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亀山郁夫訳「罪と罰」雑感 [映画・文学・音楽]

 昨日の「カラマーゾフの兄弟」に続いて「罪と罰」の雑感。同様にごく個人的な「忘備録」なので本日も読者の皆さんはスルー推奨。明日は「悪霊」と「白痴」の忘備録。もう1日ご辛抱くだされ。(^^;
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★亀山郁夫訳「罪と罰」いよいよ発進!(2008.10.19)
 10/19の朝日新聞を見て驚きました。
 光文社古典新訳文庫ドストエフスキーの作品の全面広告です。
 亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」は、ともかく読みやすくて私としては長谷川宏訳のヘーゲルに続く「翻訳革命」だと思っているのですが、今度は同じ訳者でドストエフスキーの「罪と罰」がでました(全3巻のうちの第1巻)。
 個人的には以前、米川正夫訳でよんで今ひとつわかりにくかった「悪霊」の新訳を期待したのですが、営業政策的にはやはり「罪と罰」なんでしょうね。多分、ドストエフスキーの作品ではこれが一番多く読まれているはずです。世界文学の古典と構えなくても、ミステリというか犯罪小説としてもおもしろく読めるはずです。それでいてラスコーリニコフの見る夢の鮮烈さやスヴィドリガイロフの登場や自殺の場面などいかにもドストエフスキーらしい忘れられない印象に残るシーンが多々あります。何度も読んではいますが、私もこの機会に新訳でもう一度読んでみようと思います。
 ただし、トーマスマンの「魔の山」などはゆっくりじっくり読んだほうが味わい深いのですが(私も学生の時の夏休みに1か月半かけて読みました)ドストエフスキーの作品はやはりとぎれなく読みたい。第一巻を読んで次がなかなかでないのは辛いので第二巻が出たあたりで買って読み始めることにします。未読の人には、とりあえず「読むべし」と言っておきましょう(私は別に亀山氏の身内でも光文社の宣伝マンじゃないですよ、念のため)。
 広告によると「カラマーゾフの兄弟」はなんと全5巻累計100万部突破だそうです。
「私達が歴史の大きな流れをすこし注意して眺めてみれば、二十年くらいを周期として、ドストエフスキイ熱とでもいうべき異常な傾倒の時代がやてくるのに気がつきます」と40年前に書いた埴谷雄高の慧眼に今さらながら感心させられます。
 長年慣れ親しんできた米川正夫訳の「罪と罰」の「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた」という書き出しなどほぼ覚えてしまいました。
 人物や街などどうしても米川訳によるイメージが先行してしまうのですが、亀山訳「カラマーゾフの兄弟」には、今まで抱いていた人物イメージが一変するのを感じました。なんといってもあのフョードル・カラマーゾフが55歳で、よぼよぼじいさんのイメージがあったゾシマ長老が65歳とは驚き。米川訳では10〜15歳上のイメージをもっていました。
 さて、今度の訳ではラスコーリニコフはもちろんドーニャやスヴィドリガイロフ、マルメラードフ、ソーニャといった面々がどんなイメージで浮かび上がってくるのか、今から楽しみです。早く第二巻出ませんかねー。


