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「映画は、映画で評価しよう」再録 [映画・文学・音楽]

※今回もこれまでなら「迷走」に載せていた一文。なぜ「アニマル」に載せるようになったのかについてはすでに何度も書いているので、改めては書かない。

 先日の「表現の不自由展」に続いて、川崎の映画祭でもスッタモンダがあった。ビビって上映不可にしたこともダメなら、抗議されて許可したという顛末もダメ。ダメダメ映画祭でいったい何をしようとしたのか?
https://animalvoice.blog.ss-blog.jp/2019-10-29
 日本の「不自由」はオーストリアにまで飛び火して、日本の不自由さが世界的に有名にしてしまったゾ。
https://www.asahi.com/articles/ASMC7064NMC6UHBI02V.html?iref=pc_extlink
https://www.asahi.com/articles/ASMC73J05MC7UTFK008.html?iref=comtop_8_06
 県や市の主催者側の言い分は決まって「騒動が懸念される」ので。おいおい、そういう騒動が起きないようにすることが、きみらの仕事だろうが。(▼▼メ)
https://www.asahi.com/articles/ASMB05QN4MB0OIPE02F.html?iref=comtop_8_02

 このての問題は99%政治がらみのものである。
 大学時代は西洋政治思想史のゼミだったが、そのときのテキストだったプラトンの「国家」でもこの問題は大きく取り扱われていた(もちろんギリシア語など読めないのでテキストは英語)。その関連でトロツキー「文学と革命」、毛沢東「文芸講話」、吉本隆明「政治と文学」関連の著作などいろいろ読んでみたのだが、問題は文学の本質そのものではなく、表現されたものとして公開されるときに政治権力からの規制が入って来るという一点に尽きる。まさしく、日本国憲法がわざわざ第二十一条に、
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する(GHQ草案「Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed.」)。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
 と明記している所以である。これに対する権力側からの規制はたいてい「公共の福祉に反する」というもので、教科書問題も「検閲」でなく「検定」ということになっている。もともとは誤字脱字、固有名詞や歴史の年号の間違いなどをチェックするだけということだったのだが、現実問題としてそうでなくなっているのは、ご承知の通り。

 映画の場合は公開のための「場」が必要なので、その圧力は文学の場合と比べて極めて直接的である。文学作品なら今の時代自分でパソコンをうちプリントして配布することも(効率は悪いが)可能である。しかし、映画はそうはいかない。DVDにでも焼いて配ればいいじゃないかという人もいると思うが、古い人間である私はそうは考えていない。映画というものは日常生活とは切り離された暗闇の中でスクリーンに映る映像と対峙しなければ本当のところはわからないのだ。
 たとえば「アラビアのロレンス」や「ベン・ハー」自宅のテレビで見たときと、劇場の70mm大スクリーンでみたときとでは、はっきり印象がちがう。スクリーンの大きさの問題だけではなく、ベルイマンの「野いちご」のような白黒スタンダードの傑作でも劇場で見た時と、周囲を日常が埋め尽くしている家のリビングで見たときとでは別物である。やはり、映画は別世界に入って視聴し、何かを得て再び現実の世界に帰ってくるものだと思う。

 劇場で映画を見るということは、その映画を見るという明確な目的をもち、自らの意志で限定された空間に見に行くということである。そして、劇場でスクリーンと向き合った瞬間から、その映画は監督のものでもプロデューサーのもので映画会社のものでもなく観客個々人のものとなる。結果、その映画の評価が個々人によって異なってくるのはある意味当たり前。爆笑問題の田中のように「ジュラシックパーク」がベスト1だなんて世迷い言を言う人間がいても否定はしない。しかし、是枝裕和監督の「万引き家族」がカンヌでグランプリをとると、「日本の恥だ」などと言ってこの映画を否定しようとする人間が出てくると、それはちょっとちがうだろうと思うのだ。おそらくネットなどにそう書き込んだ人間の99%は、まずこの映画を見ていないと思う。見てもいない映画について語るな。これが映画を語る上での大前提である。
 他人の評価とはちがう、自分はこう思うということなら、映画を見た人間同士が議論すればいいだけのこと。見たいものは見る、見たくないものでも気になるのなら見てみる。ともかく、見なければ議論は始まらない。見てもいないでとやかく言うのは論外のさらに外。見て初めて賛否良否の判断が下せるのだ。くどいようだが、そのためにも判断の機会を奪うなとあえて言いたい。

 以下の雑文は、もう20年も前に書いたものだが、再録しておく。
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映画は、映画で評価しよう

