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睡眠薬代わり「長編小説」の前説(^^; [日記・雑感]

>NS様
 世の中には本当に暇な人がいるんですねえ。読んでみたいので送ってもらえないかというコメントが来てしまいした[がく~(落胆した顔)](コメントは承認制なので私が承認しない限り表示されません。読んだ後、削除しました)。まあ、送るのは別に問題はないのですが、素人の書いた「睡眠薬」のような退屈なものなんですが、どうしてもということならメールアドレスをコメントで知らせてください。アドレス確認後、メールはそのまま削除し、「睡眠薬」は、メールへの添付ファイルとして送ります。[たらーっ(汗)]
→NS様はじめ3名様に圧縮pdf.ファイル添付で送りました。どうぞ「睡眠薬」としてお使いください。(^^;

 GW進行中。
 といっても、コロナ様と無策の安倍様のおかげでどこかに出かけるという感じでもありません。せいぜい近くの公園まで散歩するくらいで終わってしまうのか。あ、公園も子どもが走り回っているのであまり行かないほうがいいのかも・・・。[バッド(下向き矢印)]
※本日のブログは100%自分宛の忘備録ですので、スルーしてください。m(__)m

ワスレナグサ.jpg
 高校時代に友人たちと同人誌ゴッコを始め、以来、大学、社会人と金がなくて暇なとき(意外に多い)には、遊びとして下手な小説など書いて時間を潰していたことは、以前にも書いた。この遊び、ともかく金がかからないというのが最大のメリットだ。
 コロナ騒ぎでパソコンに残されているデータや資料などを整理していたら、そんな昔の「長編」がいくつか見つかった。今、読んでみると、いやはや呆れ返るほど下手ですなぁ(^^;。
 学生時代に書き始めた「午後」という作品を含め、私が趣味として書いた長編小説は計7篇もある。よくもこんなに書いたものだと、我ながら感心する。よほど金がなかったのか、暇人だったのだろう。
 とはいえ、出来はともかくとして私にとっては貴重なものなので、作品本体は万一の場合も考えて複数のHDDにデータが残してあるのだが、以前、別のブログにアップした時の「前書き」はさすがに複数保存はされていない。しかし、私にとってはこれも貴重なものなので、HDDクラッシュ時の保険のためにこのブログにも「忘備録」としてアップしておくことにした。手直しはてしいないので、以下に書かれている拙文の「8年前」などの時制はアップしたときのもので、今(2020年)からするといずれも30〜20年ほど前のものであることを書き添えておく。
 いずれにしても、アホ小説を書いたりするのは、格安の暇潰しだと断言できる。ただ、どんなに下手な小説でもエッセーでも、何もないところに何かを書こうとすると、それなりの集中力とエネルギーがいる。そして、今の歳になると長編どころか短編小説を書くエネルギーすらない。[バッド(下向き矢印)]。仕方がないので、何作か暇潰しに読んでようかな。つまらなくても、それはそれで睡眠薬の代わりになるはずだ。(^^;

『フロム・ダークネス 復讐する死体』
 8年ほど前、会社を辞め、少ないとはいえ退職金ももらったので、すぐに生活に困るというわけでもない。いい仕事でもあったら紹介してくれよと何人かの知り合いに声をかけてはいたものの、当たり前のことながら「いい仕事」がそんなにすんなりと見つかるものではない。まあそのうち何か見つかるだろうと失業保険でのんびりと生活していた、今から考えると天国のようだった時期に暇つぶしに書いた作品である。
 とくにホラー小説を書いてやろうという意識はなく、原因はわからないが、あるときふっとラストの病室でのシーンを思いつき、これってけっこうビジュアル的に怖いかも、と遡って設定を考えたものだ。全体の設定ができると久しぶりに書いてみるかという気になり、一か月ほどで一気に書き上げた。書きながらある程度のつじつま合わせは考えたものの、あまり細部にこだわっていると素人故400枚(程度と計算していた)の長編は絶対にフィニッシュできない。とりあえず完成させることを目標にどんどん書いていったものなので細部で矛盾する部分もあると思うが(いや、間違いなくあるはずだ(^^;)、金をとっているわけでもないので、責任をとるつもりは全くない(きっぱり)。