★早く出して欲しい亀山訳「罪と罰」第2巻(2009.02.11)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」が全3巻のうち第1巻が出ただけで、以下がなかなか出ない。「罪と罰」はドストエフスキーの長編の中ではまとまりがよく、そういう意味では一気に読みたい小説である。私自身、高校生のときに河出書房のグリーン版世界文学全集の1巻として読んだときも、米川正夫個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときも、小沼文彦個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときもそういう読み方をしてきた(ちなみに以上は通読したときの話で、米川正夫個人全訳での拾い読み・部分読みは数知れない。ドストエフスキーの「4大長編」(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」)の中で最も読んだ回数が多いのがこの「罪と罰」である)。
 訳者の亀山郁夫氏は同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」で一種の翻訳革命を成し遂げた人で、「カラマーゾフの兄弟」を読んで感動した者としてはすぐにでも読みたい作品である(本当は米川訳でややわかりにくいところがあった「悪霊」の訳出を期待したいのだが、出版社も商売だから作品の知名度からいっても、「カラマーゾフ」の後が「罪と罰」になったことは仕方がない)。
 が、上に書いたように一気に読みたい私としては第1巻が出てもじっと我慢をして第2巻が出るの待った。第2巻が出てしばらくしてから第1巻、第2巻をまとめて買って読み始める。そうすれば、およそ2週間ほどかかって第2巻を読了したころ完結編の第3巻が出る。そうすれば、目出度く?全3巻の一気読みができるだろうという綿密な?計算によるものである。
 ところが、その第2巻が、なかなか出ない。
 亀山郁夫氏は、東京外国語大学の学長でもあるので、学長としての仕事が忙しいからなのだろうか。個人的には学長などという「役人」仕事はさっさと辞め、ドストエフスキー「4大長編」の全訳に取り組んでもらいたいところだが、まあそれは部外者の勝手な要望で、そうもいくまい。
 というわけで、昨年末、まだ第2巻が出ていないのに、ついに我慢できずに第1巻を買ってしまった。できるだけ時間をかけてゆっくりゆっくり読んだのだが、それでも年内に読了してしまった。それなのに、年が改まっても第2巻は出ない。まあ筑摩書房の世界古典文学全集のように4年で完結するはずが何十年もかかるというのよりはマシだとしても、遅すぎる。おかげで、第1巻をもう一度通読するハメになった(ま、これはこれでよかったかな)。が、それも1週間ほどで再読終了。ところが、それでも第2巻は出ない。言葉は悪いが、光文社が潰れたのか、亀山氏に不幸があったのではないかと思えるほどの遅さである。
 この小説が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である。スヴィドリガイロフは後のキリーロフ(「悪霊」)やイヴァン・カラマーゾフに繋がる人物で、ラスコーリニコフがそこまで突き詰めて考えていない心の暗部に光を当てる役目を担っている人物である。またその登場の仕方も素晴らしく、あたかもラスコーリニコフの夢の中から現れたように書かれている。このシーンを読むだけでも、「罪と罰」を読む価値があると言っていい。極論すれば「罪と罰」はスヴィドリガイロフが登場するまでは「よくできた犯罪小説」、彼の登場を待って初めて「世界文学史に残る傑作」になったと言える。彼が登場するのは作品の半ばなので、一刻も早い第2巻の出版が切望される次第である。もちろん、第3巻も続けて出してもらいたい(なんて、こんなローカルなブログに書いたところで、訳者も出版社も見てはいないだろうから、こんなことを言っても意味がないのだろうが(^^*)。
 全体の感想は全巻読了したときにアップするとして、訳者による作品冒頭の違いを書いておく。
★米川正夫訳
「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。」
★亀山郁夫訳
「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方ちかく、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りへ出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。」
 「カラマーゾフ」のときほどの訳による違いはないが、それでも「又借り」しているということはわざわざ断らなくても「借家人」からさらに借りているわけで、「借家人」をすっぱり削除したことによってずいぶん読みやすくなっている。また、ここには引用しないが、老婆殺しの現場からラスコーリニコフが逃れるシーンのイメージ喚起力は明らかに亀山訳のほうがあると思う。ということで、もう一度書いておこう。第2巻、第3巻を早く出せっ!
(という一文を書いて別のブログにアップしたその日の新聞に、「罪と罰」第2巻発売の広告が載った。ま、世の中、こんなものなのかも)


★亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 1(2009.02.15)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」の第2巻がなかなか出ないと文句をたれたその翌日に第2巻が発売された。うれしいことではあるが、この調子では第3巻は4月になりそうなので、少し待ってから買おうかとも思ったのだが、我ながら意志の弱さに呆れるばかりで、実は発売日の翌日に買ってしまった。もちろん、もう読んでしまって、現在、再読中である。
 ドストエフスキーのこの名作のハイライトは世間で言われるようにラスコーリニコフにソーニャが「聖書」を読むシーンでも、老婆殺しのシーンでもなく、スヴィドリガイロフの登場シーンだと私は思っている。「この小説(「罪と罰」)が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である」と前回のブログに書いたのだが、彼の登場シーンこそ、本作のハイライトであるに留まらず、世界文学史上に記憶さるべき名シーンであると言える。
 老婆殺しの後、精神的に不安定なラスコーリニコフは、熱にうなされたように夢を見るのだが、あの埴谷雄高の言葉を借りればこの夢は「現実以上の現実」性をもって読むものに迫ってくる。現実の老婆殺しと、この夢の中での老婆殺しのシーンを比較すれば、夢の中のシーンの方が圧倒的なリアリティーをもって展開されていること明らかである(では、その「現実以上の現実」とはいったい何なのだという問題があるが、ここでは立ち入らない)。そして、まるでその夢の中からこちらの世界にやってきたかのように、それまでドーニャ(ラスコーリニコフの妹。どうしても米川訳で覚えてしまっているのでドーニャと書いてしまうが、亀山訳ではドゥーニャ。ちなみに米川訳ではドストエフスキーではなくドストエーフスキイ)の手紙で名前だけは知らされていた、スヴィドリガイロフが登場してくるのである。夢と現実とをつなぐ小道具としてのハエの使い方も絶品である。
 あまりのすばらしさに私は自分の下手な小説の中に(「カラマーゾフの兄弟」の「若葉」と同じく)取り入れたというか、パクったことがあるが、もちろんうまくはいかなかった。圧倒的なリアリティーをもつ「現実以上の現実」に当たる部分が天才のようには描けないので、「向こう」から「こちら」へやって来るという緊張感がどうしてもうまくでないのだ。
 もう一つ、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの「分身」とも言える存在で、ラスコーリニコフが(深層心理の)明確な思考になっていない暗部に光を当てるという重要な役割を果たしているのだが(第3巻になるが、ラスコーリニコフの「更生」とともに印象的な自殺をする)、それをリアリティーをもって描くのはとてつもなく難しいのだ。トーマスマンの「魔の山」にゼデムブリーニというちょっと世の中を斜に見ているようなおっさんが登場する。そして、その暗部に対応する存在としてナフタという人物が登場するのだが、全く凄みがない。つまり、トーマスマンをもってしてもゼデムブリーニまでが限界で、ナフタ、つまり「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフまではもう一つきちんと描けなかったのではないかと思う。そう考えると、本当にドストエフスキーは、凄い。
 閑話休題。
 その夢からスヴィドリガイロフ登場シーンまでの一部を米川正夫訳と亀山郁夫訳とで比べてみる。
★夢の冒頭
(米川訳)
「たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にさえていた。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。」
(亀山訳)
「すでに夜も深まっていた。闇は色濃く、満月がしだいに明るさを増していった。ところが、空気はなぜか、ことのほか息ぐるしかった」
★夢の中盤
(米川訳)
「部屋は一面、月の光にさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。……大きな銅紅色をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっとなぞをかけてるんだ』」
(亀山訳)
「月の光が部屋いっぱいに皓々とあふれていた。すべてがもとのままだった。……大きくてまるい赤銅色の月が窓からまっすぐのぞきこんでいた。『こんなにひっそりしているのは、月のせいだ』ラスコーリニコフはふとそう考えた。『いまに月がきっと謎をしかけてくるぞ』」
★スヴィドリガイロフ登場
(米川訳)
「自己紹介をお許しください。わたしは、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
(亀山訳)
「アルカージー・スヴィドリガイロフです。どうぞよろしく……」

 両者を比べてみると、亀山訳のほうが(この場面だけに限らず)クリアな翻訳になっていることがわかると思う。ただ、スヴィドリガイロフ登場のシーンだけは、米川訳のほうが皮肉な性格がでているように思える(もっとも、何度も読んで「自己紹介をお許しください……」のくだりを暗記してしまっているためなのかもしれないが)。


★亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 2(2009.02.27)

 今回も私が慣れ親しんできた米川正夫訳(河出書房版「ドストエーフスキイ全集」)と亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)との違いについての雑文(本当にどうでもいいようなことばかりで、結局のところなかなか第3巻が出ないので第2巻を再度読み返したりしているため、ついつい比較してしまうわけである。第3巻が早く出版されることを祈り続ける今日この頃である)。

☆名前
 「カラマーゾフの兄弟」で亀山訳では「グルーシェニカ」となっているのに、米川訳に親しんできたため、どうしても「グルーシェンカ」と読んでしまうということは、以前雑文に書いたが、今回の「罪と罰」でもやはり似たようなことがあった(亀山訳「ドゥーニャ」を「ドーニャ」と読んでしまうと以前書いたのは私の記憶違いで、今回米川訳で確認してみたら米川訳でも「ドゥーニャ」だった。訂正)。ま、どうでもいいようなことなのだが。
亀山訳「マルメラードワ」 米川訳「マルメラードヴァ」
亀山訳「ラズミーヒン」  米川訳「ラズーミヒン」
 と、微妙に違っている。亀山さんには本当に悪いのだが、「ラズミーヒン」と書いてあるのに、どうしても「ラズーミヒン」と読んでしまうのは「グルーシェニカ」「グルーシェンカ」と同じである。
 まあ気にする方がおかしいといえば、おかしいんだろう。そもそも一般にはドストエフスキーなのに、米川訳ではドストエーフスキイなのだから。

