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亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」雑感 [映画・文学・音楽]

 朝から曇ってますねえ・・・。
 このところどうも仕事をする気にもなれず、かといって遊びに出かける気にもなれないということでぐだぐだしていましたが、さすがに今日は少しやらなければならないかな。セミの声もいつの間にか聞かれなくなりました。せっかくなので、秋らしい写真を1枚だけ。
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 本日の「カラマーゾフの兄弟」と明日の「罪と罰」は、以前別のブログに書いたものです。
 ブログに関しては、データは「向こう」のサーバにあり、こちらにはありません。ですから、サーバを運営している会社が「やーめた」となったら一巻の終わり。そんな経験を今まで何度もしてきました。So-netに関しては親会社が「世界のSONY」なので安心していたのですが、突然、So-netが終了し、ssに移行。とくに問題はないようなアナウンスがされていますが、以前やっていたブログでは「安心」のはずの移行先の会社が3年ほどで、突如「やーめた」の終了宣告。
 このブログに関しては、月毎にデータ保存を行っているので万一の場合も最悪データだけは保存されていることになります。で、同じことを、前記別ブログでもやろうとしたのですが、なぜかうまくいかない(^^;。それで、コピペしたものをこのブログにアップしておこうと考えたわけです。要するに「忘備録」です(勘違い変換ミスなどもとくに直してはおりません)。たいしたことは何も書かれていませんが、当人にとっては、こういうものを書いたことがあったという事実が重要なのです。読者のことは、完全に無視しています。写真もありません。本当に個人的なものなので、読者の皆様はパスしてください

★亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」雑感

埴谷雄高・十三年後のアリョーシャが書かれていたら、ほんとうにおもしろいものになったと思いますね。
荒正人・はたして書くことができたでしょうか。
埴谷雄高・ドストエーフスキイが生きていたら、必ず書けたと思いますよ。だいたい「悪霊」とか「カラマーゾフの兄弟」が書けたことがすでに不思議で、そういう不思議を実現し得た作家なら十三年後のアリョーシャが書けるのは当たり前だと思いますね。

 上に引用したのは1963年というから40年以上も昔、「近代文学」の埴谷雄高、荒正人、そして作家の大江健三郎の三人で行った座談会の一部である。今回、何十年かぶりに「カラマーゾフの兄弟」を通読して思ったのは、これだけの作品が前座だとしたらいったい本編(書かれなかった第2部)はどんなものすごいものになったのか、本当に残念な気がする。
 それにしても、未完とはいえ「死霊」でドストエーフスキイが時代の制約から書ききれなかったそこからさらに半歩を踏み出そうとした埴谷雄高である。上の発言は、まさにドストエーフスキイ文学の核心をついた言葉といえる。
 ドストエーフスキイあるいは「カラマーゾフの兄弟」については埴谷雄高のすばらしく魅力的な評論があるし、ロシア語の構造から作品の内容に鋭く迫った江川卓の評論もあるし、亀山氏もNHKブックスで詳細に論じている。おそらくドストエーフスキイに関係する本を積み上げたら1メートルを楽に越えるのではないだろうか。私のような素人がそれらの本以上に付け加えることは何もないので、きちんと知りたい人はそういう本を読んでもらいたい。ここでは光文社文庫・亀山郁夫「カラマーゾフの兄弟」読後の感想を思いつくままに書いていくつもりである。ただ、作者ドストエーフスキイが何をどう意図しようと書かれた作品はそれがすぐれたものであればあるほど作者からは独立した生命をもち、読者の様々な勝手な解釈を許すはずである。そういう前提で勝手なことを書き連ねてみよう。