 「リング」にしろ「デスノート」にしろ、あるいはスティーブン・キングの諸作にしろ、そもそもホラー小説はある部分に矛盾した設定を受け入れて始めて成立するものなので、そういった矛盾の指摘についても、受け付けない。
 長編を書くのは久しぶりだったので書きやすくするため主人公はとこかくカッコイイ奴というのを心がけた。カッコよくて、めちゃくちゃ強く、頭がよく、元エリートなのに腰が低く、思いやりがあって優しいという、まあそんな男は絶対にいないので、これが最も大きな矛盾であり絵空事と言えるかもしれない。で、そういった主人公を取り巻くのは特殊能力のある美人の妹と美人女優、中年の渋さを発揮する捜査一課長等々。醜男、ブスは一人も出てこない。いやあ、ベタですなぁ。
 こんな面々の周囲で四肢や臓器を盗られる殺人事件が連続するというという、今から考えると「おいおい」と言いたくなるような安易な作品なのだが、書いているときはむろんそんなことはわからない。素人が暇つぶしに書いたものなのだから、「おもしろくないぞ」「時間の無駄だったじゃないか」といったクレームについても受け付けるつもりはない。
 個人的には、この兄妹のキャラクターにはかなり愛着があり、三作ほどのシリーズにしたかったのだが、いい敵役を思いつかないうちにいくつか仕事が入るようになり、その忙しさもあって結局この一作だけで終わってしまった。今となっては、ちょっと残念な気もしている。
それほど長くもないし、とりあえずこれでも読んでみようかな。ただ、書いた当時は自分なりにおもしろいと思ったのだが、間違いなく独りよがりの自己満足だろう。20年も前のおぼろげな記憶しかないので今読めばスタンダール「恋愛論」のザルツブルクの小枝でもないが、退屈で眠くなる可能性大。しかし、それならそれで睡眠薬効果が期待できるかも(^^;)

『元城竜之進異聞帳 風魔異形伝』
 「復讐する死体」の次のアップを何にするのか迷ったが、少数とはいえ読んでくれている人もいるようなので、ネットでしちめんどくさい小説でもないだろうと思い(そういうものもいずれここに保管する予定なので、賢明な読者はそのときは読まないように)、これにした。他人にはどうでもいいような駄作でも作者にはそれなりに愛着があるもので、保管の順番は自信作からというものでもない。一回二万字までという制限があるため、分割アップするための準備ができたものからということになる。で、その準備の順番はというとそのときの気分ということになる。ただし、できるだけカテゴリ登録の順番にアップしていこうと思ってはいる。
 タイトルから連想できるように、チャンバラ小説である。一般的な「時代小説」という名称を使わないのは、チャンバラ小説であるとともに伝奇小説であり、ある意味SFでもあるという時代設定などめちゃくちゃというか、そんなものはなから考えていない小説だからである。
 そもそもシバレンこと柴田錬三郎と司馬遼太郎の時代小説をいくつかと白土三平の忍者劇画程度しか読んでいない人間に「時代小説」など書けるはずはないし、また書く気もない。不勉強者の居直りのように聞こえるかもしれないが、その通りである。私が書いた「時代小説」らしきものといえば唯一、「TOSHI」という新撰組の土方歳三の半生を描いた小説があるが(いずれアップ予定)、その時も「事実と違う」と何人かに言われた。「事実」とは何かなんて野暮なことは言わない。事実も何も、歴史書ではなく小説なんだから何でもありだろう。フィクションである小説で歴史の受験勉強をしようなどという者はいないはずである。いるとしたら悪いのは、作者ではなく、その受験生だ。と思うのだがなかなか納得してもらえない。そんなことを言い出したら東西の歴史書の古典中の古典、司馬遷の「史記」にも、ヘロドトスの「歴史」にも、おいおい本当かいなと思える記述が山とあるのだが……。
 書いたのは、もう十数年も前。だいたい小説などというものは書いているときは凡作・駄作のたぐいでもそれなりに苦しいものなのだが、購入したワープロ(という文明の利器がかつてあった)で書くのがおもしろくて、この作品に限っては思いつくままにすらすらと楽しく書けた記憶がある(そのことと作品自体がおもしろいかどうかは全く別物である)。ともかく痛快な小説を書こうと思って書き始め、その目論見はある程度成功したと思うのだがどうだろう、という自己満足作品だ。
 主人公が颯爽としていて強いのは当たり前で、この手の小説は敵が強ければ強いほど戦いが白熱しておもしろいのだが、その強さの秘密にちょっとした工夫がある(自画自賛(^^;;)。