 唐突だが私はタバコを吸う。
 まあヘビー・スモーカーといってもいい。そんな私が最近最も頭にきたのは、1998年、つまり今年の12月からのタバコの値上げである。私の吸うマイルドセブン・ライトは230円が250円になった。値上げのの理由は旧国鉄の債務の返済のためである。馬鹿も休み休み言え、とはこういうことをいう。嫌煙権(この権利の主張には魔女狩り的な側面があって納得できない部分があるが、ここには書かない)などの広がりがあり、全日本煙草党などというものもないから、タバコを値上げしても大して文句はでないだろう、という策略が見え見えである。そして、旧国鉄の債務とタバコの間には何の関係もないのである。博打に負けて生活に困った男が、生活が苦しいからお前払っておいてくれ、と近くの銀行に文句を言いに行くようなものである。いや、それよりも旧国鉄の債務とタバコとの関連は薄いというか、全くない。要するにAの借金を全然関係ないBに押しつけているのである。どう考えてもおかしな話で、ヤクザだってこれほど理不尽なことはしないだろう。しかし、しかし、その理不尽極まりないことが、映画の世界では日常的に起こっているのである。

 映画が映画それ自体では評価されず、別の要素で評価されてしまうのである。
 たとえば、名作を当たり前に評価できない文化人のプライド(俺は「一般大衆」とは見るところがちがうんだ!)がそうさせるのだろう、その延長線上にファミリー映画、に対する不当とも言える低い評価がある。要するに、言葉は悪いが女子供が喜ぶような映画や「進歩的文化」に反するどうでもいいような映画なんぞ評価できるか、ということである。彼らにとっては、誰にでもわかる、わかりやすい映画というだけですでに減点対象なのだ。
 しかし、ちょっと待て。大人向けに作られたものを子供が理解するのは厳しいが、子供向け・フアミリー向けにきっちりと作られたものは大人が見ても十分楽しめるのではないか。漫画の「火の鳥」や「忍者武芸帖」、小説でいえば「ナルニア国物語」や「指輪物語」などを持ち出すまでもなく、この仮説は映画においても十分通用すると思われる。大人になるということは、子供物を捨てて大人物を読む(見る)ようになることではなく、子供物も大人物も理解できるようになることだと思うのだが(移行ではなく世界が広がると理解して欲しい)、どうも現実は、そうではないらしい。

 ここ何十年かのキネマ旬報をひもといてみても、宮崎アニメが時々顔を出すのと(「ルパン三世カリオストロの城」の時はほとんど評価されていない。「風の谷のナウシカ」がそれまでの「ヤマト」や「ガンダム」と違う形で評判になり「俺はアニメにも目配りしているんだぞ」と投票されて入ったのが最初)、洋画でもフアミリー向け映画でベスト10入りしたのは「メリー・ポピンズ」(5位)「サウンド・オブ・ミュージック」(9位)など数えるほどしかない。私が人生に大きな影響を受けたコメディ映画の傑作「ニッポン無責任時代」、中川信夫監督の「東海道四谷怪談」に至っては、そんな映画あったっけ、とでも言いたいのか、ベスト10にも入っていないし、話題にすらなっていない。
 今でこそ「あれはいい映画」だったと言われ後に男2人女1人という同パターンの映画がいくつも作られたロベール・アンリコの「冒険者たち」(14位)も、トリュフォーの映画史上最も美しいラストシーンに感動した「華氏451」(21位)も同年のベスト10には入っていない(この年1967年度の洋画ベスト1は「アルジェの戦い」で全く異論はないがベスト5には入る映画だろう)。キネ旬のベスト10は、「第三の男」(2位。1位「チャップリンの殺人狂時代」)や「2001年宇宙の旅」(5位。1位「俺たちに明日はない」)「ローマの休日」(6位。1位「嘆きのテレーズ」)「七人の侍」(3位。1位「二十四の瞳」はともかく2位が「女の園」たぁどういうことだ)などの名作も1位になっていないような頼りにならないベスト10なので仕方ないと言えば言えるのかもしれないが、これはちょっと異常である。要するに「映画通」を気取った文化人たちがときにB級映画を持ち上げるのと一緒で、小難しい映画が高い評価を受けるのと対照的にわかりやすい映画はあまりいい評価を受けないのである。

