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2本の「WEST SIDE STORY」 [映画・文学・音楽]

 昨夜、カレーライスに卵を落とそうと冷蔵庫から出した途端に、手からポトリ[がく~(落胆した顔)]。卵を落としても割れませんシートなど敷いていないので、床に激突してぐしゃっ[もうやだ~(悲しい顔)]。自分が思っているほど握力が出ていないのでこういうことになるのでしょうね。思ったほど足が上がっていないのでつまづく、思ったほど声が出ていないので相手に届かない・・・。いやあ、「老人力」の向上には目を見張るものがあります[たらーっ(汗)]

 本日は「忘備録」なので思いつくままダラダラと書く。昨日、ブログの最後に「明日は忘備録を兼ねて何か書きましょうかね?」と書いたら、「期待してます」なんてコメントが入ったが、読者(という者がいるのだとしたら)にとっては、他人のとりとめのないメモ書きなので、全く期待はできないことを最初に書いておこう。
ウエストサイド.jpg
※以下の雑文は、1961年版リアル世代で劇場にも何度も行った人間のバイアスがかかっていると思って読んで下さい。評論ではなく、忘備録ですから。
 スティーブン・スピルバーグ監督の「ウエストサイド・ストーリー」観た。1961年のロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」のリメイクだ。
↓1961年版予告編
https://www.youtube.com/watch?v=2bftyKQfyLY
↓2021年版予告編
https://www.youtube.com/watch?v=QgxPtRinb0o
 観た後、世間の評判はどうなんだろうと、まず映画評論家でもある町山クンの感想がYouTubeにアップされていたので観て(聞いて)みた。1961年の映画について人種問題、社会問題をミュージカルに取り入れた、セットではなく本当にウエストサイドで撮影したなど、訊き手の前作を観ていない無知ぶりにも驚いたが、映画、ミュージカルの本質とは関係ない話ばかり。あれあれーと思っていたら、前作は名作だが完璧ではないと言い出した。私も不満な点がないではないので、ふむふむと聞き入っていたら、主人公2人(ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマー)がプエルトリコ、ポーランド系ではない、歌が本人のものではない(マリアの歌はマーニ・ニクソンの吹き替え。「王様と私」のデボラ・カー、「マイフェアレディ」のオードリー・ヘプバーンの吹き替えも彼女)、なんて・・・またまた映画、ミュージカルの本質とは関係ない話が締めくくりだった。この「論」でいくと、極論すれば貧乏で育った俳優は金持ちの役をやってはいけない、人を殺したことのない俳優が人殺しの役をやってはいけない、なんてことにもなりかねない。重要なのは、俳優個々人の履歴や私生活などではなく、俳優の演じている役が、観客にそれらしく見えるかどうかということではないのか。
 確かに前作のナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーは「名作の濁2点」だったが、さすがに見た目は悪くない。今回のアン・ミカの上下を押しつぶしたのような顔のヒロインと、禿げ始めているようなオーラゼロのおっさん風相方よりはずっとマシだ。さらに、町田クンは、今度の作品ではちゃんとそれ系の人が自分で唄っている=すばらしいとわけのわからない絶賛だが、音楽音痴の私には、(吹き替えであったとしても)前作のほうが「トゥナイト」などはるかにうまく聞こえた。これも、それらしく聞こえればいいのだ。私なんぞ劇場で見たときは、ナタリー・ウッドは歌うまいなあと感心したくらいだ。
 こちらもボケているが、町山クン、私以上にボケたか。それとも、スピルバーグに忖度したか。
 ネットには、音楽、歌、踊りが素晴らしいという意見が溢れているようだが、おいおいレナード・バーンスタインの音楽もジェローム・ロビンスの振り付けも、舞台のときからあるもので、別にスピルバーグが作ったものではないぞ(さすがにアレンジはしている)。それで、スピルバーグ凄いは誉め殺しだろう。以前、このブログに名作のリメイクは難しいという雑文を書いた(観客は元の名作を基準にしてリメイク作を観るので、名作を超える作品を作らないと意味がないため、たいていが「失敗作」になってしまう)。
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2021-12-08
 残念ながら結果は、予想通り。
 「物語」が公開されたとき、舞台を観ている人たちから「クール」の場所(映画は決闘の後、舞台は決闘の前)が違うという声が上がった。後に舞台の映像を観る機会があったが、やはり前半の盛り上がりに比べて後半は退屈するとまでは言わないが、弱い。おそらく「物語」のスタッフたちは2時間半の映画の緊張感を持続させるために、ブロードウェイで評判だった「クール」を敢えて後半に持ってきたのだと思う。そのため、敢えてジェット団の副団長にアイス(タッカー・スミス)という舞台にない役もつくった。結果、このシーンを観るためだけでも「物語」を観る意味があると言えるほどの名場面が出来上がった。
https://www.youtube.com/watch?v=wugWGhItaQA
 「ストーリー」では「クール」は舞台と同じように決闘の前に戻されたが、アクロバティックなダンスを入れたところで拳銃を取り合うような「クール」では「物語」の緊張感もインパクトもない、ただのミュージカル・ナンバーの1つとしてしか印象に残らない。しかも、「クール」を前半にもってきたことにより、後半はより物語的流れにはなったものの暗く静的で退屈なものになってしまった。
