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プルースト「失われた時を求めて」の思い出 [映画・文学・音楽]

 家族で温泉スパに行き、食事をして帰って来ました。なんとなくまだ温かい感じが残っています。気のせいか体も少し軽くなったような感じで快調。この快調さが明日になるときれいに消えてしまっているのが残念です。
(というようなことを書きたかったのではなく、別件でばたばたしているため明日のブログ更新はお休みします。明後日は久しぶりにIHさんからの新宿御苑の写真をアップする予定です。)

 11/3は「文化の日」。現在の日本国憲法が公布された日(1946年)です。明治期に天長節とされその後明治節とされた日でもあります。なぜそれが文化の日なんていうぼんやりとした祝日になったのかについてはGHQとのやりとりなどおもしろいのですが、ここには書きません[ダッシュ(走り出すさま)]
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 本日のブログは、文中にも書いておきましたが、私の読書忘備録です。今までこのてのものは「迷走ダイアリ」
https://meisoud.blog.ss-blog.jp
 のほうに書いていたのですが、So-netがわけのわからないSSに変更されて、2本のブログを立ち上げようとするとうまくいかなくなってしまいました。仕方がないので、文学、映画などの感想、雑文などもこちらにアップすることにしました。歳とともにボケが進み、今回のプルースト「失われた時を求めて」の主人公(語り手)のように過去を全面的に思い出すこともなく、思い浮かぶ断片をだらだらと書いていたら、ずいぶんと長くとりとめのないものになってしまいました。読んだところで何の役にも立ちません(キッパリ(^_-)-☆)。あくまで個人の忘備録ですので、スルーを推奨します。

 先月、時々訪れる某プログを読んでいたら、電車の中でプルースト「失われた時を求めて」を読んでいる女性のことが書かれていた。あの作品を電車の中で読もう(読める)というのが、ともかく凄い。私にはそんな芸当はとてもできないが、読んだことはあるので思いつくまま書き留めておくことにする。

 私がプルーストの名前を知ったのは、1960年代初めにロバート・アルドリッチ監督(「ベラクルス」「ロンゲストヤード」)の映画「ソドムとゴモラ」が公開されたころだ。当時の映画は大作史劇がブームで、「ベン・ハー」「キング・オブ・キングス」「エル・シド」などの音楽をてがけたミクロス・ローザが音楽を担当しているというので、見に行ったわけだ。が、映画自体は平凡な出来で発色も悪くつまらないものだった(題材は旧約聖書)。
https://www.youtube.com/watch?v=6Fy_pmErDg4
 その直後に本屋で「ソドムとゴモラ」という新潮文庫を見つけた。
 映画を当て込んでプルーストという作家が書いたノベライゼーションかと思ったので気になった。「戦艦バウンティ」のように映画はイマイチでも原作はおもしろいことがあるのだ(反対に「ベン・ハー」の原作はつまらなかった)。「聖書」など読む気もない無信仰ダメ人間としては、映画をノベライズしたスペクタクル小説があるのなら、ぜひ読んでみたい。
 ところが、パラパラと内容を見るとそんな古代の話ではなく、20世紀初頭の話のようである。映画のような合戦シーンなどありそうもく、所謂「地の文」が延々と続いている。これはいったい何なんだとその文庫本はとりあえず本屋の棚に戻した。それでもやはり気になるので、後家に帰り、プルーストという作家のことを百科事典で調べてみた。それでようやく「ソドムとゴモラ」は、マルセル・プルーストというフランスの作家が書いた「失われた時を求めて」という大長編の一部だとわかった次第。
 要するに、大作家プルーストを知らなかったわけで、いやはや、どうしようもないですなぁ(^^;。