 主人公の元城竜之進は読めばわかるように中里介山「大菩薩峠」の机竜之介、柴田錬三郎の眠狂四郎の流れをくむ人物であり、一言で言ってパクリなのだが、そもそも机竜之介あっての眠狂四郎なのだから、眠狂四郎あっての元城竜之進でいいのではないかと勝手に思っている。眠狂四郎にならって下手な濡れ場サービスなどもしてみた(^^;;。当初の予定ではこの元城竜之進を主人公にこの事件の前と後で計三作くらい書くつもりでいたのだが、強い敵というのをなかなか思いつかないので、これまた一作のみで終了。読まされる方にとっては幸いというべきかもしれない。

『彼らのための三章』
 人は、生涯に一つは「傑作」を書くことができる。それは、自分の話である。
 よく耳にする言葉である。自分のことは自分が一番よく知っているのだから、自分のことを書けばそれなりの作品ができる。なんとなく、そんな気がしてしまうが、こういうのを「大嘘」と言う。だいたい、岡目八目という言葉があるくらいで(どういう意味かわからない人は自分で調べてほしい)、自分のことを本当に自分がわかってるのかどうか、はなはだ怪しいと私は思っている。
 百歩譲って、もしそうだとしても「書く」という行為が介在する以上、果して「傑作」が書けるのかどうか、これまた疑問である。「書く」という行為には技術的な側面があり、その訓練なしに本当に他人に伝えられるようなものが書けるのかどうか。こう書くとすぐに、他人に伝えるために書くのではない、自分の半生を見直すために書くのだ、という反論が予想される。そういう向きには、作品とか小説などということは考えずに、毎日日記を書きそれを読み返した方がよほど実用的だと言っておこう。
 大統領になった、ノーベル賞をもらった、何人もの有名人のマネージャーをやった、ブラックジャックのような天才外科医である、何人もの人を殺した(^^;;、など普通とはよほど違った人生を送ってきた人でなくては、だらだら書かれた半生記など読む気がしないのが普通である。
 だから上の例のどれにも当てはまらない私は、最初から自伝など書くつもりはない。他人が読んでも多少はおもしろいものにしようと多少の努力はしてみたのだが、結果は明白。傑作とはほど遠いものになってしまった。この作品に登場する「彼ら」以外、読んでもたいしておもしろいものではないと思う。では、なぜそんなものを「保管」するのか?
 当然の疑問である。答えは、去年患った大病のせいである。幸い退院できたが、場合によってはもうこの世にいないということだって十分に想定できる病気だった。自分に明日はあるのだろうか? と考え出すと妙なことに過去の出来事があれこれ思い出される。そんなとき、すぐに思い起こされたのが、この作品だ。もう15年以上昔のワープロ時代の作品だが、そんな意味も含めて、やはり他とは少し違った愛着のある作品である。
 自伝風の体裁はとっているものの、少し読んでもらえれば関係者にはすぐにわかるのだが、これはせいぜい私の「一割」自伝である。なぜ「一割」なのかというと、そのまま書いてもおもしろい話にはならないのがわかっているからである。
 その内訳は、全く事実と違う話が約三割、事実なのだがかなりオーバーに脚色してあったり出来事のかなりの部分をカットしたりしているところが約四割、事実なのだが実はもっと後だったり先だったりそれがあった時期を入れ替えたり発言者が違ってているのが約二割、そしてほぼ事実通りなのが一割といった具合である。つまり、そのままの事実はたったの一割。甘く見積もってもせいぜい三割である。
 「彼ら」とは私を含めた友人たちのこと、三章は「邂逅の章」「混沌の章」「再開の章」の三章に分かれる。例によって字数制限のため各章は三分割してアップする。
 いつからなのか、おいおいと言いたくなるような荒唐無稽のテレビドラマの最後に「この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません」というテロップが出るようになった。以下にアップする小説についても同じことを書いておく。「この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません」

『TOSHI』