 これは、言ってみれば映画という総合芸術の中の一つの部分でしかないテーマ性だけでその映画の評価が決まってしまうということであり、絶対におかしい。映画制作には金がかかるのであり、商業映画は興行的に成り立たなければ意味がない。従って、中学生が見てもそれなりにおもしろく、映画のマニアが見てもおもしろい。要するによほどの変人でない限り誰が見てもおもしろい、というのが映画の王道であり高く評価されてしかるべだと思うのだが、現状はそうはなっていないのである(だからといって「ジュラシック・パ−ク」のような興行的には当たっても空虚な映画を評価しろと言っているわけではない。誤解しないでほしい。)。
 黒澤の映画で言えば「生きる」とか「赤ひげ」のような「進歩的文化人」たちの好きそうなメッセージ色のある物はいいが(いずれも1位)、「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」(ベスト10評で「私は見ていないので入れなかったが」なんて堂々と書いている映画評論家!がいた)「用心棒」「天国と地獄」のような娯楽色の強い物はダメなのである。「七人の侍」では自衛隊との関係で、「天国と地獄」では警察の扱いでイチャモンがついた。「用心棒」は残酷だということで敬遠され、「隠し砦の三悪人」は娯楽色が強すぎて評価を落とした。
 そんな評価がまかり通っっているのだから、クレージー・キャッツの出演した映画などそれだけでもう絶望的である。「ニッポン無責任時代」や「クレージー黄金作戦」などは文句なしに笑える映画というだけでも十分評価に値するもので、そのうえ時代の空気とでもいうもの的確に捕らえたすぐれた映画だと思うのだが、初めっから論外とされてしまうのである。同様な理由で007の最高傑作「007ロシアから愛をこめて」なども評価は低い。

 逆に、社会派とでもいうべきなのかもしれないが、貧しくとも頑張って生きている、あるいは貧しさでこんなになってしまった式の映画になると、ええーっというくらい評価が高い。不思議である。竹下景子が脱いだということで見に行った「祭りの準備」など、田舎でいろいろあって貧しくて八方塞がりで、主人公が東京へ出て行くところで終わってしまって、「おい、本当にこんなんでいいのかよ」と思わせる映画なのだが、評価は意外というほど高かった。「サード」など総じて低予算のATG系映画の評価が高く、同列には論じられないものの、ベルイマンやフェリーニなどの芸術志向派の映画も(「野いちご」や「道」などの傑作は別にして)、ちょっと評価が高すぎると思う。
 映画を評価するおかしな基準としては、社会派の延長線上に政治色という評価があり、「二十四の瞳」や「ひめゆりの塔」「大いなる幻影」「アルジェの戦い」(これは例外的傑作)のような反戦・反権力的な映画の評価が高い。ところが、スペクタクル的なもの、ケーム的なものは、これはこれで画本来のおもしろさだと思うのだが、見せ物的ということで落とされてしまう。だから好戦的?+スペクタクルの「七人の侍」「ナバロンの要塞」などの評価は、あまり高くはない。ワイラーの大作「ベン・ハー」や、まだ評価が高くなかった時代のキューブリックの「スパルタカス」などは、スペクタクルというだけで評価を下げられてしまったような気がしてならない。黒澤映画の評価が典型的だが、日本の映画評論・批評は、どうも似非左翼的評論家がまかり通っていて、映画の本質以外の部分で評価が決まってしまうような気がするのである。

 もちろん映画というものが、ナチスドイツの例を持ち出すまでもなく、プロパガンタの機能をもっていること否定しない。しかし、いろいろな意見はあるにせよヒットラーの権威を世界に知らしめたベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」が映画としてのおもしろさを持っていたことは否定できないし、また、そういう部分のないプロパガンタ映画は所詮消えていくものと断言していい。残った映画には、プロパガンタを超えた何かがあるのである。
 くどいようだが、もちろんテーマ性での映画の評価はあっていい。しかし、それは映画の一部であることを認識する必要があると思う。映画は、映画そのもので評価したい。ファミリ−映画としては屈指の出来と思われる「サウンド・オブ・ミュージック」は、同じジュリー・アンドリュース主演の「メリー・ポピンズ」と比べても遥かに出来はいいと思う。ところが、そんないいかげんなパッピーエンドあり?と言いたくなるような「メリー・ポピンズ」の方が、アニメと実写の融合とかなどという理由もあってキネ旬での評価はずっと上だった。ナチス相手に闘うのではなく、アルプスを越えて「逃げて行く」部分が政治的評価を受けて映画そのもののマイナス材料になっていなければ幸いである。

