SSブログ

100分で名著 マルクス『資本論』 [映画・文学・音楽]

 昨日は暖かい1日でしたが、今日2/15は朝から雨で、午後からお日様マーク。地震はあるし、森は辞めるし(後継者候補の1人に安部ちゃまの名前があがってるんだって(≧Д≦;)オリンピックは断念しての幕引きってことなのかな。自分の幕引きも出来ない人に託して大丈夫なんかいな(^^;)、どうなっちゃってるんでしょうねえ[バッド(下向き矢印)]

 半世紀も前の大学には教養部というものがあった。
 一、二年生に学部に関係なく人文・社会・自然科学のいろいろな分野の学問を取得させ「教養」をつけてもらうという目的の組織である。重苦しかった入試も終わり、就職はまだまだ先のことだ。ゼミなどという堅苦しいものではなく、指導教官制というものがあり自由に選ぶことができた。法学部の同期たちの多くは法律や政治関係の教官を選択したが、私は廣松渉という論理学の助教授(当時の言い方)を指導教官に選んだ。論理学の講義がなかなかおもしろかったのが、その理由だ。専門部に進めばどうせ法律や政治の講義は「いや」というほど受けなければならないのだ。しばしそれとは少し違うものも体験したかったということもあった。
 指導教官制による少人数の講義というか「緩ゼミ」は、たいてい教官の研究室で行われた。気楽な自由ゼミのようなものだと言えばわかってもらえるだうか。テキストはマルクスの『経済学・哲学草稿』。私以外はほとんどが文学部哲学科の学生と大学院生だった。二時間のうち一時間半くらいがテキストを廻るやりとりで、残りの三〇分は哲学一般に対する雑談だった。場合によっては、それが1時間にも2時間にもなることも。
 私にとってマルクスは初体験だったが、私以外の人間はすでにマルクスの著作を何冊か読んでいるのにも驚いた。私は、当時ある種のブームでもあった実存主義にも興味があったので、自分なりに調べてみると、実存主義書物の最高峰はハイデガーの『存在と時間』のようなので岩波文庫のものを買った。読み始めた。ところが、これがどうにもよくわからない、いや、全然わからないのだ。
 もちろん翻訳という「ハンデ」はあるわけだが、プラトンの著作は劇作のように読めるし、デカルトの『方法序説』は自叙伝のようなものだし、パスカルの『パンセ』はエセーだ。同じ実存主義でもサルトルの『方法の問題』なども論理は追っていける。マルクスの著作だって繰り返し読めば何を言いたいのかアウトラインくらいはわかる(少なくともわかったような気にはなる)。ところが、『存在と時間』は、この人はいったいこのフレーズで何が言いたいのだろう、さっきのフレーズとどう繋がっているのだろうと再三再四考えたところでさっぱりわからないのだ。思いあまって廣松教官に相談してみた。
 その答え。
「ハイデガーを翻訳で読んでもわかりません」
 言葉を失うとはこういうこだ。唖然としている私に、さらなる追い打ちが。
「翻訳でハイデガーがわかる人がいたら、その人は天才です」
 なるほど、天才でも何でもなく不勉強な私にわかるはずがなかったのかと、妙なところで納得し、以来、ハイデガーの本は1冊も読んでいない。確かに哲学書の翻訳では、当然そこに訳者の思想が入り込むわけなので、原著者の思想とは異なる結果になる可能性があるのは否めない。廣松教官は哲学者なのだから当然の答えだ。
 せっかく大学に入ったのだから少し哲学でもかじってみるか程度の謂わば野次馬学生に過ぎない私には哲学を「やる」資格などないことがよくわかった。まあ、やる気もないのだから当然の結果と言える。中学から習っている英語ですら怪しい学生なので、文学部哲学科などというものを選択しなくてよかったとある意味安心した。
 学部に進学してからも、経済学史の平田清明教授から、
「『資本論』を研究するのなら、マルクス自身が校訂した最後の版であるフランス版を同時に確認していく必要がある」
 とも、言われた(私は法学部の学生だったが、経済学部や文学部の指定の教科は受講できた)。これまた、もっともな意見なのだが、フランス語など皆目わからない。「研究」する気など初めっからないのだから悲観することはないと、自分をなぐさめるしかない。

 そんないいかげんな学生生活をおくってきた人間でも、『経済学・哲学草稿』の「人間は、自然との絶えざるVerkehr(交通)の中にある」なんて言葉を未だに覚えているくらいだから、さすがに学生時代にはまだボケていなかったようだ。経済学部の経済原論IIは、マルクス経済学(Iは、所謂近代経済学)だったので、これも興味から受けてみた。教授がヨーロッパ「留学」中で、東北大学の教授の集中講義(夏休みに朝から夕方まで通して5日間)だった。『資本論』の概説ではなく、資本の再生産表式を中心とした講義で、後の平田教授の資本回転論と併せて考えてみると、なぜ現在の産業資本主義が歴史的なものであるにもかかわらず歴史貫通的なものに見える(思える)のか。そのロジックについてはここには書かないが、『経済学批判』における土台と上部構造の関係とはこういうことだったのかと目から鱗だったことはっきりと覚えている。
 ・・・いずれも若いころの話で、『資本論』なんてものも遠い昔に読んだ(活字を見た?)本という以上のものではなくなっていた。そんなときに、NHK-Eテレで「100分の名著『資本論』」が放送されることを知った。斎藤幸平というレクチャーは聞いたこともない人なのだが、私が知っている学者さんたちはとうにお亡くなりになっている。今の時代にマルクスを研究しようという人はどんなことを考えているのか、興味もあって見てみた。
資本論.jpg
第1回 「商品」に振り回される私たち
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を産む!?
第4回 〈コモン〉の再生
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/105_sihonron/index.html

 実に、現代的視点からマルクスの考えていたこと、ということはつまりは『資本論』(マルクスが執筆したものは第1巻のみで、第2巻、第3巻は草稿をエンゲルスがまとめたもの)が射程としていたものを改めて問うという構成でなかなかにスリリングな放送だった。素晴らしい。
 再放送があったらぜひ見てほしいと薦めるとともに、テキストはまだ本屋で売られていると思うので、読んでみるといい。政権よりの忖度が目立ち、アベ様のNHK、スガ様のNHKなんて言われているNHKだが、こういう番組が作れるところをみると、まだ見捨てたものでもないのかも。
nice!(8)  コメント(6)