 これは土方歳三の物語である。世の中に土方歳三の出てくる小説は、それこそ万とあるし、彼を主人公にした司馬遼太郎の「燃えよ剣」は未だに売れ続けている。そこにあえてへたな小説を付け加える意味があるのだろうかと考えると、ない(きっぱり)。ただ、自分なりの土方に対する思い入れがある以上、私の自己満足のためにこの小説は存在価値をもつ、はずである(^^*。
 昔々のその昔、まだ白黒テレビを見ていたころ、「俺は用心棒」という時代劇をテレビでやっていた。どうせ黒澤「用心棒」のバクリだろうと思って見たら、まあそういった部分がないではないが、これが意外とおもしろい。用心棒が栗塚旭、相棒というか柔術(確か天地静大流とかいった気がするが自信はない。料理も達人だったので、もしかすると料理の流派名だったのかもしれない)の達人が左右田一平(ナレーションも)、そして時々顔を見せる新撰組の沖田総司が島田順司といった配役がなかなか決まっていた。島田順司といえば若い人には藤田まことの「はぐれ刑事」シリーズの眼鏡の貧相くさい課長のイメージしかないだろうが、なかなかどうして若いころは沖田総司ぴったりのはまり役だった。
 新撰組がけっこう重要な役割をしているなあと思っていたら、その次のドラマがそのものの「新撰組血風録」。沖田総司の島田順司とへんなおっさんの左右田一平はそのままに栗塚旭が副長の土方歳三役でこれがまたぴったり(近藤勇は舟橋元でこれも悪くない)。ただ、これはあとになってわかったことだが、司馬遼太郎の原作が時代順を無視した短編集だったこともあり、流れがつかみづらいことと、エピソードを水増ししたためもう一つおもしろいものではなかった。
 このトリオは次の「燃えよ剣」でも全く同じ役柄を演じたが、私は見なかった。「また新撰組か……」という気がしたからである(先年の三谷「新撰組」で土方歳三のおじさん役を栗塚旭が演じたのは、もちろん三谷の栗塚へのオマージュなのだが、果して何人の人がそのことに気がついただろう)。
 ところがである、学生になって友達と北海道に遊びに行ったら、なんと函館に「土方歳三・最後の地」というのがあるではないか。土方は近藤とともに千葉の流山で捕まり、打ち首にされたとばかり思っていた私は仰天した。
 いったい土方歳三って何者だったんだ?
 と書いてきて、ずいぶん昔の記憶なのでちょっと気になったので調べてみると、制作年度は「新撰組血風録」1965年→「俺は用心棒」1967年→「燃えよ剣」1970年になっている。私の記憶とは「新撰組血風録」と「俺は用心棒」の放送順序が逆。大昔のことなので記憶が混乱しているのか、名古屋では放送の順番が逆だったのか(当時、名古屋にはテレ朝、当時のNET系列つまり今の「メ〜テレ」がなく、系列局のあったTBS、フジの番組以外ではときどきあることだった)、それとも歳からくる単なるボケなのか?(^^*
 話を学生時代に戻す。
 北海道から名古屋に帰ると、そういう小説があることはもちろん知っていたので、司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでみた。おもしろい! めちゃくちゃおもしろいではないか(私は未だにこの「燃えよ剣」が司馬遼太郎の最高傑作だと信じて疑わない。このことは「彼らのための三章」にも書いた)。タイミングよくその少し後にドラマの「燃えよ剣」の再放送があり、今度は欠かさず見た。途中、ちょっとだれかかったが、鳥羽伏見の戦い以降はぐんぐんおもしろくなり、宮古湾海戦などもう少し予算があればなあと思わせる部分もなくはなかったが、全体としては期待を裏切らなかった(ただし、同じ栗塚旭が土方歳三を演じた映画の「燃えよ剣」は土方の新撰組以前を描いたもので、つまらなかった。やっば「新撰組の土方歳三」でなくっちゃネ)。
 子母澤寛の新撰組三部作や永倉新八の「新選組顛末記」(新撰組隊員その人の書いた本があると知ってすぐに買った(^^;;)など、いろいろな新撰組関係の本を読んでいくうちにフィクションとしての土方歳三のイメージは私の中でどんどんふくらんでいった。そして、ついにこんなものを書いてしまったのだ。
 この小説を読んで「史実と違う」と言った人がいるが、歴史を書いたのではなく、私のイメージとしての歳三を書いたのである。このほうが話がおもしろいぞとわざと嘘を書いたところも多くある(坂本龍馬と会ったり、宮古湾海戦のくだりなど)。だから「史実と違う」というとんちんかんな意見が出るだろうことは想定の範囲内だ。そういうことを言う人は司馬遷の「史記」や、陳寿の「三国志」、ヘロドトスやツキジデスの「歴史」、タキトゥスの「年代記」などについても、やはり「事実と違う」と言って読むのを拒否するんだろうなあ、「かわいそうに」と思うばかりである。ましてや、この「TOSHI」は小説である。フィクションである。事実と違ってどこが悪い、と居直ることにしよう。