 気になると言えば決闘の前の「クインテット」も。「物語」では真っ赤な夕陽と建物の黒いシルエットに始まり、次第に暗くなってきて、その後の悲劇を予感させるような血の色を思わせる赤い金網のアップで終わる。「ストーリー」では明るいうちに動き始め、決闘の場に着いたときには完全に夜。いったい、ドンダケ遠くまで行って決闘するんだ。鉄パイプや角材を持って街中を集団で進んで行くのを警察に通報する人はいなかったのか(「物語」では途中、集団が街の人とすれ違うようなアホな場面はない)。私は、この「クインテット」が「クール」の次に好きなナンバーでありシーンなので、とても気になった、というか残念だった。
 そういえば以前WOWOWで放送されたとき、この「クインテット」を先の町山クンは、「カルテット(四重奏)」と言っていた。どう考えてもジェッツ、シャークス、マリア、トニーそしてアニタの「クインテット(五重奏)」だろう。多分、アニタを失念したのだろうが、プロなんだからこういう重要なところを間違えちゃあいかんがね。(▼▼メ)
 あと、ソール・バスによるオープニングとエンディングの素晴らしさを知る者としては「ストーリー」のそれは退屈でしかない。ラストのマリア(ヒロイン)の言動も、ええっそれっ、て感じでとても納得できるものではない。
 そんなこんなで、私にとっては「やっぱりダメだったか」という「ウエストサイド・ストーリー」だったが、唯1つ、これは悪くないぞと思ったナンバーが「アメリカ」。「物語」の「アメリカ」は屋上で行われるが(歌と踊りを観せるミュージカル・シーンとして悪くはない)、「ストーリー」では街中に開放したミュージカル・シーンを現出していてスペクタクル的に楽しめる。「ウエストサイド・ストーリー」で評価出来るとしたら、このシーンだけではと思うのだが、しかし、この5分だけのために2時間半はキツイなあ・・・。
↓1961「アメリカ」
https://www.youtube.com/watch?v=_e2igZexpMs
↓2021「アメリカ」
https://www.youtube.com/watch?v=hoQEddtFN3Q
 ちなみに「突然歌いだしたり、躍りだしたり(するのが納得出来ない)」などとシッタカおじさんタモリのような人間は、ミュージカルもオペラもバレエも観ずに、地層でも眺めていればよろしい。感情の最高の高ぶり、最低の暗闇を歌と踊りで表現する。それが、ミュージカルというものだ。
 以下、妄想。
 1961年版の場合、確かブロードウエイの初演は4年ほど前のはず。大ヒットしたから映画化の話も出たわけで、舞台はまだばりばりの「現役」。その舞台を観た人たちは当然映画を観に来るはずだ。とすれば、そういう観客を失望させないためにも(映画評はまちがいなく舞台との比較になる)歌と踊りを前面に出した舞台ならではのよさも取り入れる必要がある。「ジェットソング」「サムホェア」「アイフィール・プリティー」「アメリカ」などのシーンがそれだ。しかし、これは映画なのだから映画ならではの舞台と違うというところも出さなければならない(でなければ、皆、舞台に行っしまって映画を観には来ない)。それが、オープニングであり、「クインテット」であり、決闘シーンでのキラリと光るナイフのクローズアップだ。つまり、「ウエストサイド物語」はブロードウエイの舞台というものを意識しながらも、舞台では出せない映画ならではの表現を随所に展開してみせた。要するに舞台のもつ様式美と映画ならではのリアリティーが必然性をもって入れ替わるのだ(決闘のちょっとダンスを模したような始まりから=ここは舞台的ミュージカル的、突然ナイフキラリのクローズアップ=映画的現実的、がいい例だ)。
 だから、名作になった。
 対するスピルバーグの「ウエストサイド・ストーリー」。たとえば最も有名な「トゥナイト」のシーン。バルコニーの階段を登る音などもきちんと入れている。リアリティーを追求したのだろう。対して「物語」の「トゥナイト」は、(周囲の音を消しているわけではないが極力抑えて)原案の「ロミオとジュリエット」よろしく、これでもかというくらい情感たっぷりに描いている。で、どちらが印象に残るかといえば、もちろん後者だ。歌のラストもこう接近して唄っていたのでは、「さよならまた明日」の余韻もない。
 これは映画なんだ、映画なんだという意識が強過ぎてリアリティーを過度に取り込んだ結果、歌と踊りもきちんと観せ聞かせてこそのミュージカル映画の核心が中途半端になってしまったのだと思う。さらに言ってしまえば、音楽、踊り、画面が協力し合ってこそ感動が生まれるのだが、それがうまく合っていない。あと、ジェット、シャークの面々がとくにそうなのだが、個々人の個性が立っていないので、ボケ老人には「これは、誰だっけ?」ということが多々あったことを付け加えておきたい。
 1959年版の「ベン・ハー」は今でも感動を与えてくれるのに、2016年版のリメイク作は話題にする人がいない。出来の悪さに日本では上映すらされなかった。黒澤明の「隠し砦の三悪人」「椿三十郎」に至っては、リメイクされたということ自体が話題にもされない。「WSS」は前作からリメイクまで60年だそうだが、果して60年後にスピルバーグ版を話題にする人がいるのだろうか?。
 1961年版は、マイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」や「BAD」などのMVに多大な影響を与えていることについても書くつもりだったが、長くなるので止めにする。