 「カラマーゾフの兄弟」を最初に通読したのは学生時代のことで、河出書房の世界文学全集(グリーン版)の米川正夫訳の2巻本である。ドストエーフスキイ作品としては同じ米川訳「罪と罰」に続くもので、よくわからないながらもそれなりに熱中して読んだ記憶がある。そうなると四大長編と言われる残りの「白痴」「悪霊」も読んでみたくなるわけで、世界文学全集には入っていなかったため米川正夫個人全訳「ドストエーフスキイ全集」を買うことになった。以来数十年、この全集のすべてを読んだわけでもなくすべてを読むこともないとは思うのだが、時々作品の一部を拾い読みしたり、創作ノートをぺらぺらとめくってみたりすることはある。
 社会人になってから読んだのは、筑摩書房からこれも個人全訳「ドストエーフスキイ全集」を出している小沼文彦訳の「カラマーゾフの兄弟」を駆け足読みしたことがある(図書館で借りたもので仕事の合間に読む形になるため時間が足りなくて一部ぱらぱら読みになるのである。ロシア語は全くわからないので「感じ」で言うと原文にできるだけ忠実に訳したのか、ちょっとくどい感じがして生理的には米川訳のほうが私には合った)。今度の亀山訳「カラマーゾフの兄弟」が3回目の通読になる。駆け足読みではなく、一応はきちんと読んだつもりである(翻訳については最後に書く)。
 読後最初の感想は、自分の頭の中の「カラマーゾフの兄弟」は長年の間にずいぶん自己流に改編していたんだなあ、ということである。
 一二例をあげると、あまりにも有名な「大審問官」はもっと長いと思っていたらそうでもなく、また父親フョードル・カラマーゾフが殺されるのはもっと後半だと思っていたので第3巻の半ばで殺されたときは、ええっ?と思い昔の米川訳と比較したほどである。もちろん今度の亀山訳が途中を短縮したわけではなく、私の記憶違いである。

 ドストエーフスキイの作品では、基底音として神の問題が扱われる。神は存在するのか否か。存在すると断言できる人は幸せである。が、そういう人も話を聞いてみると根拠があるわけではなく「信仰」ということで話が終わってしまう。そこに全く懐疑はないのか、神が存在しなければ死後の世界もなく死ねば自己が完全な無に解消してしまうのを恐れるあまり在ると思いたいだけではないのか。存在しない、あるいはそんなことはどうでもいいと言う人も、ただ死というものを直視したくないための結論付けで思考を停止しているのではないのか。
 だから、というわけでもないがドストエーフスキイにおける「神」の問題は、邪道を承知で言えば、私は人間の「存在」に置き換えて読んでいる。つまり、限りある生しかもたない人間にとって絶対的なもの永遠なるものが存在するのか否かの問題として読んでいるわけである。もちろん深く考える力もないのだから結論が出るはずもなく、そうしたものの間を揺れ動いているのが我々凡人なのだろうと途中で投げ出してしまうのだが。ところが、ドストエーフスキイ作品の登場人物はそれを極限まで突き詰めてしまうのだ。
 たとえば「悪霊」に出てくるキリーロフの論理。神はいない。しかし、神は必要だ。従って、人間が神になるしかない。その精神的肉体的変化に人間は耐えられるだろうか。そんな極論のあと人間の自由意思の証としてキリーロフはきわめて象徴的な自殺を遂げる。「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、「悪霊」のキリーロフあるいはスタヴローギンの延長線上にあるイワン・カラマーゾフは、神はいない、だからすべては許されているとちょっとハッタリ気味に宣言する。
 「罪と罰」におけるラスコーリニコフの老婆姉妹殺し、スビドリガイロフの自殺、「白痴」におけるラゴージンのナスターシャ殺し、「悪霊」におけるピョートルらのシャートフ殺し、キリーロフ、スタヴローギンの自殺、そして「カラマーゾフの兄弟」における父親殺しとスメルジャコフの自殺。
 こうしてみてくるとドストエーフスキイの作品においては殺人と自殺が大きなキーポイントになっていることがわかる。と同時にこの殺人と自殺が「すべては許されている」論理から必然的に導き出される神への挑戦であることも。もう少し補足すると、現実の社会での自殺は、自己の完全なる消滅という考えではなく、死ねば形が変わった生が存在するという錯覚から行われることが多いと思う(「あの世で一緒になる」などという心中がその典型。このような考えが願望に過ぎないことは学生時代に読んだ波多野精一「時と永遠」で学んだ)。が、ドストエーフスキイの作品にあっては、登場人物の自殺はそうした俗論ではなく、自由意思の行使であり、神への挑戦であるという点で大きく異なっている。
 イワンが作った劇詩「大審問官」では神はいないのだから「すべては許されている」という論理はさらに飛躍してこういう結論になる。
「人間は神を望んでいない。いや、現実の生活においてむしろ神の存在は邪魔である(必要なのは、むしろ「悪魔」である)」
(この問題は終盤、熱に浮かされたイワンと「悪魔」との対話でもう一度別の角度から問題にされる。死後の世界を否定していた人間が死んだら死後の世界があってという逸話は秀逸である。)
 この「大審問官」の論理に対抗するためにドストエーフスキイは長いゾシマ長老の話を書く。この話もなかなかにおもしろく、特に若いころゾシマを尋ねてきた謎の男の話など興味津々なのだが、しかし私が読んだ感じではイワンの否定する力に及んでいないと思う。
ついでに今回初めて少し不思議に思ったこと。
 カラマーゾフの父親フョードル・カラマーゾフ殺しがドストエーフスキイの父親が農奴に殺されたこととどう関連しているのかということについてはそれこそ万と書物があるのだが、今回、作品の大きなテーマの1つである「父親殺し」が妙にあっさりしたものである印象を受けた。あまり評判のよろしくない人物だったので周囲の人間やドミトリー、イワンがとくに感慨をもたないのは理解できる。しかし、もう1人の父親というべきゾシマ長老の死にはあれほど大きな衝撃を受けた(聖人の墓の上に座り込むほどの狼狽ぶりというか衝撃を受けたのだ)そのアリョーシャまでもが淡々としているのはどういうことなのだろう? 第4編は2か月後とはいえ、アリョーシャを含めてフョードル・カラマーゾフの死(惨殺!)を惜しむ人間は1人もいない。不思議だ。

