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スティーヴン・キングとプロレスと「Saki-咲-」 [映画・文学・音楽]

 学術会議からの任命拒否問題。ガースーから毒パンケーキでも食わされたのか、マスゴミは学術会議は今のままでいいのかなんてうんこ垂れ流している。今までそのまま任命すると国会でも答弁していたのを180度変更し何の説明もない(国権の最高機関である国会とは何なんだ)ことと、学術会議の組織問題は全く関係ない。以前にも書いたが、これは将棋を指しているときに突然「玉」は四方八方どこまででも進めるんだといきなり規則を変え、いやそれはおかしいと言われたら、今までの将棋の規則がおかしいのだからとわめいているのに等しい。いくらマスゴミとはいえ、まず任命拒否の理由を明らかにしろと迫るのが筋だと思うのだが・・・。トランプに名指しで非難され全くひるまなかったCNNの記者を少しは見習って欲しいと思う今日この頃ではある。
↓なぁんて、書いていたらガースーは除名された6人の名簿(要するに学術会議が提出した名簿)は、見てないんだって。本当だとすれば、いつ、どこで、誰が、どういう権限でどういう理由で6人を除外したのか、その詳しい経緯を知りたいもんですなぁ。これって、任命権のある総理大臣をないがしろにする行為だと思うのだが、おいガースー、お前こんなバカにされて、黙っていていいのか?
https://mainichi.jp/articles/20201009/k00/00m/010/185000c
https://mainichi.jp/articles/20201009/k00/00m/010/281000c

 はい、今日も老人の「忘備録」です。くだぐだ思いつくままに書いているだけで、皆様の役に立つなんてことは皆無ですので(^^;、スルーしてください

 女子高生たちが麻雀に興じる「Saki-咲-」という実写版の映画を見たら意外におもしろいので(とはいえ、基本的なルールなどはテロップで説明されるが、麻雀をやったこともない人には「さっぱり」映画だろう)、ネットで見られるアニメをいくつか拾い見していたら、スティーヴン・キングが思い出された。・・・ということから、あれこれ思いつくまま書いているのだが、まあ半分以上は年寄りの意味もない愚痴なので、「愚痴好き」という奇特な人以外はスルーをお薦めする。所詮は、「生産性」のない老人の戯言なのだから。

 スティーヴン・キングといえば言うまでもなく「モダン・ホラーの帝王」。作品が次々と映画化されている。私が初めて見たのは「キャリー」(監督ブライアン・デ・パルマ)で、あのラストはいわばホラー映画の定番になった(ネタバレしないように書いている)。その次に見たのが「シャイニング」(監督スタンリー・キューブリック)。どちらも話題になった映画だが、正直、私にはあまりおもしろくなかった。そのため「クリープショー」「ミスト」「IT」「1408号室」などはビデオ、テレビでの視聴となった。どれも、腹が立つほどの駄作ではないが、かといって何度も見たいというものでもない。キングは「スタンド・バイ・ミー」「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」などホラー以外のものも書いており、とりわけ「スタンド・バイ・ミー」は私の一回り下の世代には人気が高いが、私には退屈な映画だった。

 もしかすると実はキングの原作は映画には合わないのではないのかと思ったのは、「シャイニング」を見た後のこと。それなりに評価する人もいたが、私にはどうもキューブリック監督が空回りしているようにしか思えなかったのだ。そこで、原作を読んでみることにした。いくつかのシーンや人物が映画ではカットされているが、これは文庫本2冊の長編を2時間ちょいの映画にするのだから、仕方がない。しかし、植え込みのシーンなど実に映像化にもってこいなのだが、全体がカットされている(ネタバレしないように書いている。後に見たテレビシリーズでは映像化されていたが)。こんなおもしろくなりそうなシーンをなぜカットしたのか不思議だが、キューブリックは故人になってしまったので訊くことはできない。まあ、出来としては原作のほうが映画より一段よく出来てはいるのだが、しかし、重要そうに紹介された人物がたいして重要でもなかったり、やっと現場にたどりついた人物があっさりやられてしまって何の役にも立たなかったり、変な不完全燃焼が残った。