 その時は、なんだかバカ長い小説なんだなぁと思っただけなのだが、その後、あれこれ文芸評論など読んでみると、この「失われた時を求めて」を20世紀最高の小説とする人が「意外に」(←個人の感想です)多い。ただ、この小説、推奨している人たちは本当に読んでいるのかと思えるくらい、ともかく長い。ルナール「博物誌」の「蛇」ではないが「長すぎる」と断言しても誰も反論しないと思う。それまでに私が読んだ最も長い「純文学」(こういう区別は好きではないが)の小説はトルストイの「戦争と平和」だと思うが、それよりも遥かに長い。倍はあるはずだ。
 しかも、「戦争と平和」ならナポレオン戦争の攻防、「カラマーゾフの兄弟」なら父親殺しといった「ポイント」があるのだが、「失われた時を求めて」にはどうもそういうものがないようなのだ。百科事典を読んでもいったいどういう小説なのかピンとこない。
 となると、これはもう読むしかない。
 ただ、こういう構造が複雑で多くの人間が錯綜する大長編を読み通すには、時間と体力と何が何でも読み通すぞという決断が必要となる。しかし、「凄い小説」という先入観があり、しかも気を失うほど長い、ちょっと構えてしまうというか、ビビってしまうというか、迷ってしまうというか、その決断がなかなかできない。決断するまでにあれこれ迷っているうちに疲れてしまいスタートが切れないことも当然にある。
 「失われた時を求めて」は有名な小説だが、しかし、完読した人が少ないだろうことは容易に想像出来る。しかし、それが、名古屋人の私のやる気に逆に火を点けたのだ。読もう!決意したときにはもう社会人になっていたが、その決意には何よりも名古屋人特有の「見栄」が重要だったのだったと思う。ただひたすら、「読んだぞー!」と皆に自慢したいだけのために、無謀にも私はこの大長編に挑んだのだった。
DSC_5658.jpg
 選んだ本は、筑摩書房世界文学大系の「プルースト」。
 というか、新潮文庫から何人かの共同訳は出ていたものの、個人訳は筑摩の井上究一郎訳しかなかった。今では各氏の訳が出ているのだが、当時は選択の余地などなかったのだ。予告では全3巻で、第一巻には第1篇、第2篇が収録されており、菊判8P3段組みで628ベージもあった。ちなみに全3巻という予告は予想通り噓であり、第2巻と3巻はそれぞれA、Bに分割され全5巻になった。次の巻が出るまでに1年以上あったときもあり、しかも、訳者の高齢を考え、訳が完成したところから出していこうという苦肉の策からだろうと思うのだが、第3巻はBのほうがAより先に出版されるという大暴投もあった(^^;。Aの前にBを読もうという人などまずいないのだから、筑摩書房は内容のある本を出してくれる出版社だが、いくら何でもこのあたり少し考える必要があったのではないかと思う。
 ちなみに筑摩書房の「約束違反」としては、私がまだ名古屋にいるときときに買い出した筑摩の「世界古典文学全集」は第一巻(確か「ホメーロス」だったと思う)が出たのが1964年。毎月1冊刊行と予告されていたのだが、全50巻54冊が完結したのはナント2004年。40年もかかっているのだ。当初の計画が甘く杜撰だったと言わざるを得ない。出版社として1番大切なのは読者だということを考えると、筑摩書房の出版計画には、やはり問題があったと断言したい。
 閑話休題。
 感想の前に、「失われた時を求めて」はどんな構成からなっているのか、全体構成をあげておく。
第1篇 スワン家のほうへ 1913年
第2篇 花咲く乙女たちのかげに 1919年
第3篇 ゲルマントのほう 1921年
第4篇 ソドムとゴモラ(私が映画を「原作」と勘違いしていたのはこれ)1922年
第5篇 囚われの女(以下、未定稿)1923年
第6篇 消え去ったアルベルチーヌ 1925年
第7篇 見出された時 1927年
 ちなみに、読了したのはもうずいぶんと前のことであり(1990年代だったと思う?)、最近ボケてきているので、記述が前後したり間違っていたり誤解していたりするところもあると思う。いゃ、まちがいなくある(きっぱり)。それくらい自分でもほとんど理解出来ていない読書とも言えない読書だったと思う。しかし、今のボケの進行の早さを考えると、そのうちに読んだという記憶すら失われてしまうかもしれない(^^;。いや、まちがいなく「失われた時を求めて」だ。忘備録を書いておこうと思った所以である。そんないいかげんな人間が書いている雑文なので、万が一つき合って読んでくれている人がいたとしたら、くれぐれも書かれていることを信用しないでほしい。m(__)m