 これはドストエーフスキイ論でも「カラマーゾフの兄弟」論でもない、あくまでも「雑感」なので、思いつくまま書いていく。
 ドストエーフスキイの作品で大きな役割をもつものにドッペルゲンガー(分身)がある。彼らは当人が無自覚だった部分にも照明を当て、さらにそれを極限まで拡大して見せてくれる。こうした分身の登場のおかげでドストエーフスキイの作品は深みを増し、文字通りの「巨大作」になったのだと思う。
 すぐに思い浮かぶのが、「罪と罰」におけるラスコーリニコフに対するスヴィドリガイロフ。「悪霊」におけるスタヴローギンから派生したピョートル、シャートフ、キリーロフ。そして「カラマーゾフの兄弟」ではイワンに対するスメルジャコフ。
 これらの中で最も印象に残るのは、やはりスヴィドリガイロフ。すでに妹ドーニャからその名前は知らされているのだが、ラスコーリニコフがうなされるように見る夢というにはあまりにリアリティのありすぎる夢(老婆殺しを再現する夢なのだが実際の老婆殺しのシーンよりはるかにリアリティーがある)、まるで現実以上の現実感をもつその夢の中からやって来るようにスヴィドリガイロフは登場する。鮮やかと言うしかない。この登場のさせかたがあまりに魅力的なので私も自分の下手な創作の中でパクッてみたが、当然のようにうまくはいかなかった。残念、というか己を知らないというか……(^^;;。
 「悪霊」のキリーロフも先に書いたように人から神への理論を具体化したような徒花で印象に残る。これらの分身と比べると残念ながらスメルジャコフは魅力という点では一段落ちると言わざるを得ない。もちろんドストエーフスキイもそのことに気づいていたに違いない。後段、熱に浮かされたイワンの前に現れる「悪魔」は、その不足部分を補うために登場させたのではないかと思う。「あの世」はないと信じていた無神論者が死んだら「あの世」があり……という、悪魔が語るエピソードは「大審問官」の裏返しでもあって実におもしろいのだが、スメルジャコフの人物設定から言ってスメルジャコフに語らせるには無理があったのだろう。