 そこで次に「シャイニング」の前に出版された「呪われた町」を読んでみた。今さらこの小説を読む人がいるとも思えないのでネタバレ承知で書くが、「現代版吸血鬼伝説」のお話である。ある田舎町になんとなく得体の知れない人物が越して来て、その町では次々と人が消えたり不思議なことが起こる・・・という定番ストーリーだ。話の途中で親しい人が吸血鬼化してしまい、というのもこれまた定番。終始定番をなぞっているので話のまとまりはあるのだが、この作品でも何か不自然さというかもやもやを感じながら読み進んだ。
 というのも、ある人物が出てくる。すると、キングはその人物が子どものころはこんなことがあった、青年期にはこんなことがあった、その後いろいろあってこんなことを考えながら今の仕事についているというようなことを書き出すのだ。では、その経歴が本筋と関係してくるのかというと、ほとんど関係ない。本筋を中断しての経歴説明がようやく終わり、さあどうするのかなと思っていると、呆気なく殺されてしまったりする。

 翻って思い出してみると、「シャイニング」に感じたもやもやも、さして本筋に関係ない(と、私には思われる)登場人物の生い立ちが細々と書かれていることに起因しているという結論に至った。そういう作風の作家なのだ。これを「キング作品の厚み」という人もいるようだが、私のようなひねくれ者は、そうは思わない。これは単なる、
 枚数稼ぎだ。
 海外の場合、「語数」で原稿料計算をするので、語数稼ぎと言い直してもいい。確か、キングは順調に小説が売れるようになるまでは、トレーラーハウスで生活していたほど困窮していたはずなので、少なくとも初期の頃は、作品を1語でも多くして1セントでも多くもらいたいと思っていたのが、この書き方につながったのだと私は確信している。にもかかわらず、登場人物たちの精緻かつ重厚な描写が作品にリアリティーを与えている、なぁんていう人がいるのだから、作家も売れてしまえば楽なものである。

 で、急に話が飛ぶが、この「枚数稼ぎ」で私が連想するのが、近年のまんがの異様なほどの長さである。半世紀以上も前のことだが、少年サンデーで連載されていた手塚治虫の「0(ゼロ)マン」を読んで、おもしろいのだがやっぱりこれだけの「大長編」になると手塚さんといえども途中ちょっとダレルなあと思ったものだ。冒頭とラストはとてもよく考えられたものなのだが、あれだけ大問題として扱かわれたロケットが結果として何の意味ももたなかったというのはやはり「残念」というしかない。それでも、この「大長編」、手塚治虫まんが全集のわずか4巻にすぎない。今の何十巻も続く「大長編」まんがと比べれば、ほとんど短編だ。

 例が古くて申し訳ないが、「天才バカボン」や「ドラえもん」「ゴルゴ13」「こち亀」などは短編集だと思っているので全体がいくら長くても除外するとして、最近のまんがの異様なほどの長さの構造式は、
 「プロレス方式」
 にあると思っている。「キング方式」ではまだそれなりに健在だった長編という枠を実質的に取っ払ってしまった物で、当面の敵を撃破すると次の敵が現れというゲームでおなじみのパターンだ。これなら新しい敵を考えだせばある意味無限に話を続けられる。全話読んでいるわけではないのであえて断言はしないが、「キン肉マン」「ドラゴンボール」などほぼこのパターンだと言っていいと思う。人気があるのでできるかぎり続けたいという編集者とまんが家との意向が合致した結果の産物と言える。では、いつ終わりになるのかというと、人気がなくなったときか、まんが家がさすがに止めたいと言い出したときということになる。