 第1篇「スワン家のほうへ」の第1部「コンブレー」の冒頭は、
「長いあいだに、私は早くから寝るようになった」(井上究一郎訳。以下同)
 という、有名な一文で始まっている(この冒頭の「半過去」の扱いについてはいろいろな議論があることは知っているが、ここでは立ち入らない。というよりフランス語に疎い私では立ち入れない(^^;)。大長編だとしても最初の1行なので、ここだけは読んだという人は多いのではと思う。不眠症と思われる主人公(話者)の脳裏には、毎夜うつらうつらとする間に過去のいろいろな出来事が浮かんでは消える。しかしそのどれもが明確な輪郭をもたず断片的なもので、そういえばあのときこんなことがあったなぁというようなもの。これは私を含めて誰もが過去を思い出そうとするときに経験のあることだと思う。そんなある夜、プチットマドレーヌの混じった紅茶を口にした味覚からかつてコンブレーでの紅茶が思い出され、
「・・・全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである」
 心の奥底に沈んでいたコンブレーの記憶全体が鮮やかに具体化された、これまた有名なシーンである。この第1部は、近隣に住むスワン氏やその娘のジルベルトなどかつてコンブレーで知り合った人々なども紹介した後、「私」が目を覚ますところで終わるという見事な構成である。

 第2部「スワンの恋」では、その十数年前の物語でスワン氏が娼婦オデットに恋をし、翻弄された末けちょんけちょんに手ひどくフラレル顛末が描かれる。他の章とは少し、いやかなり異なった雰囲気があってちょっと戸惑うがこの一編だけ独立させても十分に中編小説として成立する出来映えにある。正直、第1部のあまりに淡々とした進み具合にいさか退屈してきた私にはこの第2部はとてもおもしろかった。その失恋したスワン氏が、恋愛の熱もさめたころ、スタンダールのザルツブルクの小枝よろしく、なんであんな女に熱中したんだろうと吐き捨てるあたり、失恋経験のある人なら「わかる、わかる」と賛同するはずである。もっとも、スワンの恋のパックグラウンドにはオデットに誘われて行ったサロンで演奏されていたピアノソナタが基底音のように流れているのだが、クラシックの素養のない私にはもう一つよくわからなかった。
 ところがだ、時制が戻った第3部「土地の名、名」になると、なんとスワン氏とオデットは結婚していて、ジルベルトという娘までいるのだ。おいおい、いくら好き者同士だといっても、いいかげんにしろよ、とつい言いたくなるではないか。