 さて、時代はぐんと下りこの21世紀になり我が家のcatvの「時代劇チャンネル」で「燃えよ剣」が放送された。何十年ぶりかのことで楽しみに見た。が、最も驚いたのはこの作品がカラーだったことだ。当時の我が家のテレビは白黒だったため、当然白黒だっ思っていたのである。そういえば同じ栗塚の「俺は用心棒」シリーズも白黒なのだが、1本だけカラーで放送されたものがあって驚いた(第19話「眞葛ヶ原にて待つ」)。この勘違いは最近スティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」でも体験した。多分、私が白黒だと思っていて実はカラーの作品はまだまだたくさんあるのだろうと思う(^^;;)。……と、またまた脱線しそうなので、どうでもいいような前説はこれで終わることにする。

『陽炎(かげろう)TAKE2』
 「かげろうテイクツー」と読みます。東MAXとは全く関係ありません。私が書いた唯一の長編恋愛小説です(下にも書いたようになにぶんにも古い作品なのでちょっとだけ手直ししたということもありますが、なぜ「TAKE2」なのかは最後まで読んでいただければわかるはずです。←ネット人口3000万として1000万人に1人、まあ3人は読んでくれるだろうと楽観的予想)。
 「彼らのための三章」にも書いたのですが、「午後」という800枚近い長編を書いたのはもう30年以上も前のこと。その後しばらくは何も書きませんでした。なんとなく「創作」という遊びに疲れたのか飽きたのか、あるいは次に書きたいテーマが見つからなかったのか、今となってはわかりません。いや、見つからなかったというより自分の中に見つけようとしなかったというのが正確なところでしょうか。
 当時の友人たちとの交流は今も続いていますが、遊びとはいえ高校時代からやってきた同人雑誌が終了し、書き続けてきた長編もとりあえず脱稿し、一区切りついたなあと思ったことは確かです。気がつけばもう「創作遊び」にうつつを抜かしている歳でもない。にもかかわらず自分と向き合って何かを書き続けていくのはちょっとシンドイなあ……ということで書かなかったし、書けなかったし、書く気もなかったのだろうと思います。
 別にへたな小説など書かなくても生活に困ることはあまりせんので、そのままだらだらと何年も過ぎてしまったわけです。それが復活したのは、ひとえにワープロのおかげ。初めはとても手の出る値段ではなかったのですが、ある日、金融ディスカウントショップでシャープ・ワープロ書院(WD-A330)が99800円で売られているのを見て、ちょっとおもしろそうだからとつい買ってしまいました。10万円近い買い物をして使わないのでは家人の反応が怖い。とりあえず生まれて初めてのキーボードになれるためいろいろいじってはみたのですがどうにもおもしろくない。そのとき「これで小説を書くといいのではないのか」という考えがひらめいたのです。
 で、試しに「五年間の怒り」という400字詰め原稿用紙に換算して50〜60枚くらいの短編を書いてみました。10年以上ぶりだったこともあり、自分でも驚くほど出来の悪い小説でしたがワープロを使うと書き直しが自由自在というのがとても気に入りました。というのも、素人の悲しさ私の場合一度できちんと書けないため、せっかく書いても推敲するとぐじゃぐじゃになってしまうのです。仕方なく原稿用紙を切り貼りしたり、最初から書き直したりすることがけっこう心理的に負担だったのですが、話ワープロだとそれが簡単にできる。このことがかなり大きいかったと思います。
 ちなみに私は当時から今に至るも「日本語入力」なのですが、これはたとえば「私」と打つとき「わたし」ではなく「WATASI」と頭の中で変換しているとその間にせっかくのイメージが消えてしまうためでです。そして、どんなにへたな小説でも、私は、イメージなくしては書くことはできません。なお、WD-A330は20000字までしか内部記憶ができず、2000字を越えると一度フロッピーディスクに移して内部を空にしなければならないというシロモノだったので、長編の場合、「区切り」が大変でした。