☆ラスコーリニコフの一言
 前にソーニャがラスコーリニコフに「聖書」を読んでやるシーンは「罪と罰」のハイライトではないなんて書いたが、ハイライトあるいはクライマックスではないにしても心に残る名シーンであることは間違いない。とりわけ、その直前にラスコーリニコフがソーニャの足に接吻した後の台詞は後々まで記憶に残る名台詞である。
(亀山訳)
「きみにひざまずいたんじゃない。人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」
(米川訳)
「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」
 どちらもリズムのある名訳だと思うのだが、亀山訳では「人間のすべての苦しみ」と「すべて」は「苦しみ」にかかるのだが、米川訳では「人類全体の苦痛(すべての人間の苦痛)」となっていて「すべて」は「人間」にかかっているように読めるのだがどうだろう。まあ、細かいどっちでもいいようなことなのだが、この名台詞は米川訳でほとんど暗記してしまっていたので、ちょっと気になったわけである。それにしても、この2人の場面は若い頃読んだときはちょっとわざとらしくてかったるい感じがしたのだが、歳をとった今読んでみると実に緊張感あふれた名場面である。「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャが大地に接吻するシーンといい、ドストエフスキーは「キス描写の天才」と言っておこう。

☆月刊か定期か
 ラスコーリニコフは、自分が書いた、超人には(意味のある)殺人も許されるというような論文を読んだポルフィーリーから老婆殺しの犯人ではないかと疑われるのだが、そのときのラスコーリニコフの言葉。
(亀山訳)
「……でもそのとき持っていったのは、『週刊言論』紙で、『月刊言論』じゃない」
(米川訳)
「ぼくはそれを、『エジェネジェーリナヤ・レーチ(週刊新聞)』に持って行ったんで、『ベジオジーチェスカヤ・レーチ(定期新聞)』じゃありません」
 ロシア語のわからない人間にとってはエジェだろうがベジオだろうが関係ないので亀山訳のほうがすっきりしていてよほどわかりやすいのだが、「月刊」と「定期」とでは受けるニュアンスが違うのでちょっと気になった次第。ロシア語の全くわからない私は「定期」の「新聞」ということで日刊新聞を想像していた。まあ考えてみれば、日刊新聞にそんな論文が掲載されるなんてことはまずあり得ないのだが、定期ということなら季刊も年刊もある。亀山訳で「月刊」と断定されたおかげで、とてもすっきりした。
 ま、そうしたことより、その論文が(自分が持って行ったのではない別の新聞に掲載されてしまったため)掲載されたことをラスコーリニコフ自身が知らないというあたりに、単に思想的な問題だけでなく、ドストエフスキーのストーリーテラーとしての才能が発揮されている。だから彼の小説は小難しい理屈抜きにしても「おもしろい」。もし、自分の論文が掲載されていることを知っていたらラスコーリニコフは殺人を決行しただろうか。これは亀山氏の解説で初めて知ったのだが、ラスコーリニコフが老婆の妹まで殺すはめになったのも時刻の聞き違いだった。これらは単なる偶然ではなく、何か大きな意思がラスコーリニコフを破滅に向かって進ませたような気すらする。とてもうまい構成だと思う。


★亀山訳「罪と罰」ようやく完結(2009.07.31)