 最後に、フランソワ・トリュフォー監督の有名なエピソードを書いておきたい。
 映画「アルジェの戦い」は、アルジェリアのフランスからの独立戦争を描いた、ジッロ・ポンテコルヴォという(私にとっては)全く無名の監督の作品である。私はこの映画をうかつにも劇場で見ておらず、大学祭で上映されたものを初めてみた。かつてのイタリア・ネオ・レアリスモを思わせるセミ・ドキュメンタリー的な手法で押しまくり民衆の独立への熱意が見事に描き出されていた。その戦い・テロの中で一般市民にも犠牲者が出ているところなど単なる正義の戦いにはしていない。独立派の問題点もきちんと描かれている。。加えてミステリ的な部分のあって飽きさせない。小泉首相ではないが、私は文句なしに「感動した」が、それは「主義主張」に感動したわけではない。この「映画」に感動したのだ。ところが、この映画がヴェネチア映画祭に出品されたところ、フランス大使館から、反フランス的な映画なのでと上映中止の圧力がかかった。
 事務局はその圧力に屈せず映画は無事上映されたのだが、フランスの映画関係者、評論家たちは上映の途中から次々と退席していった。その中で、唯1人、トリュフォーだけは最後まで残ってこの映画を見ていたというのだ。この話を私は双葉十三郎さんだったかの本で知ったのだが、映画を見たときと同じくらいに感動した。まさしくトリュフォーは、映画を映画そのもので、映画だけで評価しようとしたのだ。このトリュフォーの態度は今でも私が映画を見るときの大きな指針となっている。
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★ついでに、表現の問題に関連して「映倫」について書いた雑文も再録しておく。こちらも20年ほど前に書いたものである。
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映倫カット
 
 映倫のカットと言われている主にセックス場面に関するシーンカットおよびボカシについて書く。
 最近はビデ倫というのもあり、主としてAVビデオの表現が適切かどうか審査しているという。映倫もビデ倫も不要と考える私にとっては、いったい適切かどうかなんて何を基準にしているのだろうとついつい疑問を持ってしまうのだが、その根拠はどうやらアンダーヘアにあるらしい。ただし、ずーっとそれが基準だったわけではなくかつては乳首すらダメだった時代があり(昔の成人映画体験による(^^;)、その意味では多少の変遷はある。アンダーヘアも最近ではチラリと見えるくらいのことは大目に見るような風潮になったようだが、性器は未だにダメなようである。
 それでも、ミケランジェロ・アントニオーニの作品が映画祭に限ってOKされたことなど、かつてアントニオーニ「太陽はひとりぼっち」でモニカ・ヴィッティが絵の変わるボールペンをかちかちやると出てくる女性のヘアが見えるということでボカシを入れさせられたことを思うと、多少はマシになったようである。が、一般的にヘアが解禁されたわけではなく、ものによってはボカシを入れる必要があり、依然として絡みは不許可となっている。場面によってはスクリーンのほぼ全面にボカシが入っていらいらする、ということもあるのである。
 高校生の時に見た新藤兼人の「鬼婆」では、吉村実子が葦の原を裸で駆けるシーンでボカシが入っておらず、黒いものがチラチラすると話題になったが、そして私も映画館でそのシーンは注意して見たのだが、夜のシーンでもあり「よーわからん」という結論しか得られなかった。後にビデオでコマ送りで確認しようとしたが、やはり「よーわからん」かった。映倫には老人が多いと聞くが、ボールペンのヌードの件にしろ映倫にはよほど目のいい人がいるのだと感心してしまう。

 では、なぜそんな自主規制をするのかというと、「権力の介入を許さないため」というのが一般的な答えのようである。おいおい、自主規制している段階ですでに権力の介入を許してるじゃないか、と言うと、「いや芸術作品ならまだしもエロのためのエロはやはり社会にはびこらせてはいけない」という答えが返ってくる。いったい芸術かエロかの判断はどういう基準でするんだ、と思ってしまう。芸術作品かどうかとか、必然性があるかないかとかというようなことは関係ない。別に裸のための裸、下品で下品でどうしようもないくらい下品なエロのためのエロがあったっていいじゃないか、と私は思うのである。裸はどう撮っても裸であり、問題はもっと別のところにある。規制の問題をそんな次元で論じたくない。
 まず、青少年に悪影響を与える、というのなら映画はTVと違って入場料を払って入るわけだから、それこそ18歳未満お断りの「成人映画」にすればいいのである。R指定だとか成人指定ということについては、私も理解しないわけではない。こういうものは段階が必要なわけで、小学生にいきなり本番を見せていいとは私も思わない。しかし、大人にも見せないということになると、ちょっと待てと言いたくなるのである。