 第2篇「花咲く乙女たちのかげに」は、以前、河出書房の豪華版世界文学全集にこの巻だけが収録されていた。ゴンクール賞を受賞したと書かれていたので(どんな賞なのかは知らず)名作だろうと読み始めてはみたのだが、途中でわけがわからなくなり脱落。ただでさえ複雑に入り組んだこの小説を、いくら全体のあらすじが示されているとはいえ、いきなりこの第2篇から読めというのは無理がある。筑摩版での再挑戦となった。
 第1部「スワン夫人をめぐって」では、ジルベルトとの恋の様子が描かれるが、これは第1篇第3部「土地の名、名」に続く話で、ここから読まされたのでは、いったいこれは何だと迷ってしまったのも無理はない。そのジルベルトとの恋も自然消滅。いわゆる「性格の不一致」というやつだ。ここでもピアノソナタが一つの流れを作っていて、クラシック音痴はここでもまた悩んだりするわけである。
 第2部「土地の名、土地」(1部の2年後)では主人公は北フランスの避暑地にやって来て、スワン氏から聞いていた教会建築の美術的考察や、上流階級の娘たちとのやりとりなどが描かれる。なんといっても「花咲く乙女たち」なので好き者の主人公は、いろいろな女性にちょっかいを出すのだが、本命アルベルチーヌにはキスを拒絶されてしまう。なぁんて書いているが、実は、このあたりからかなり記憶が曖昧なってきているのだ。主人公はピアノ教師や作家と出会い、当然のように音楽談義、文学談義が交わされるのだが、こちらの無知故についていけない。ナントカ(名前を忘れた(^^;)公爵夫人にあったり、第3篇で本格的に登場するゲルマント公爵の弟に会ったりするのだが、そうした「上流階級」の生活というものが、縁のない私にはどうしても具体的にイメージ出来ないのも、読み進めるのが苦痛になってきた一因と言える。

 というわけで、第3篇「ゲルマントのほう」以降は、意地になって活字を追ってはみたものの、それは到底「読む」という行為とはほど遠いものであったことを告白しておく。主人公はパリに引っ越すが、この主人公、希代の好き者でこんどはゲルマント侯爵夫人に対するほとんどストーカー。ドレフュス事件(ユダヤ人ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕された有名な冤罪事件)が話題になり、おおっ世界史で習ったことがあるぞと思ったことだけは、けっこうはっきりと覚えている。その後、確か祖母の死があり、以前、キスを拒絶されたアルベルチーヌとようようキスをする。おいおい、どっちが好きなんだ?と思っていると、キスの魔力かゲルマント侯爵夫人への欲望はいつの間にか冷めてしまっているといったぐあい。まさしく第1篇第2部「スワンの恋」と同じじゃないか。オペラの話など出てくるが、歌劇というものにあまり興味のない私は完全にお手上げ。

 第4篇「ソドムとゴモラ」になるとさらに記憶は薄らぎ、なんだか同性愛についての考察が延々とあったことくらいしか覚えていない。同性愛を否定するつもりはないが全く興味のない私には、はっきり退屈な進行だった。おまけに、結婚しよう考えていたアルベルチーヌまでレズビアンであることがわかる。そのあたりがタイトルとも関係しているわけだが、古代史劇スペクタクルの映画とは全く関係ないのは、すでに書いた通り。

 第5篇「囚われの女」も同性愛の話が続き、うんざり状態も続く。レズビアンであることがわかり結婚を断念しようかとまで思ったアルベルチーヌとパリで同棲生活を始めるのも第1篇のスワン氏のパターンと同じ。まあ、こういう同棲はうまくいかないぞと思っていると予想通りストレスオーバーフローになり、主人は別れを切り出すのだが、直後アルベルチーヌは姿を消してしまう。

 そして、第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」(井上訳では「逃げ去る女」)でも同性愛の物語は依然として続いている。くどいようだがもう一度書いておく。同性愛を否定する気はないが、全く関心がない私としてはなぜそうしたことで悶々としなければならないのか実感がわかず、それが延々と続くのである。分量的には第4篇以降の同性愛部分だけで「カラマーゾフの兄弟」よりも長いくらいで、正直、活字を追うのが辛かった。主人公は、乗馬での事故でアルベルチーヌが亡くなった(おおっと「風と共に去りぬ」の父親や娘の死因と同じだ(^^;)ことを知り悲嘆にくれるわけだが、ヴェネチアに行くころにはそれもほとんど消えてしまっている。去る者は日日に疎しとは言うものの、あの「悶々」はいったい何だったんだと、一言問い糺したい。パリに戻って、第2篇第1部での恋愛対象ジルベルトの結婚を知ったりもして、この巻終り。ホッ。それにしても、第3篇以降は読むのがつらかった。理解もなく読み進めるのは苦痛以外の何ものでもないが、しかし、ここまできたら名古屋人の見栄と意地をかけても読了したいと決意。