 今回読んでみて、以前読んだ時には全く気づかなかったことの一つに、ドミトリーは現代のキリストになり得るのかという問題提起の発見があった(と私は勝手に思っている)。無実の罪でシベリア送りになるドミトリーの姿には人類の原罪を背負って十字架にかかった(とされる)キリストの姿がオーバーラップせざるを得ない。が、もちろんキリストにはなれるはずがない。作品ではエピローグでドミトリーの脱走計画の話が出て途中で終わっているが、だとすれば脱走は失敗するのか成功するのか、あるいはドミトリーが脱走そのものを拒否するのか。しかし、やってもいない父親殺しの罪を背負ってシベリアへ行くとすると刑期は20年と書かれているの。とすると「第2」の小説の舞台は13年後なのでこれでは間に合わない、というかドミトリーは登場できない(それともアリョーシャ、グルーシェンカといった人物がシベリアへ尋ねていくような設定が考えられていたのだろうか?)。
 また、熱病で死にそうなイワンはそのまま死んでしまうのか、あるいは治るのか。もしドミトリーが服役したままで、イワンが死んでしまうと仮定すると第2の小説はアリョーシャ1人になってしまい「カラマーゾフの兄弟」という題名そのものが成り立たなくなってしまう。ところが第2の小説はそもそ「カラマーゾフの兄弟」という題名ではないという説もあるようで、真相は永遠にわからないのだが、その意味でも第2の小説が書かれなかったのは惜しんでも余りある。

 もう一つ、以前読んだときには横道にそれるようで少々退屈したのだが、少年たちが実に魅力的に描かれていることも新しい発見だった。スネギリョフの息子で亡くなるイリューシャなどこの子中心の話だけでも一編の長編小説ができるほどである。コーリャやトロイの少年などももちろん印象に残る。
 ドストエーフスキイの構想では現在の「カラマーゾフの兄弟」は第1の小説であり、繰り返すがより重要な第2の小説は第1の小説の13年後ということになっている。とすればこの少年たちはそのころには26歳前後になっているわけで、導入として少年たちを数多く登場させているのは当然のことだが、とくに自ら「社会主義者」と言うコーリャがかなり重要な人物として登場してくるだろうことは容易に想像できる。あとアリーシャに対して勝手に婚約を宣言しこれまたすぐに婚約解消を宣言した「足の悪い」リーザも14歳なので第2の小説ではこれまた重要な人物となることまず間違いない。

 ……と、まあいろいろぐだぐだ書いてきたが、第2編の兄弟の接近から第3編のドミトリーの逮捕までは実に息も切らせぬおもしろさで、読みながら自由にあれこれ考えながらどんどん読み進むことができる。以前読んだときにはやや退屈に思えたゾシマ長老のところもそれなりの興味をもって読むことができた。思想的にイワンの「大審問官」には及ばないと思うものの、それは比較の問題であってこのゾシマの回顧だけでも十分一流の小説として成立する。若きゾシマの所に毎日尋ねてくる謎の紳士などサスペンスも上々である。しかもかつて人を殺しそのことを長年悩み告白した後に死んでいくというこの紳士の姿は実はスメルジャコフの殺人の後押しをし法廷で告白した後熱病で精神的にもおかしくなってしまうイワンの姿とオーバーラップしてくる。さらに言えば「すべてが許されて」いたとしてもそれを自覚している人間は殺人や子どもの虐待などはせず、別の言い方をすれば、それを実行してしまった人間はその重みに耐えられないのではないのか、という作者のメッセージも当然のように込められている。このようにドストエーフスキイの作品はとても一筋縄ではいかない。こうだと思っても別の場面でいやいやこうも言えますよと作者は別の答えも用意している。このことが何度読んでもおもしろいという古典の奥深さ、多面性を端的に表していると言えるだろう。
 ただし(これは私の読み方が浅いせいなのだろうが)これほどの名作でも第4編は「イワン」の部分はともかく、それに続く「誤審」は私にはかなりの程度に退屈だった。とくにイッポリート検事の論告は読み続けるのすらちょっと辛い。この若き検事は上昇志向の強い男だけにおそらく第2の小説でアリョーシャがかかわる事件にまた登場してくることを見込んでのことなのだろうが、それでも今の形で読み通すにはかなりの努力がいる。13年後の第2の小説を読むとおそらくこの退屈な部分すら、ああそうだったのかと違う感想をもつと思われるだけに、繰り返しになるが第2の小説が書かれなかったことが惜しまれる。

