SSブログ

初七日を過ぎて・・ [名古屋]

 私事ですが、5月6日に弟が亡くなりました。
 5月12日の初七日を過ぎたので、今までブログに書くことのなかった弟のことを思いつくまま書いてみようと思います。まだまだ気持ちの整理がついていないので、意味不明のところが多々あるかと思いますが、今日のブログは、私が埋められない心の空洞を埋めるために思いつくまま書き散らしたものですのでご了承ください。1つの記録として自分のブログに残しておこうというあくまで私的なものですので、読者の方々にはどうぞスルーしてください。
 
 死因は、胃がんでした。
 すでに肝臓に転位も見られることから完治は難しいと告げられたのは、去年の1月半ばのことでした。慌てて名古屋に向かったのですが、弟は顔色もよく、「がんばるしかない」と力強く語ってくれました。数年前に心臓の手術をしているので抗がん剤の副作用が心配でしたが、その後、少しずつ痩せてはきたもののとくに大きく変わったところはありませんでした。今年1月17日の母の逝去のときも、2月22日の法事のときも普通に会話をし、法事が終わったあとも普通に会食しました。

 生家は取り壊すことにしたので後片付けのため私は数日滞在したのですが、東京に帰る日の朝も車を運転してやって来て、近くの弟行きつけの喫茶店にコーヒーを飲みに行きました(弟はアイスコーヒーが好きで季節に関係なくガムシロップ抜きのアイスコーヒーを飲みました)。今は医者に止められているが、春になったらまた釣りに行くんだと楽しそうに語っていました。そのあと駅まで送ってもらい、「納骨のこともあるしまた来るから」と、お互い笑顔で別れました。

 その後、弟からは家の取り壊しの件など普通に電話があったりしましたし、何も心配はしていませんでした。突然、容態があまり芳しくないという連絡が、弟の奥さんからあったのは4月下旬のことでした。ただ、このときはそれほど差し迫った感じはなく、一度元気づけに来て欲しいという感じだったので、とりあえず5月の連休明けにでも行くということで話は終わりました。ところが、5月4日になって再び弟の奥さんから電話が入り、その様子が唯事ではなかったので、急遽翌5日に名古屋へ向かうことにしました。

 病室で見た弟は、2月末に別れたときとは別人でした。肝転移の影響なのか黄疸症状が出ていて全体に皮膚が黄色く、目の白目の部分までもが黄色くなっていました。腹水もたまり、体を思うように動かすこともできず、苦しそうでした。「ああ・・・、これはもう助からない」と思うと、「来たよ」と言うのが精一杯でした。一刻も長く生きていてほしいという気持ちと、少しでもこの苦痛を和らげてやることはできないのか、という気持ちが交錯してうまく考えがまとまりません。何か言おうとしているので、「何?」と耳を近づけると、「兄貴、ごめんな」

 もう20年も前になりますが、父親が亡くなったとき、弟とは「親父の死んだ歳(76歳)よりは長く生きよう」と誓ったことを思い出したのでしょうか。それとも、わざわざ東京から来てくれて悪いなという気持ちだったのでしょうか。私は、前者だと思いました。「何も謝るようなことないぞ」と言った私自身胸が熱くなって弟のやせ細った手を握りました。

 5時から主治医が会ってくれるというので、弟の奥さん、長男とともに話を聞きました。最初の抗がん剤は効いたのだが、今年になってからの第2弾の抗がん剤はあまり効果がなく、第3弾の抗がん剤は1回はやったものの体力的な問題で中止になったというような説明がありました。こちらからの質問というか要望は、とこかく苦しがっているのだから痛みを和らげる薬の投与(増量)と、腹水を体力に影響の無い範囲で抜いて楽にしてやってほしいということと、今の状態でもう治療ができないのなら緩和病棟に移してほしい、ということ。これは了承してもらえたので、「先生の見立てで、あとどれくらい生きられると思いますか?」と、ずばり訊いてみました。答えは、「5月末か・・・(せいぜい6月の前半)」というものでした。

 医者の答えを、私は、5月後半にはもう危ない、と受け取りました。翌日も面会に来るつもりで病院のプレートを見ると面会は午後の2時からになっているので、カンファレンスに立ち会ってくれた看護士に明日は11時ころに来ることを了承してもらいました。その夜は弟の家に泊めてもらい、翌日、弟の奥さん、次男とともにまた病院に行きました。あいかわらず苦しそうでした。が、私が来たことは予想外だったようで、「また来てくれたんだ」とかすれた小さな声で言いました。「また来たよ」と手を握って応えました。そして、「また来るから」と言い残して、次男に駅まで送ってもらい、新幹線に乗りました。

 少しは仕事ができるかもとパソコンを持参し新幹線もコンセントがとれる窓際の席をとったのですが、全く仕事にならず。乗っている間も不安はますます大きくなるばかりです。邪魔かなとは思ったのですが、東京に着いてから次男の携帯に電話を入れてみました。すると、午後になって容態はさらに悪くなり、これから強い麻酔剤を注入するということでした。帰るのをもう1日2日延ばしたほうがよかったのだろうかと考えながら帰宅しました。私の携帯が鳴ったのは、その1時間ほど後のことでした。発信人は弟の次男。それだけで、もう何が起こったのかわかりました。電話に出たとたん、「今、逝きました」という次男の涙声が聞こえました。

 通夜、葬儀は心のこもったものでした。長男も立派に喪主をつとめました。その間、私は、私と弟とのことをいろいろ思い出していました。この1月に母を亡くし、5月に弟を亡くしたわけですが、そこには大きなちがいがあります。母は3年ほど前から認知が進み、また次第に自力で歩くことが難しくなっていました。トイレには杖をついて行っていたのが行けなくなり、ベッドの脇の簡易トイレを使うようになり、それも難しくなっておしめをするようになっていました。また、台所のテーブルで食事ができていたものが、ベッドの近くのソファでするようになり、さらにベッドでするようになり、この正月には介助がないと食事ができないようになっていました。歳も90を越えていて会う度に弱っていくのがわかりました。その間に、こちらも時間をかけて母の死に対する心の準備ができたわけです。20年前の父親の死は、心筋梗塞による突然のものでしたが、それでも76歳という平均寿命(当時)だからと自分を納得させることができました。

 しかし、弟の場合はちがいます。がんを告げられてから1年半近くあったとはいえ、自分より年下の肉親が自分より先に亡くなるという事実は無理矢理納得しようとしても、心のどこかが拒否してしまうのです。長い間にはもちろんいろいろなことがあったわけですが、どういうわけか楽しかったことしか思い出せません。もう少し医者がちゃんと見立てができていれば死に目に立ち会えたのに、とは思うものの時は巻き戻せません。最後に会えて話ができ本当によかったと思うことにします。まだまだ書きたいことはありますが、今はただ弟に、ありがとう、さようなら、とだけ言っておきましょう。
↓ガザニア 花言葉「あなたを誇りに思う」
ガザニア.jpg
↓シオン 花言葉「君を忘れない」
シオン.jpg
↓ダリア 花言葉「感謝」
ダリア.jpg
★最後に弟が好きだった中島みゆきさんの曲を何曲か。
↓わかれうた

↓時代

↓春なのに

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。