 そして、いよいよラストの第7篇「見出された時」
 主人公は療養生活からパリへ行ったりまた療養に戻ったり、文学に懐疑的になったり、文学に対する自己の才能と文学のもつ力を確信したりと忙しい。SMがあったり、ジルベルトの夫が戦死したりと周囲も忙しい。プルースト死後の刊行ということも関係しているのか、少し書き急いでいるような気がしないでもない。主人公は再びパリにやって来るのだが、ゲルマントの邸宅の敷石につまづいた瞬間、ヴェネチアでも同じような体験をしたことを思い出す。と同時に忘れていた過去の記憶が次々とわき上がり、全体像として浮かび上がって来た(第1篇第1部「コンブレー」のプチットマドレーヌの混じった紅茶ときと同じネ(^^)/)。私なら石につまずいたらギックリ腰になるのがオチだが、それで過去の全体像が再び浮かび上がってくるとは、さすが芸術家はちがう。
 こうして全面的に浮かび上がった生々しいまでの過去と比べて現在(現実)はどうだ。主人公の眼前に存在する、ゲルマントのパーティーには、すっかり年老いた人々が並ぶばかりである。時というものの残酷さを見せつけられるわけで、つまりそれは、主人公自身にもそれほど長い時間は残されていないということだ。
 ここに至って、主人公は、そうした時の流れに抗した、確固たる何かを文学の上に定着しようと決意するのだった。主人公はプルーストそのもので、時の流れに風化されない文学とは、まさしく延々と読んできたこの小説そのものだと誰もが思うはずである。感動的なラストで、途中かなり嫌になっていた私も、ここにきてようやく目が覚めたゾ(^^;。
 長い長い永遠に続くかと思われた物語は、こんな一文で締めくくられている。
「・・・そうした人間たちは、多くの歳月の投げこまれた巨人として、あのように多くの日々がそこにはいってきて位置を占めたあのようにへだたったさまざまな時期に、同時にふれるのだからーー時の長いあいだに。」

 時代はかわり現在では「失われた時を求めて」の翻訳は、私が苦労して活字を追った井上究一郎訳のほかに、集英社文庫(鈴木道彦訳)、光文社古典新訳文庫(高遠弘美訳)、岩波文庫(吉川一義訳)などが出ている。それぞれに微妙な工夫があり、たとえば冒頭の一文は、
「長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった」集英社文庫
「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」光文社古典新訳文庫
「長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた」岩波文庫
 これを、
「長いあいだに、私は早くから寝るようになった」という私が読んだ井上究一郎訳と比べるとずいぶん読みやすいように思える(気のせいかもしれないが(^^;)。が、全編を通してすらすらと読めるかというと、確認してはいないが、そうではないと思う。その原因の一つはプルーストの文章(文体)にあると思う。原本を見ると文章の一つ一つが異様に長い。フランス語の意味はわからなくても、文章の一つ一つが長いことくらいは、私にもわかる。たとえば、こんな感じの文章なのだ(以下の一文は私の創作です)。
「出かけようかどうしようかさんざん迷ったあげく、とうとう出かけようと決心はしたものの、玄関を出て数歩歩いたところでベランダの鍵は閉めたのだろうかと気になり始め、確認すべきかどうか考えた末、いや確かに閉めたはずだと結論はしたのだが、それでも一度気になった心配事が消えてくれることはなく、やはり確認すべきだろうと溜息をついてから玄関の鍵を開け、ベランダの鍵を確認したところきちんと閉められてはいたのだが、このころにはすっかり出かけようという意欲は消え失せており、私は、出かけないことに決めた」
 さっさと決めろよ、と言いたいところだが俗にいう「意識の流れ」を描く小説とはこういうものなのだ。主人公のああだこうだ、なんだかんだという意識の流れにつき合うしかない。