 最後に、翻訳について少々。翻訳はかつて私が読んだ米川正夫、小沼文彦訳と比べて格段に読みやすい。以前、別ブログに、

 とくに今回驚いたのは『老人』たちの年齢。かつての米川訳では(もちろんちゃんと年齢は明記してあるのですが)ゾシマ長老は80歳くらい、父親のフョードル・カラマーゾフは70歳くらいのイメージでした。ところが作品の中で設定された年齢はゾシマ長老が65歳、フョードルに至っては何と55歳という『若さ』だったのです。もちろん私が誤解していたわけなのですが、しかし翻訳の口調が何となくそんな感じなんですね。
 たとえば米川訳でゾシマ長老が、
『どうすればよいか、自分でとうからごぞんじじゃ。あなたには分別は十分ありますでな』
 と言う部分は亀山訳では、
『どうしたらよいかは、とうの昔からご存知のはずです。あなたは、十分に分別をおもちでいらっしゃる』
 となっています。ロシア語が全くわからない私には翻訳の当否を云々する資格はありませんが、亀山訳では老人たちが15歳ほど若返り実年齢に近くなったような気がします。」

 というようなことを書いた。
 65歳どころか70歳の老人でも「ごぞんじじゃ」なんて言う人は今ではいない。少なくとも私は聞いたことがない。
 もう一つ例をあげておく。ホラコーワ夫人がドミートリー・カラマーゾフに金を貸したことがないということを書いたメモは米川訳では、
「……三千ルーブリの金を与えることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし!世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なることを誓う」
 となっている。一方、亀山訳では、
「……三千ルーブルを貸した事実は絶対にありません。それに、ほかにどんなお金も貸したことはありません!世界の聖なるものすべてにかけてこれを誓います」
 この部分を見ただけでも(寝ころんでテレビを見ながら読めるしいうようなことはないにしても)ずいぶん読みやすくなっているのがわかると思う。前の翻訳を参考にできるという「後出しじゃんけん」のようなところがあるにせよ、これは長谷川宏訳のヘーゲルに次ぐ一種の翻訳革命と言っていいのではないかと思う(ま、そう断言できるほど本を読んでいるわけではないが)。
 ただ「大審問官」の中の一節などは「一日が過ぎ、暗くて暑く『物音ひとつない』セヴィリアの夜が訪れてくる」という亀山訳よりも「一日も過ぎて、暗く暑い『死せるがごときセヴィリアの夜』が訪れた」という多少文語的な米川訳の方が私にはぴったりきた(何度も読んだことによるイメージの固定ということは無論ある)。第9編第6章などの章タイトルなども米川訳「袋のねずみ」のほうが説明的な亀山訳「検事はミーチャを追い込んだ」よりぴったりくる(原文はどうなっているのかは知らないが)。あと、細かいことでは「餓鬼」に「がきんこ」とルビがふられているのがちょっと気にはなった。もちろんもともとの餓鬼とは餓鬼道に堕ち常に餓えに苦しんでいるもののことでそこに子どもの意味はないが、普通に子どものことを餓鬼ということもあるのでわざわざ「がきんこ」と読ませなくてもよかったのではないのか。
 「白痴」のナスターシャの系列のなかなか魅力的に描かれているグルーシェンカ(米川訳)が亀山訳ではグルーシェニカになっているのには最初かなりとまどった。長年読んだ癖と「ン」と「ニ」が何となく似ていることもあり、多分グルーシェニカの方が原語の発音に近いのだろうが、どうしてもグルーシェンカと読んでしまうのだ。途中からは諦めてグルーシェンカで読んでいってしまったが、この点に関してはせっかく画期的な翻訳をしてくれた亀山郁夫氏にあやまらなければならない。m(__)m