※それにしてもスピルバーグは、なぜリメイク作品を作ったのだろう。考えてみるとリドリー・スコット(84歳)も最近は「ブレードランナー」の後日譚に手を出して失敗したり、「エイリアン」の前日譚を作って墜落したりという意味のないことを繰り返している。山田洋次(90歳)は「キネマの神様」という30年以上も前の「キネマの天地」と同じ結末を作ってしまった(ロシアのプーチン同様、誰か止める人間はいなかったのか?)。スピルバーグももう75歳の後期高齢者だ。こちらも似たような歳になっているのでわかるのだが、古稀を過ぎると全く新しいものをゼロから作り出すのは至難の業だ。しかし、自分はまだまだ「できる」んだぞと世間に示したい気持ちもある。結果、ついつい過去作のリメイクやシリーズものに頼ってしまうのではないかと思う。
 『山波』についても、私自身、過去の取材の話ならそれほど苦労せずいくらでも書ける。しかし、「総合文芸誌」というタテマエ上、雑誌のバランスを考えての代表からの「命令」は、「小説」。となると、ゼロから何かを作り出していかなければならない。キツイなあ・・・。(^^;
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wildboar

入れたコメント却下されちゃいましたか(@_@;)
by wildboar (2022-03-10 13:19) 

アニマルボイス

あれっ、来てません・・・(@_@;)
再度お願いしまーす。m(__)m
by アニマルボイス (2022-03-10 14:51) 

wildboar

何を書いたかしっかり覚えていませんが、だいたい次のようなことです。

私も左手が震えてPCのshiftキーがしっかり押せません。
ノンフィクシヨンライターでもフィクションは苦手な人が多いので、
やっぱりアニマルさんに頑張ってもらうしかないです。m(_ _)m
by wildboar (2022-03-10 15:18) 

アニマルボイス

しまった。
再送してもらうんじゃなかった。(^^;
by アニマルボイス (2022-03-10 18:37) 

JUNKO

お二人のやり取りには割り込めません。古い方の映画は見ています。
by JUNKO (2022-03-10 20:25) 

アニマルボイス

バカすぎて割り込めないと了解しました。(^^;
ともかくぴったりの年代だったので、勉強などそっちのけで、フィンガースナップの練習など熱心にしましたよ。
by アニマルボイス (2022-03-10 21:01) 

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