 どうでもいいような話が長くなりました。
 ともかくそんなわけで20000字の範囲内でいくつか思いつくままに短編や雑文を書いたのですが、そうそうアイデアが出るわけでもなし、体質が多分長編に向いているのでしょう、なんとなく物足りなさを感じるようになったわけです。そこで、「よーし」と2000字になるたびにFDに保存しながら最初に書いた長編がこの「陽炎(かげろう)TAKE2」です。なんと、なんと、恋愛小説です(^^;。久しぶりの長編ということもあり、書くこと自体がたのしく、あまりしっかりした構成も考えず思いつくままにどんどん書いていき、書き終えて「あれれー、これはもしかしたら恋愛小説ではないか」と驚いた記憶があります。なぜこういうものを書いたのか、もう20年も前のことなので全く覚えていません(ちなみに、私が書いた恋愛小説は、この長編のほかには短編が二つほどあるだけです)。
 その後、パソコンに移行するにあたって各種ワープロの文書を読み込める機能があるFUJITU-OASYSを持っている友人宅に行き、テキスト変換してもらいました。ところが、どういうわけかある部分が突然文字化けしていたりということもあり、気がついたところは適当に直しておいたのですが思い出せない部分は残念ながらカットしてしまいました。今回の分載にあたりざっと見直してみたが見落としがあるかもしれません。読んでみようという奇特な人は万一文字化けを見つけたら怒ることなく想像力を働かせて読み進めていってください。
 ところで、読んでいただければわかるように、恋愛小説とはいっても、まあ普通の恋愛小説はかなり違っているのも事実である。ミステリとして読んでいただいても、ファンタジーとして読んでいただいてもOK。読む人の自由でです。
 くどいようですが、久しぶりに書いた長編小説ということもありちょっと堅いし、展開はぎこちなく、古くさい部分も多くあります。今回のアップにあたってざっと読み直してみたら、ここはもう少し違う書き方があっただろうとか、説明不足でわかりにくいとか、ここの展開は無理があって下手だなあと思ったりしたところがずいぶんありました。それでも、これはやはり私にとって思い出の作品であり、バックアップしておく価値は十分にあると思っています。
 時代は移り、昨今、こうした形式の恋愛小説あるいは映画がそれなりに話題になったりしています。そして、(読んではいないがそうした作品は、ずっとうまく書かれているのだろうと思うのですが)下手は下手なりに、20年近くも前にこういうものを書いていたということは、私の密かな自慢でもあるわけです。(^o^)

『幻影の過去』
 今回かなりの長期に渡ってアップしていく作品はこのブログの当初からの方針通り「保管」目的のものである。単なる下書きであり、しかも長いものなので、読まないほうがいいことをまずお断りしておきたい。
 20年も前に書いた、それも草稿(下書き)などというものは、第三者にとってまず何の価値もないと断言していい。書いた本人の私が言うのだからこんな確かなことはない。
 では、なぜそんな価値のないものをわざわざアップするのか。
 言うまでもなく2007年末のパソコンのクラッシュである(2009年にも修理した同じパソコンがまたまたクラッシュして、ついに廃棄処分となった)。ノートパソコン本体とバックアップのハードディスクが同時にクラッシュするとは全く予想もしていなかった。確率としてはそれこそ1万分の1かそれ以下だと思う。しかし(原発でしばしば事故が起こるように)全くないということではない。それが起こったのである。幸い外付けのバックアップHDのデータは復旧できたものの、ノートパソコンのデータは復旧できず初期化(イニシャライズ)せざるを得なかった。つまり、ノートパソコンのデータはすべて永久に失われてしまったのである。
 デジタル時代の宿命とはいえ、恐ろしいことである。
 そんなとき、「助かった」と思ったのが、このブログの存在である。ブログを立ち上げるとき「HDクラッシュ時の危険分散のための雑文や小説などの置き場です」という位置づけはあったものの、それが本当に役に立つとは思っていなかっただけに実にありがたかった。と同時に思い出したのが、この「邂逅三部作」の存在である。もう20年も前にシャープのワープロ「書院」(昔、ワードプロセッサーというものがあったのです)で書いたものである。ワープロを買ったうれしさで、ラストのイメージだけはあったがとりあえず下書きのつもりで適当に書き進んでいったらとてつもなく長いものになってしまった。その長さには自分でも驚いたくらいで、400字詰め原稿用紙に換算したらおそらく1200枚はあると思う。もちろん私の書いた最長の小説である。サラリーマンをやりながら、暇を見つけてはコツコツと書いていたのだから、よほど暇もあったのだろうが、気力と体力もあったのだと思われる。なんせ、20年前ですから。