 ところで、「カラマーゾフの兄弟」第五篇第一章で、ホフラコーヴァ夫人がリーザの言葉として「あの松を夢のように覚えている」なんて変なことを言うんです、と語るところがある。米川によればロシア語の「松を」と「夢で」は語呂合わせ(要するにダジャレね)になっているのだそうだ。もちろん、注記で「これは一種の語呂合わせ」とすることもできる。亀山郁夫訳ではこの部分は「松の木(サスナー)を、夢で(サスナー)」と訳したものにルビをふっている。これはこれで、私のような凡庸な読者にも語呂合わせなんだなと読者にもわかる。
 では、米川正夫は、これをどう訳したか。
「梅を夢のように」
 と、訳している。なんと、松を梅に替えてしまっているのだ。試験の問題なら松と梅を「間違えて」いるのだから、これは零点だろう。しかし、文学作品の翻訳としては、これはもう100点満点の120点と言っていい。何よりも、松を梅に替えたことにより、日本語としての語呂合わせが成立しているのだ。見事と言うしかない。これぞ翻訳の真髄だろう。誤訳だ、冒涜だと騒ぐ研究者たちは、それこそロシア語の原文を読めばいいのだ。どうせなら亀山訳もそこまで踏み込んでもらいたかった、というのはもちろん読者の勝手な無い物ねだりである。


★「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」で空想する
 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」という光文社新書が出ていた。著者は光文社古典新訳文庫で先日『カラマーゾフの兄弟』の全訳を完成した亀山郁夫氏。となると、読了したものとしてはやはり気になる。買わないわけにはいかない。
 アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)を主人公にした作品は二つの小説に分かれ、そのうちの「第1の小説」が「13年前のアリョーシャ」の身の上に起こった出来事を書いた現行の『カラマーゾフの兄弟』であり、ドストエーフスキイの死により「第2の小説」は全く書かれずに終わったことは広く知られている。
 もちろん「第1の小説」だけでも世界に冠たる古典であることは疑いない。私自身この長編を3回も、それも3人の訳者のものを通読しているわけで、こんなことは他の小説にはない。そして、この「第1の小説」はそれなりに一つのまとまった作品として読めるのだが、第4部やエピローグに登場してくる多くの意味ありげな少年たちを考えるといやでも彼らは「第2の小説」ではどういう役割を果たしたのだろう、と空想せざるを得ない(とくにコーリャ)。アリーシャとの婚約を一方的に宣言しまた一方的に破棄した14歳のリーザ、カテリーナとグルーシェンカの2人の女性、そして病にかかったイワンと脱走計画もあるドミートリイの兄弟についても決着はついていない。これまた気になるところである。
 亀山訳『カラマーゾフの兄弟』は5巻合わせて40万部も売れたそうで、全巻買った人は40万/5=8万の半分とみて4万。通読した人はその半分の2万。しかし『カラマーゾフの兄弟』は何も亀山訳だけでなく米川、小沼、江川といろいろな訳が出ているわけで通読した人は少なく見積もってもその10倍はいる。つまり最低でも20万人が『カラマーゾフの兄弟』を通読しているのである。通読すれば私が言ったような登場人物のその後が気にかかるはずである。
 そして、私の知るかぎりでは「第2の小説」についてわかりやすく論じた本は今まで皆無。とすれば通読している20万人の1割、つまり2万人はこの本を買うに違いない。そう考えた光文社新書の編集者には「あっぱれ!」を差し上げたい。まあ後書きを読むと企画提案は亀山氏のほうからされたようで、本当に「あっぱれ」な商売人は氏自身なのだが(←悪い意味で言っているのではない。長年出版に関係してきた者として断言するが、出版社にとって「いい本とは売れる本」のことである)。
 この種の本は正解があるわけではないので(正解は作者しか知らない)何が正しいかではなく、残された手がかりからどんなことが考えられるか、その空想された話が「第1の小説」あるいはそれまでのドストエーフスキイの小説と照らし合わせて説得力を持つのかどうかということに尽きる。エチケットとして、この本でどんな空想が語られているのかは書かないが、私の考えと感想を二つだけ。
 亀山氏はドミートリイとイワンについては「第1の小説」で終わっており、話には出てくるにしてもサイドストーリーのようなものになると考えているようだ。が、果たしてそうか。ドミートリイの脱走計画が「誤審」が終わった後の最終章にある意味唐突な感じで出てきたこと、そこでのカテリーナとグルーシェンカの2回目の鞘当て等を思うと、別に二度あることは三度あるなんてことは言わないにしても、ここまで何だかんだとあって未完ということは単なるサイドストーリーには終わらない「第2の小説」への重要な伏線のような気もするのだが。
 もう一つ。「第2の小説」の小説の亀山タイトル案『カラマーゾフの子どもたち』というのはありそうでいて実に魅力的な題名だと思った。「第1の小説」を想起させるタイトルであるばかりでなく、その後のアリョーシャと子どもたちとの関係を暗示し、さらに神(父)と人間(子)の関係までをも内包していて、見事である。

