思われる南朝鮮。日本は間違いなくこれらの国から永遠に狙われるだろう。大東亜戦争は共産主義連中に仕掛けられた戦争だと言うひとがいる。アメリカは共産主義の閣僚が大統領をそそのかして日本を戦争に突入すべく工作をした。アメリカも利用された。敗戦後運よく(?)日本はアメリカの統治国になりソ連、中国に分割占領されることは免れた。そして今の日本になったが、教育はアメリカにより統制されてきた。特に団塊の世代、つまり自分たち。近代歴史はゆがめられて教育された、と言う人の意見を聞く。頭が悪く、いまやかなり記憶力が薄れてきている自分。以上のようなことは記憶にない。これらがはたして真実なのかどうかを判断する知識も頭脳も無い。そんなものだったのか。書物を読んで勉強する気は無いし、書物も共産主義者によっていいように書き換えられているような気もする。色々隠されて教えられていない真実(?)が有るのだろうな。そういった意見を見聞きして、さもありなん、と感じている最近だ。

8月20日(木)
 早朝に新聞を取りに1階に降りるが、昨日から気温が多少下がってきた気がする。外部鉄骨階段を一歩一歩気を付けながら降りた。上がるのはもちろんエレベーター。
 ATMに行って預金を少し引き出してきた。往復約30分で帰りにスーパーで少し買い物。40分くらいの外出だが汗だくで帽子はびしょ濡れ。歩数は4100歩。まだまだ暑い。
 「半沢直樹」ドラマは面白い。迫力有ってスキッとする。
 藤井棋聖が王位戦勝利、2冠となった。まだ18歳になったばかり。8段にも昇段し記録尽くし。おめでとう、君は天才だ。

8月21日(金)
 ウォーキング30分、帰りにスーパーで仏様用お供えを購入。歩数3100歩。汗びっしょり。

8月22日(土)
 今日の競馬は完敗。一日中エアコン付けっ放し。まだまだ暑さは続くようだ。腰の調子は良くない、少し中腰になると痛くなる。これまでの経験では少し時間がたてば痛みは軽くなるはずだが。

8月23日(日)
 今日の競馬もほぼ完敗。当らない。勝馬が見えない。スランプなのか。

8月24日(月)
 三日ぶりのウォーキング、約30分、途中買い物入れて歩数4100歩。汗の出っ放し。まだまだこの暑さは続くと報道されている。スーパー以外はマスクを外して歩いた。

8月25日(火)
 朝刊を取りに行ったのと夜にはペットボトルと空き缶をゴミ置き場に運んだだけ。一日中家の中でテレビとパソコン。今月いっぱい気温は35℃前後とか。相変わらず熱中症で亡くなる人が多い。

8月26日(水)
 晴れの日がずーっと続いている。たったの30分余りの散歩でも汗だくになる。まだまだこんな天気が続くと天気予報は言っている。
 相変わらずYouTube三昧の一日だった。
 戦争、天皇のことについて語っている番組が有ったが、面白く拝聴した。福沢諭吉と韓国との話についても語られていたが、なるほどねえと、知識不足を思い知った。このような話は学校で教わった記憶が無い、と記憶している。ボケで忘れてしまっているのかもしれないが。
 台湾の歴史も面白かった。といえ、今日知ったこともすぐに忘れて、聞いたことあるなあ、という世界になってしまう、そんな気もする。記憶力の低下を強く感じる。情けないなあというより、そんな歳になってしまったのかも。

8月27日(木)
 今日も30分の散策。マスクはスーパー内だけで外ではほとんどかけないで歩いた。いくらか雲はかかっていたが汗はよくかいた。
 「半沢直樹」ドラマ、迫力有って面白い。「私の家政婦ナギサさん」もたわいないドラマだが面白い。普段8時過ぎに放映されているドラマは見ないのだが、ティバー他でたまに見る。

8月28日(金)
 歯科医院に行ってきた。いよいよ歯ががたがたになり最終的には総入れ歯になりそうだ(現在は自前の歯が数本残っている状態)。少しずつ都度治療しながらだが、憂鬱なことだ。歯医者までの道のりには日影が少なく暑かった。
 安倍首相が退任を表明。体調の不具合が原因とのこと。次期首相が決まるまでは継続するそうだが、誰が決まるのやら。安倍政権は、ずーっと取り巻き官僚・役人の能力不足を感じてきており、また総理自身の不透明さ、忖度、嘘の蔓延、素直に信じられない人格を感じてきていたが、次なるこれという人物がいない日本政府、どうなってしまうのか。
 夜娘が来た。

8月29日(土)
 今日の競馬は5レースまで。あとは娘にテレビをゆずった。また、今日のパドックでいいと思える馬は一頭もいなかった。従って掛け金ゼロ、損失ゼロ。

8月30日(日)
 娘は午後帰っていった。来月また来るとか、おおよそ1か月に1回帰ってくる。
 本日の競馬負け。Win5は3550万5610円の配当で7票が当たったとか。まあこのような馬券は買えないし投資する資金は無い。

8月31日(月)
 8月も終わり。1年の2/3が過ぎた。来月73歳になる。いつ死んでもおかしくない。
 近場を散策してきた。歩数3000歩。いくらか曇っていて汗の出は少なかった。
 横断歩道をよく渡るのだが停止してくれる車はおよそ50%か。待っていてもどんどん通過して行く車を見ているとそのうち腹が立ってくる。道交法では横断歩道に人が立っているときは停止することとある。自動車免許路上実地試験で一旦停止しなかったら一発で不合格とされる。
YouTubeでパラオのペリリュウ島のことを放映していた。大東亜戦争でアメリカ軍と戦い日本軍は全員戦死したが、戦う前に島民を全員避難させ島民は一人の犠牲者も出さなかったと。或る程度編集されているだろうとは思いながらも、涙が出てきた。決して日本が占領した島ではなく逆に島民のために開発してきた島。スペインの植民地からドイツの植民地になり第一次世界大戦で日本の委任統治下になったパラオの島。
 知らないことだらけである。ラオスの韓国が作ったダム決壊で、韓国は逃げ回り、最終的にその原因究明を日本がラオス国家に協力したこと、フィリピンの鉄道の話、国の名前は忘れたがアフリカ北西部の国で日本人がタコ漁をひろめて国が富んだ話、等々、その他一杯あるだろう。気が付いたら見ることとしよう。こういう話は面白い。日本にいいようにある程度は編集されているだろうが。
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