 さらに話は脱線するが、このプロレス方式を生み出したというか確立させたのは梶原一騎ではないかと思う。たとえば「巨人の星」。星が甲子園で花形に破れるまではそれなりに考えられていて、よくできていたと思う。ところが球が軽いというだけの理由で2軍に落とされたり(あれだけのスピード、コントロールがあったら絶対にあり得ない)、ただ足が速いだけの奴が出てきたり、外国人選手が出てきたり、大リーグボールが1号、2号、3号と出てきたり(この3号に至っては寺田ヒロオ「スポーツマン佐助」の完全なパクリなのだが、梶原が怖いのか指摘する声があまりなかった)延々と引き延ばしてやっと終わった。と思ったら「新・巨人の星」。星は左投げだったのだが肩を壊して引退したはずだった。ところが、それはもともと右利きだったのを野球に有利ということで強制された左利きであり、右利きならまだまだいけるとリスタート(^^;。終わったとおもったら、次々と付け足しのような新事実?が出てきて、おっさん(当時(^^;)としては、とてもついていけなかった。つまり、冒頭の何話かで脱落したわけだ。

 この図式は、「明日のジョー」になるともっとわかりやすい。
 矢吹ジョーがボクシングに目覚め、力石に破れるまでは、「巨人の星」の甲子園決戦までとまるで同じパターンだが、よくできていた。が、その後はもっとわかりやすいプロレス方式で、東南アジアの野生ボクサー、韓国のむっつりボクサー、チャラ男ボクサーとあれこれ出てきて、最後は世界チャンピオンとの対戦で幕。今の風潮なら減量が難しくなって階級を上げ、またまた試練の道が続くということになりそうだが、ジョーの死(と、私は思っている)でとにもかくにも終わらせたのは、梶原の良心だったのかもしれない。

 さてさて、それから数十年、プロレス方式まんが全盛の時代にあってさらにトンデモまんがが出現した。
 最近(世の中の流れにつていいけない年寄りは何事も知るのが遅いのだ)、「キング方式」と「プロレス方式」を合体させ、さらにほんの少し関係のあるもので同じくらいの長編を作り強引に合体させていくというおどろくべきまんが(私が見たのは実写版とアニメ)に出会った。美少女麻雀まんがとして一部フアンに受けている(らしい)「Saki-咲-」である。
 ということで、話は初めに戻る。
Saki-咲-.jpg
 見たのは、このところ人気上昇中の浜辺美波が清澄高校1年生の宮永咲を演じた実写版が最初。タイトルからも彼女が主人公であることがわかる。ドラマは咲が麻雀部に入部するところから始まる。両親は別居していて、東京にいる姉は麻雀のインターハイチャンピオン宮永照。麻雀を通じてなら姉と話ができるはずだと、まずは県予選突破を目指す。咲の麻雀部入部から各部員との交流が連続ドラマで、その後の長野県予選の模様が劇場版。こんなにリンシャンだハイテイだと何回も連続で積もれるなどあり得ないのだが、まあ絶対ないとは言えないのでフィクションだと思えばそれなりにおもしろく見られた。要するに梶原まんがにおける「巨人の星」の大リーグボール1号のようなものか。

 問題は、その後だ。
 (ネタバレになってしまうが)清澄高校は団体戦で優勝するのだが実写版はそこまで。その後が知りたくてアニメ版を見ると咲は個人戦でも全国への出場を決める。
 ところが、次は全国大会だろうと思っていると第2弾として「咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A」なる別のお話が始まった。一応、清澄高校でのの咲の友だち原村和がかつていた学校だということなのだが、それ以外の共通点は見いだせない。清澄ではなく阿知賀高校の話で咲は話の本筋には全くではないものの、ほぼからんでこない。今までの小説や映画なら本筋とは別のサイドストーリーと言うべきもので(最近は「スピンオフ」なんていうことが多い)、この別ドラマに「咲-Saki-」とタイトルにつけるのは明らかに詐欺だろう。この詐欺タイトルのままアニメが作られ、実写ドラマが作られ、映画まで作られた。まあこれだけ延々と作って途中敗退では意味がないので、準決勝で阿知賀と咲の姉・宮永照(強い!)のいる白糸台とが決勝に進むところまではわかった。
 その後、アニメの第3弾「咲-Saki-全国編」が始まったのでいよいよ咲と姉の照との対決があるのかと思ったら、第2回戦(準々決勝)までで終了。その後はアニメも実写版も作られていないので、話は遅々として進まない。なぜこんなことになるのかというと、第1弾「咲-Saki-」にも(それほど不自然ではない程度に)見られた「キング方式」がこれでもかというくらい差し込まれてくるからである。
 「キング方式」の単純計算では清澄以外の麻雀相手3人の生い立ちや過去のエピソードが挿入される。で、団体戦は5人で行われるため3×5=15。準決勝戦、決勝戦だけでも30人の「キング方式」が成立する(さらに県予選では団体戦には出場せず個人戦のみ出場するという選手もいて、この選手にも当たり前のように「キング方式」が適用されていた)。