 いずれにしても絶対に書かれることのない、つまりは正解のないものについてこれだけあれこれ語れるのはドストエーフスキイ作品のもつ深みにちがいない。


★「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」の余白に
 光文社新書・亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」を読んでの雑感はすでに「〜空想するを空想する」に書いた。これは前半部で、その続きを次に載せようと書き始めてはいたのだが仕事の方が忙しく放置していたところ、思いもかけず著者・亀山氏からコメントをいただいてしまった。で、慌ててアップする次第である。と言ってもたいしたことが書いてあるわけではない。暇な人だけどうぞ。

 この本を読むまで私が全く考えていなかったというか私の「空想」から完全に欠落していたもの、それはドストエーフスキイの生きた時代と作家自身が置かれた状況ということである。
 ドストエーフスキイの作品を読むと、老婆を殺したラスコーリニコフの夢の中からやって来るようなスヴィドリガイロフ、「ある瞬間があるのだ」と印象的な自殺を遂げるキリーロフ、そして人間の存在と自由について劇詩「大審問官」を語るイワン・カラマーゾフ……、こういった人物の印象がどうしても先行しがちであり、また印象に残る。これらはある意味歴史貫通的な事象なのでついついそういうイメージで見てしまいがちだが、しかし生身の作家としてのドストエーフスキイも、そして彼の書いた作品もまた時代の制約から自由だったわけではない。
 この当たり前のことが時代を超越しているようにも見えるドストエーフスキイの作品を読んでいると見落とされてしまい、本書で指摘されるまで私の視野からも完全に消えてしまっていた。

 昔買った米川正夫個人全訳の「ドストエーフスキイ全集」には別巻としてドストエーフスキイの生涯+作品研究がついていたのだが、「そんなの関係ねー」と読んでいなかった私は、ドストエーフスキイが終生警察の監視下に置かれていたなんてことは「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」を読むまで知らなかった。そうした当局の監視をいかに騙し、いかにくぐり抜けて己の構想を実現させるのか。ドストエーフスキイのわかりにくいところは実はそうした部分に負うところが大きいのかもしれない。シェイクスピアの有名な作品の台詞ではないが「無知というのは致命的」である(^^;;。
 少なくとも「当局の監視下にある」ということが明らかに作品に影響を与えている、というか与えないわけはないという点をくっきりと指摘してくれただけでも目から鱗である。ドストエーフスキイという作家の生活というとバクチ狂いで有り金全部使ってしまい、借金返済のために作品を書き続けたという従来のイメージは、もしかすると当局の目をくらませるための演技も入っていたのではと考え出すとなかなかに興味津々なところがある。