 そのつき合う根気が今の私にはもうないような気がする。
 ドストエフスキーの諸作のようにちがう訳者でもう一度という気になれないのだ。が、それはただ文体だけのものではなく、これまでの私の生活とは全く縁のない上流社会特有の雰囲気になじめないめないこともあるのではないかと思う。これといった仕事もしていない「恋愛体質」の主人公がちょっといい女がいるとすぐ好きになりくっついたり離れたり、ふられたりして「深刻」になったり悩んだりしたところでスワン氏ではないが、それが何だというのだ。貧乏人の老人としては、いいご身分で他に悩みはないのかとつい問い糺したくもなる。もちろん、私が、作中で語られる建築、絵画、音楽、料理などについての知識をほとんどもっていないということも大きな要因だ。「負」の要素がこれほどまでに積み重なると、無知無縁の生活をおくっている私としては、どうでもいいじゃないかそんなことと思えてしまうのである(要するに理解出来ないことへの弁解と負け惜しみである(^^;)。
 この小説を読み終えるのには、何回もの中断を挟み、累計一年近くはかかっている。
 が、その月日に比べて、ともかく読んだぞーということ以外に感動、達成感というものはあまりなかったと思う。その点ではプルーストに申し訳なくも思うのだが、まさしく、これは読者を選ぶ小説で、読者のレベルに合ったものしか与えてくれないのだ。つまり私にとってこの小説を読んでいた期間は、こちらの未熟故の「失われた時」だったのかもしれない。が、その失われた時を未だ私は「見い出」してはいない。ううむ・・・[もうやだ~(悲しい顔)]
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アニマルボイス

このヨタ記事にniceをつけてくれたwildさんに感謝。(^^)/
by アニマルボイス (2019-11-03 10:21) 

wildboar

ちゃんと、読んでいますよー。
今、1篇第2部「スワンの恋」のところです。タイトルだけは知っていました。
by wildboar (2019-11-03 12:56) 

アニマルボイス

えええー、読んでるのーー。
びっくりポンやぁ。
by アニマルボイス (2019-11-03 14:02) 

JUNKO

スマホの文庫で文字を大きくして読むことができるようになり、最近少し本に戻っています。眼鏡をかけると頭痛がするようになり、かなり本から離れていました。それでも断捨離できません。何時か孫が本棚の本に関心を持つかななど、儚い夢を抱いています。
by JUNKO (2019-11-03 16:57) 

アニマルボイス

出版社に勤めていたこともあって、やっばり紙の本には愛着があります。背革のしっかり作られた洋書など見るとつい買ってしまいたくなって困ります。
ただ、若いころに買った文学全集などはたいてい8P(ポイント)2段組み(今回のプルーストはなんと3段組み(^^;)なので、歳をとるとよく見えません。(;_;)
by アニマルボイス (2019-11-03 17:12) 

wildboar

よく書いたねー。
ただいま、名古屋人の意地で読了しました。
「失われた時を求めて」なんて、カッコイイなと昔から思っていましたが、どんな中身か分かってありがたかったです。
by wildboar (2019-11-03 20:20) 

アニマルボイス

この1/10くらいのつもりで書き出したのですが、書いているといろいろ思い出すこともあり、本棚から久しぶりに本を取り出してきて確認したりしていたら、だらだらと長くなってしまいました。
中身がわかったということなので多少は書いた意味があったのかも。名古屋人の意地に乾盃!
by アニマルボイス (2019-11-03 20:30) 

リス太郎

いつも尊敬してるんですが読書家ですね。
by リス太郎 (2019-11-04 05:01) 

アニマルボイス

高校生のころは、世界と日本の名作は全部読んでやろうと思っていました。今は、もうだめですね。第一、細かい字が見えません。(;_;)
by アニマルボイス (2019-11-04 09:59) 

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