 第2巻がでてから約半年も待たされて、亀山郁夫訳の「罪と罰」(光文社古典新訳文庫)がようやく完結した。いくらなんでも待たせ過ぎだろう。せめてこういうものは最大間を空けても3か月が限度だと思うがどうだろう。ま、私はすでに全集の米川正夫訳で2度(通読)読んでいるので第3巻が出るのを待ったが、初めて「罪と罰」を読む人たちは果たして待ってくれただろうか。少なくとも営業的には大失敗と言わざるを得ない。
 亀山訳はあいかわらず読みやすく、「カラマーゾフの兄弟」のときのような衝撃こそなかったものの、「聞き間違い」「言い間違い」など今まで知らなかった指摘も数多くあり、適度の緊張感を持って読むことができた。人間存在の(覗き込むのが怖いような)深淵を垣間見させてくれる「カラマーゾフの兄弟」と比べるとちょっと落ちるかなという感じがしないでもないが(あくまでドストエフスキーの名作群の中での比較である。勘違いしないように)、作品としてははるかにこちらの方がまとまっている。「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」というドストエフスキーの4大名作への入り口としてこれほどかっこうの作品はないと思う。
 ドストエフスキーは生きるという意味を問い続けた作家だと思うが、それは即この作品のテーマでもあるし、レベジャートニコフなんて人物はもう少しきちんと書いて欲しいところなのだが、しかし、この系列は「悪霊」の面々に直結し、また「カラマーゾフの兄弟」のコーリャなどと通ずるものがある。「地下生活者の手記」がドストエフスキーの転換点だとすれば、この「罪と罰」こそ真の出発点と言えると思う。天才と言われる作家の終着点としてもおかしくない出来にあるこの作品が出発点というところに、ドストエフスキーのすごさがある。
 また、今回読んでいてマルクスの「経済学哲学草稿」がふと思い出されたのも驚きだった。もう何十年も前に読んだ(=何十年も読んでいない[たらーっ(汗)])マルクスのこの「草稿」での、人間は自然との絶えざるフェルケール(交通)の中にある、という一文が思い出されたのである。まさしく人も自然の一部である以上、単独では生きられない。人は人とのそして自然との関係性の中でこそ初めて生きられるのである。自意識が逆転し自分だけが自分1人だけが自分1人で生きていると思うのは実は錯覚に過ぎず、実は死んでいるのである。そして、そうした、関係性の中で生きている以上、どんなに高貴な人間であろうと、ゴミのような人間であろうと、その価値は等価であるというメッセージが込められていること自明である。
 今さら細かい感想を書き連ねても意味がないと思うので、それに関連して一言だけ。
 これは死からの再生の物語である。
 ラスコーリニコフもソーニャも、そしてスヴィドリガイロフも死者である(彼らの住んでいる狭く細い部屋を「棺桶」と喝破した亀山氏はさすがである)。彼らは生きているのだが、実は死んでいるのである。スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの分身であることはよく言われているが、今回読んでみてソーニャもまたラスコーリニコフの分身であるとの印象を強くした。ラスコーリニコフを真ん中に、死の深淵に引きずり込む者としてスヴィドリガイロフが、そして(「ラザロの復活」を持ち出すまでもなく)死から生への復活を信じる者としてソーニャがいるのである。ラスコーリニコフはそのどちらにでも逝く可能性があったのだが、結果としてソーニャの方を向き、復活した。そして、スヴィドリガイロフは「アメリカ」へ逝った。もしラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの方を向いたとしたら、……。我々の生は常にこうした生と死との間を彷徨い、選択を強いられ、どちらにも逝く可能性をはらんでいる。その意味でも、一瞬といえども無限の価値があるというドストエフスキーの価値観を実によく表した名作ということができると思う。
 よく知られていることだが、「罪と罰」は次のような名文でしめくくられている。この部分を読んだだけでも「罪と罰」が死からのよみがえりの物語であることがわかるはずである。
「しかし、もう新しい物語ははじまっている。ひとりの人間が少しずつ更生していく物語、その人間がしだいに生まれかわり、ひとつの世界からほかの世界へ少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語である。これはこれで、新しい物語の主題となるかもしれない---しかし、わたしたちのこの物語は、これでおしまいだ。」
 私が慣れ親しんでいる米川訳も合わせて載せておく。これもまた名訳である。
「しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている---徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移って行き、今までまったく知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しい物語の主題となりうるものであるが、しかし、本編のこの物語はこれでひとまず終わった。」
 「白痴」あるいは「カラマーゾフの兄弟」のラストといい、ドストエフスキーは実にラストのうまい作家だったと思う。
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middrinn

小説家だったんですね( ̄◇ ̄;) と思ったら、↑ に書いてありましたね(^_^;)
by middrinn (2020-09-18 09:02) 

アニマルボイス

↑違います。(^-^)
生活費を稼ぐという意味で、「ライター」か「編集屋」ならその通りです。小説は、遊びです。(^_-)-☆
by アニマルボイス (2020-09-18 09:56) 

makkun

アニマルボイスさん
こんにちわ~(^^
色々と気忙しい事が起こってる我が家なんですが
何とか時間を見つけてブログだけは続けて行きたいと思います。
多数の方々からのご期待に添えられるよう頑張りますので
これからもよろしくお願い致しま~す( ^)o(^ )
ドストエフスキーの「罪と罰」は大昔読みましたが
我が家の書棚にはまだ鎮座増してますです(^^♪

by makkun (2020-09-18 10:12) 

アニマルボイス

今読むと、また違ったおもしろさがありますよ。(^-^)
by アニマルボイス (2020-09-18 14:47) 

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