 もともとファンタジーといえる異常な和了が頻発する話なのだが、それが全国編になると飛躍的に増え、もはやオカルト麻雀物語となっている。牌山の奥を支配する能力、手牌にドラが集まる能力、温かい牌(字牌など赤が入っている牌)が集まる能力、他家の配牌を5向聴以下に下げる能力、一巡先(ときには三巡先)を見る能力、追っかけリーチ一発ツモの能力、見つめた相手の能力を塞ぐ能力、神が降臨してくると場を支配してしまう能力、そして宮永照の東一局で相手の能力を見切ってしまう超能力・・・等々、まさしくオカルトの世界が渦巻いているオカルト対決だ。全国大会はこうした妖怪もどきばかりの麻雀になってしまうので、私には「捨て駒」と言われながらも健気にがんばる福岡の高校生・花田煌(はなだきらめ)などのほうが、よほど親近感がもて応援したくなったものだ。
 そして、こうした超能力者はもちろん、そうでない人物についても「キング方式」で子どものころどうだったとかどんな高校生だったかがその都度語られるのだ。それも、時制を変えて2度も3度も語られることがある。全国篇、阿知賀編(後半は全国大会が舞台になっている)ともにこんな調子なので、これでは、本筋が進むわけがない。

 いったいどうなっているんだと思いネットで調べてみると、原作のまんがは2006年に開始されてまだ終わっていない。2年前にようやく全国の決勝戦が始まって、今、次峰戦(清澄高校で最も存在感のない、メガネの染谷まこ)をやっているところのようだ。おいおい、先鋒、次峰で2年もかかったのかよ。というか、こりゃあ今年中に次峰戦終わらんな。来年早々に終わったとしても、残り中堅、副将、大将と後3人。咲の出る大将戦はしつこくやるんだろうから決着が着くまでに5年はかかるなぁ・・・。
 と思ったところで、気がついた。
 姉の照は白糸台の先鋒なので、清澄の大将である咲との団体決勝での直接対決はない。てぇことはだ、団体戦の後の個人戦で対決ということなのか。今のペースで進むとすれば、個人戦の決勝は、最短でも5年。つまり、5+5で「Saki-咲-」の完結までに最短10年はかかる計算になる。15年と言われても納得するしかない。となると、こちらが生きているうちに終わらんかもしれんと思い唖然とした次第である。わははは、最後は年寄りの愚痴になった。いやあ、「Saki-咲-」のラストシーンは生きてるうちに見られないないのか。まいった、まいった。(^^;
(「Saki-咲—」実写版で咲を演じ、「阿知賀」で咲の姉・照を演じた浜辺美波さんもそうなると30の大台超え。さすがにセーラー服は厳しいだろうなぁ。(^_-)-☆)
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wildboar

よく云われている論点ずらし、ですねえ(/・ω・)/
by wildboar (2020-10-10 08:07) 

KS 

咲 随分と長い話のようですがまあ見てみましょう。麻雀は好きですので。長編マンガの話分かりやすくて納得です。
by KS  (2020-10-10 08:36) 

アニマルボイス

>wildboar様
全く異なる次元の話なんだから、そのあたりはマスゴミもきちんと報道しないとだめですね。ガースーと一緒にパンケーキなんぞ食べている場合じゃないです。

>KS様
別に義務ではないので無理に見る必要はないですよ。

by アニマルボイス (2020-10-10 10:07) 

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