 が、完成直後に読み直してみると(ざっとですが、一度だけ読み直してみたのです)話に矛盾があったり、展開に無理があったり、登場人物の性格が不明確だったり、下書きならでは(!)の不備が気になった。「これはきちんと書き直さないといけないな」とは思ったものの、やっと完成してそこから解放されたいという気持ちが強く、すぐに取りかかる気にはなれない。それに、なんといっても1200枚もある。下書きとはいっても1年近くはかかっているのだから、少なくとも2〜3か月は期間集中して推敲することを覚悟しなければならないだろう。その覚悟がなかなか定まらないうちに1年たち2年たち……ワープロはすっかり過去の遺物となり、世はパソコンの時代に突入してしまった。
 大変なことになった。
 ワープロは(今のウインドウズとかマック、あるいはリナックスなどのような)とくに統一規格のようなものはなく各社が勝手に作ったOSで動いているので、たとえばシャープのワープロで作成したデータは、そのままではNECや富士通のワープロでは読めない。もちろん、パソコンでも読めない。もしかしてこの作品が読めなくなってしまうかもしれない。下書きとはいえ、これはある意味衝撃だった。幸い知り合いが富士通のOASISというワープロを持っていて私の「書院」より新しい機種だけあって各社のワープロデータをMS-DOS(ウインドウズの前のマイクロソフトのOS)テキストに変換できるという最小限の互換性機能をもっていることがわかった。大急ぎで彼の家に行き、テキスト変換してフロッピーディスク(というディスクが昔あったのです)に保存した。
 それから十数年(きみまろかっ!)。
 とまれ、ブログにアップされていなかったもののフロッピーディスクに保存されていたために「邂逅三部作」はパソコンクラッシュという大惨事での消失を免れた。
 とはいえ、私自身、フロッピーディスクの読み込み・書き込み不能を何度も経験している。フロッピーディスクの時代を経験した人ならフロッピーディスクというものがいかに保存に適さないものか知っているはずである(腹立ち紛れに読み込み不能になったフロッピーディスクを分解したことがあるが、あんなペナペナなものに保存するということ自体が間違っている)。そもそも、最近のパソコンにはフロッピーディスクのドライブなんぞはついておらず、ドライブがついているのは我が家に数台あるMACでも最も古いPM7500という機種だけである。しかも、そのPM7500の調子が最近悪い。時々、立ち上がらないことがあるのだ。恐ろしいことである。
 今回、バードディスクに取り込み初めの部分を少し読んでみた。上に書いたような下書きならではの欠点に加え、全体の筋道が決まっていないためどう進めていこうかというぎこちなさがまず気になった。さらにゲノムがES細胞だIPS細胞だという時代になり人型ロボットもかなり現実になりつつ今となってはとくに科学的な部分で書かれていること自体がやや、いやかなり時代遅れであることも否めない。そうした部分を手直しするのは、はっきり言って不可能である。それなら別の小説を書いたほうがはるかに簡単だし早い。が、そのエネルギーも時間も今はもうない。
 今後、何か書くことがあったとしても、おそらくこの下書きを完成させようということはないだろう。書くのなら根本のテーマをふまえて別の話を書くことになると思う。それでもこの下書きの生みの親として、消滅の危機からは守りたいとという気持ちは昨年末のクラッシュ以来強くなっている。個人の記録として自分のブログに保存するのにとやかく言われる筋合いはない。
 「邂逅」は三部に分かれ、1部「幻影の過去」、第2部「迷走の現在」、第3部「茫漠の未来」からなる。果して一人でも読む人がいるのかどうかはなはだ疑問だが、私にとっては思い出のある作品であり「保管」という本来の目的からもアップしておく。
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