 すると、訳知り顔をしたおっさんが、必ずこんなことを言うのである。「いゃあ、あんたねえ、見えるか見えないかといったところにエロティシズムがあるのであって、全部見せてしまったら台なしになってしまうんじゃよ」と。
 こういう馬鹿が多いから全く困ってしまう。
 全部見せてもいいじゃないか、ということは別にチラリズムを否定しているわけではないのだ。議論をひん曲げてはいけない。すっぽんぽんの映画があってもいいし、チラリズムの映画があってもいいし、裸が出てくる哲学的な映画があってもいいし、ひたすらヤリまくるだけの映画があってもいいのである。それが「表現の自由」というもので、要は、制作者は基本的にフリーの手で作りたいものを作り、何を見るのかは観客が選べばいいのである。訳知りの言うように、すっぽんぽんよりチラリズムがいいとなれば市場原理からそういう映画が支配的になり、客が来ない儲からないとなればヘア・絡み・本番映画は淘汰されてしまうはずである。ただし、結果としてそうなることと、自主規制によって初めから選択肢が制限されていることとは、全く違うことをここでははっきりとさせておきたい。
 もう一つ、映倫の規制というのは恐ろしいもので、ボカシやカットが話題になる前に、実は制作者や監督が初めからそういうシーンを諦めてしまうという大きなデメリットを含んでいる、ということを知る必要がある。こういう表面化しない部分の問題が私にとっては一番怖い。セックスのシーンで手前に大きく椅子が映し出されていて肝腎な部分を隠していたり、場合によってはブラをつけたままレイプされたり、いざ本番というときにカメラが壁の絵を映し出してナニの声だけが聞こえたりするような画面がいかに不自然で不細工なものか考えてほしい。

 そんなわけで、私は、映倫などというものは全く不要だと思う。
 これは、極論でも何でもない。消費税の内税と外税ではないが、その方が、いかに自分たちが権力によって規制されているかがわかっていいと思う。権力というものは常にすべてを自分たちの手中に収めたがるものだが、映倫というクッションを間に唯々諾々と従っているようでは文化は発達しない。映画館のような限られた空間で限られた年齢層に対して行われる映画は、法律としての公序良俗にも猥褻にも違反しない。売れる・売れない・儲かる・儲からないという経済的なところで根本的に規制されてしまっているのだから、せめて表現するというその一点ではフリーでありたいものだと思うわけだ。
 芸術というものももちろん歴史の制約を受けてはいるが、歴史貫通的な部分もあり(本当はそれも歴史の制約の範囲なのだが、人の一生を越える何百年、場合によっては人間という存在がある限り通用するような、深い本質に根差した部分は、とりあえず歴史貫通的と言ってしまって問題ない)、それを現実の目先の価値観の中で判断しようとするとたちまち窮屈になって自由な発想が制限されてしまうのである。従って、同じ理由からエロだけでなく、右翼が南京大虐殺をテーマにした映画の上映に反対したり、左翼が戦争を美化するような映画に反対したりすることにも、私は断然反対である。
 映画には、作る自由と、上映する自由が必要なのである。そうした映画をテーマ性やヘアの有無(^^;など部分的なものではなく、映画全体として評価していきたい。

(ただし、今回問題にした制限の撤廃というものは、あくまで映画館という限られた空間で見ることを前提とした議論であって、TVのように基本的に家庭内で誰もが見られるメディアに関しては、また別問題である。ビデオに関しては年齢制限などによる貸出規制、放送に関しては一定の基準が必要だという意見に異論はない。ビデ倫は「この映画は○○歳以下には貸し出してはいけない」というようなことだけを決めればいいのであって、ボカシを入れるかどうかをチェックするところではないはずである。また最近の衛星デジタル放送などでもアダルト関係のものが放送されているが、これ関しては一種のパスワード入力を必要とさせるなど、何らかの制限があれば問題はないはずだ。)
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リス太郎

忙しく、また難しいので流し読みしました。ごめんなさい。
教科書検定は事実上の検閲ですね。独仏共通歴史教科書があるように日韓共通歴史教科書を採用すべきです。使うか使わないかは学校側の自由。
by リス太郎 (2019-11-12 10:43) 

アニマルボイス

いやいや、私の忘備録のようなものなので、読む・読まないは来られた方の自由ですよー。
by アニマルボイス (2019-11-12 11:00) 

wildboar

朝、|д゚)と見てゆっくり読ませていただこうと思っていたのに、夕食が終わった今でも、まだ読む時間がありません(T_T)/~~~
by wildboar (2019-11-12 19:43) 

アニマルボイス

言いたいことは最初の段落で尽きています。以前に書いた雑文には具体的な映画名が入っているので、わかりにくいようならこちらを読むといいのかなと思ってコピペしたものです。めんどうなようならスルーしてください。どうせ刮目するようなことは書かれていませんから。
by アニマルボイス (2019-11-12 20:15) 

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