 昔々のその昔、まだ若かりしころの私が『罪と罰』を読んでいたら母親が、「それ学生が老婆を殺す話だよね」と話してきて、聞いてみたら昔読んだというので驚いたことがある。今にして思えば当時の母親はまだ40代そこそこ。『罪と罰』を読んでいたところで別に驚くことではないが、母親が世界文学なんぞ読むはずがないという先入観があったそのころにはけっこうな驚きだった。老婆を殺したラスコーリニコフが次第に追いつめられていくミステリとして読んだようだが、それも一つの読み方として間違っているわけではない(昔読んだミステリベスト10で『罪と罰』やポーの『メエルシュトロウムの大渦』を選んだ人がいた。あの江戸川乱歩も『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の回顧の中にでてくる「謎の紳士」をスリルの一つの典型として読んでいる)。
 ドストエーフスキイの作品にはやたらと殺人や自殺が出てくるが、単に存在や自由といった形而上の意味だけではなく、ドストエーフスキイ自身実は無類のミステリ好きだったのではないかと思う。でなければあんなにゾクゾクするようなストーリー展開ができるはずがない。また『悪霊』のキリーロフの思想などニーチェを通り越して一種SFとしても通用する。今でいうSF的なものにも興味があったに違いない。現に『鰐』という奇妙な短編はSFとはいえないまでもファンタジーとして立派に通用する。
 まあ私も若いころはミステリ好きで、エラリー・クイーンの「ドルリー・レーン4部作」やクリスティー、ウールリッチをはじめ日本のものでは「江戸川乱歩全集」「横溝正史全集」などひところかなりミステリを読んだ。と同時にクラーク、アシモフ、ブラッドベリ、レム、ディックといったSFも。そんな流れの中で「難解」と言われる(実はそうでもないのだが。私にとってはビュトールやロブグリエなどアンチロマンの作品の方がはるかに難解で手に負えなかった。これは映画だがロブグリエ原作の「去年マリエンバートで」は私の理解不能映画NO.1である(^^;;)ドストエーフスキイの作品も表面だけとはいえ比較的すんなりと読み進むことができたのではないかと思う。
 なぜこんなことを言うのかというと、著者の亀山郁夫氏ももしかするとミステリ、SF好きなのではという気がするからである。そうでなければ『カラマーゾフの兄弟』の構造分析をし、その先の「第2の小説」について簡単に触れることはあっても、「第1の小説」に残されたわずかな手がかりから「推理」を重ねて「第2の小説」を「空想」するなどということはないはずである。
 ということでそういう著者が書いた「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」は異色のミステリ・エッセイ、謎解きエッセイとしてもおもしろく読めるのである。
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コメント 6

wildboar

そういえば9月になってからは、皆勤ですねえ(^○^)
by wildboar (2020-09-17 10:15) 

アニマルボイス

ご安心ください。(^^;
そろそろですよー・・・( >_< )
by アニマルボイス (2020-09-17 10:40) 

JUNKO

読んだのは大学生のころだったと思います。
by JUNKO (2020-09-17 17:27) 

アニマルボイス

光文社・古典新訳文庫の亀山訳は、誤訳があるとか批判もありますが、今までの訳とはちがう新鮮さがありますので、お薦めです。
by アニマルボイス (2020-09-17 17:48) 

KS

懐かしい名前がいっぱい出てきますねえ。読んだのは何年前でしょうか。50年前?
by KS (2020-09-17 19:54) 

アニマルボイス

高校2年の出会ったとき、KSさんが読んでいたのは確か「罪と罰」。「罪と罰」については明日に雑文載せますので、暇があったら読んでみてください。
by アニマルボイス (2020-09-17 21:06) 

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